表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鼓星  作者: 吉川元景
111/134

雫の初陣(隆元目線)

視界を叩く雨脚が強まり、敵味方の区別すら曖昧になる。

その泥濘ぬかるみの中で、私の前に躍り出た背中は、驚くほど細く、そして硬かった。

「……雫……っ」

喉まで出かかった言葉を、飛んできた飛沫が遮る。

雫が動く。産後の体は、一歩踏み出すたびに重く沈んでいるはずなのに、その動きには一切の躊躇がなかった。

彼女の放った小太刀が、敵の喉元を正確に貫く。

――ああ。

伝わってきた。

彼女の指先が、肉を断つ感触に一瞬だけ跳ね、その細い肩が微かに震えるのを、私は見逃さなかった。

「げほっ」と、何かに耐えるような、短い、潰れた悲鳴。

彼女が今、足元に転がった死体から、何を必死に奪い返そうとしているのかが分かる。

自分の犯した「人殺し」という罪から、胃の底からせり上がる拒絶から、彼女は必死に目を逸らそうとしている。

すまない、雫。……私のために、君をここまで追い詰めてしまった

私は、刀を抜こうとして、自分の手が情けなく震えていることに気づく。

雫が、私の代わりに「汚れ」を引き受けている。

彼女は今、自分を「小姓」という名の器に押し込め、ただの「道具」になろうとしているのだ。

私という無能な男を守るために、彼女の少女としての心を、厳島の泥の中に捨てようとしている。

「雫! 下がれ、それ以上は――!」

叫びは、またも雨音にかき消された。

彼女は振り返らない

唇を血が出るほど噛み締め、鬼気迫る表情で次の敵を見据えている。

その瞳には、もう光はない。

私を、毛利を、未来へ繋ぐためだけの、冷徹な刃の光。

……君の魂が削れていく音が聞こえるようだ

周囲の将兵たちが、泥にまみれて戦う彼女の姿を見て、「小姓に負けるな」と士気を上げている。

皮肉なものだ。

彼らが「戦神」と崇めるその少年の内側で、一人の女の子が、人殺しの気持ち悪さに震え、泣き叫んでいるというのに。

私は、彼女の背中に向かって、ただ心の中で謝り続けるしかなかった。

君が「道具」になるというのなら、せめて私は、君が帰る場所でありたい。

この戦が終わった後、その血に汚れた手を、誰よりも先に私が抱きしめて、一緒に地獄へ落ちてやろう。

「……雫、死ぬな。……私を、一人にするな」

私は震える手で刀を握り直した。

彼女が私の「影」であるというなら、私はその影を、決して独りにはさせない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ