雫の初陣(隆元目線)
視界を叩く雨脚が強まり、敵味方の区別すら曖昧になる。
その泥濘の中で、私の前に躍り出た背中は、驚くほど細く、そして硬かった。
「……雫……っ」
喉まで出かかった言葉を、飛んできた飛沫が遮る。
雫が動く。産後の体は、一歩踏み出すたびに重く沈んでいるはずなのに、その動きには一切の躊躇がなかった。
彼女の放った小太刀が、敵の喉元を正確に貫く。
――ああ。
伝わってきた。
彼女の指先が、肉を断つ感触に一瞬だけ跳ね、その細い肩が微かに震えるのを、私は見逃さなかった。
「げほっ」と、何かに耐えるような、短い、潰れた悲鳴。
彼女が今、足元に転がった死体から、何を必死に奪い返そうとしているのかが分かる。
自分の犯した「人殺し」という罪から、胃の底からせり上がる拒絶から、彼女は必死に目を逸らそうとしている。
すまない、雫。……私のために、君をここまで追い詰めてしまった
私は、刀を抜こうとして、自分の手が情けなく震えていることに気づく。
雫が、私の代わりに「汚れ」を引き受けている。
彼女は今、自分を「小姓」という名の器に押し込め、ただの「道具」になろうとしているのだ。
私という無能な男を守るために、彼女の少女としての心を、厳島の泥の中に捨てようとしている。
「雫! 下がれ、それ以上は――!」
叫びは、またも雨音にかき消された。
彼女は振り返らない
唇を血が出るほど噛み締め、鬼気迫る表情で次の敵を見据えている。
その瞳には、もう光はない。
私を、毛利を、未来へ繋ぐためだけの、冷徹な刃の光。
……君の魂が削れていく音が聞こえるようだ
周囲の将兵たちが、泥にまみれて戦う彼女の姿を見て、「小姓に負けるな」と士気を上げている。
皮肉なものだ。
彼らが「戦神」と崇めるその少年の内側で、一人の女の子が、人殺しの気持ち悪さに震え、泣き叫んでいるというのに。
私は、彼女の背中に向かって、ただ心の中で謝り続けるしかなかった。
君が「道具」になるというのなら、せめて私は、君が帰る場所でありたい。
この戦が終わった後、その血に汚れた手を、誰よりも先に私が抱きしめて、一緒に地獄へ落ちてやろう。
「……雫、死ぬな。……私を、一人にするな」
私は震える手で刀を握り直した。
彼女が私の「影」であるというなら、私はその影を、決して独りにはさせない。




