厳島の戦い―人殺しの手
天幕の入り口で、私は立ち尽くした。
灯明の微かな光が照らし出していたのは、私が知る「雫」の面影をかき消すほど、深い絶望に沈んだ一人の「人斬り」の姿だった。
彼女は先程隆景に対して小姓として話をしていた時とうってかわって、天幕の最も暗い隅にうずくまり、膝を抱えて自分の体を限界まで小さく丸めている。
その指先は、さきほどから何度も、何もついていないはずの自分の手のひらを、狂ったように布で拭い続けていた。
「雫……。もう、その辺りでよさないか。手が真っ赤だぞ。」
私が一歩歩み寄ると、彼女の肩が激しく跳ねた。
だが、彼女は私に刃を向けることはなかった。代わりに、彼女は這いつくばるようにして、私から遠ざかろうと後ずさった。
「……こ、来ないで……っ! 隆元様、そこに……そこで止まってください……っ!」
悲鳴に近い拒絶。
彼女は私に牙を剥いているのではない。自分という「汚れ」が私の直垂に、私の肌に触れてしまうことを、死ぬほど恐れているのだ。
「私は……、私はもう、隆元様が知っている雫ではありません……。ずるりとした、あの、嫌な感触が……、私の手の中に棲みついてしまったんです……」
彼女は震える両手を自分の視界から隠すように、胸元に強く抱きしめた。
私を傷つけないために。
自分の内側に宿ってしまった「人殺しの獣」が、私の光を食い潰してしまわないように。
彼女は、私を嫌っているのではなく、私という「清浄な光」を、今の自分から必死に「警戒」して守ろうとしている。
「雫、お前は何も変わっていない。私を守ってくれた、勇敢な私の小姓だ」
「違います……っ! 私は、自分の手が……気持ち悪いんです……っ!!」
彼女はついに、顔を覆って泣き崩れた。
それでも、私の手が触れそうになると、彼女は反射的に身を引く。
まるで、自分が「毒」であると信じ込んでいるかのように。
「……いいか、雫。お前が自分を汚れた道具だというのなら、その道具を握り続けたのは、この私だ」
私は、彼女が逃げられないように、逃げ場を塞ぐようにして、その震える体を正面から力強く抱き込んだ。
彼女の喉がヒュッと鳴り、全身が硬直する。
「汚れる」「触れてはいけない」という彼女の拒絶の叫びが、私の胸板を通じて伝わってくる。
「隆元様……っ、だめ、……汚れてしまう、私のような、こんな……人殺しの手が……っ!」
「汚れてなどいない。……もし汚れだというなら、私がすべて吸い取ってやろう。……お前の罪も、その手の感触も、すべて私のものだ。……だから、もう自分を責めるな。お前を『雫』として繋ぎ止めるのは、私の役目だ」
私の腕の中で、彼女の「張り詰めていた警戒」が、ようやくプツリと切れた。
硬直していた体がふにゃりと崩れ、彼女は私の胸元で、子供のように声を上げて泣き始めた。
あんなに拒んでいた彼女の手が、今は私の背中を、縋り付くように強く、強く掴んでいる。
「……ぁあ、あ……ぅ……隆元様、……隆元様……っ!」
雨音にかき消されるような、小さな、けれど切実な叫び。
私は、彼女の冷え切った背中を、温もりが戻るまで何度も撫で続けた。
彼女を「道具」に戻してはならない。
たとえ今夜、彼女と一緒に地獄の淵まで沈むことになったとしても。




