雫の初陣(雫目線)
視界の端が、雨と貧血で白く爆ぜる。
生温い泥の感触が足袋を通じて伝わってくるけれど、今の私にはそれを不快に思う余裕すらない。
……一歩。あと一歩、前へ。
肺が焼けるように熱い。呼吸を吸い込むたびに、下腹部に刺すような激痛が走る。
一月、徳鶴丸を産んだ時のあの痛みが、冷たい雨に冷やされて、鋭い刃物のように私を内側から切り刻んでいる。
けれど、そんなものは今の私には関係ない。
私は今、毛利家当主・隆元様の小姓だ。
この人が、暗闇の中で「家運は尽きた」と震えながら筆を走らせる夜を、私は知っている。
この人が、偉大な父上と優秀な弟たちの間で、どれほど孤独に、どれほど必死に「毛利」を背負おうとしているか、私だけが知っている。
「……はぁっ、……っ!」
正面から、血の匂いを纏った影が二つ、こちらへ向かってくる。
隆元様が刀を抜こうとする微かな衣擦れの音が聞こえた。
――させない。
この人の手は、戦の血で汚すには、あまりに優しすぎるのだから。
私は隆元様の一歩先へ、滑り込むように踏み出した。
産後の重い体を引きずるようにして、重力を利用し、一人の膝を砕く。
崩れた相手の頸動脈へ、迷いなく小太刀を突き立てた。
指先に伝わる不快な振動。
あ…。
小太刀を突き立てた瞬間、手首から伝わってきたのは、想像していたような乾いた衝撃じゃなかった。
もっと、ずるりと、温かくて重い——生きている人間だけが持っている「肉」の抵抗感。
それが、私の腕を伝って脳まで直接突き刺さる。
「……っ、げほっ。」
喉の奥から、酸っぱい塊がせり上がってくる。
さっきまで私を殺そうと叫んでいた男が、今はただの「物」のように私の足元に崩れ落ちている。
雨に流される前の血の匂い。鉄のような、生臭い、肺にまとわりつくようなあの匂い。
私が……。私が、今この人の人生を、今、終わらせたんだ
教科書で習った「命の尊さ」なんて、この雨の中では何の役にも立たない。
ただ、自分の指の隙間にこびりついた、自分のではない温もりが、あまりに気持ち悪くて、今すぐこの両手を切り落としてしまいたくなる。
震えが止まらない。
膝が笑って、泥の中に吸い込まれそうになる。
「……雫!」
隆元様の声。
その声で、私は反射的に顔を上げた。
だめだ。ここで私がうずくまったら、隆元様が死ぬ。
私がこの「気持ち悪さ」に負けたら、毛利が、歴史が、壊れてしまう。
見ない。……感じない。……私は、刀だ。私は、道具だ。
無理やり脳のスイッチを切り替える。
人間としての感情を、冷たい雨の底に沈めて、自分を「ただの殺戮機構」だと思い込ませる。
吐き気は、唇を血が出るほど噛んで、その痛みで上書きした。
手の平に残る、あの「ずるり」とした感触。
それは消えない。一生、私の掌の奥にこびりついて離れないんだろう。
でも、私はそれを引きずったまま、次の影へと踏み出さなきゃいけない。
……大丈夫。まだ、動ける。私は、この人の影だ。
「雫! 下がれ、それ以上は――!」
後ろから聞こえる隆元様の悲鳴を、意識の外へ追いやる。
今、私が「雫」に戻って、一人の女として、母として、この痛みに向き合ってしまったら、きっとその瞬間に私は崩れ落ちてしまう。
今の私は、名前も性別も持たない、ただの「隆元様の小姓」でなくてはならない。
雨が強くなる。
隣で戦う将兵たちの士気は、泥にまみれて戦う「隆元様の小姓」の姿を見て跳ね上がっている。
「小姓に負けるな!」という怒号が、雨音をかき消していく。
意識が遠のきそうになるたび、唇を強く噛んだ。
口内に広がる鉄の味が、私に「今」を思い出させる。
……景様、春様。……そして、隆元様。……毛利は、私が守ります。たとえ、この戦が終わった後、私の魂がどこにも残っていなかったとしても…。
視線の先に、また新しい影が揺れた。
私は震える手で刀を握り直し、ただ冷徹に、次の「仕事」へと踏み出した。




