得体の知れない恐怖
吉田郡山城を包む夏の夕闇。練兵場に立つこの小姓の姿は、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。
「……雫。お主、ここ数年で三度も死にかけたその身体で、何を言うか」
私は、己の木刀を握る手に思わず力が入った。
三度だ。死の淵を三度も彷徨い、ようやくこの春、土俵際に踏み止まったばかりではないか。それなのに、この者は今、あろうことか戦い方を教えろと抜かした。
たまに体調を崩し寝込む時だってあろう
私は、雫の青白い首筋を見る。枯れ枝のように細い指先を見る。
……死なせたくない。
この者は、殿のお子たちの厄をその身に引き受ける尊き者。それ以上に、殿がその存在にどれほど救われているか、側近である私が一番知っている。
「吉田郡山にいれば、お主の身は安全だ。……それが、私や……そして殿の願いでもある」
祈るような思いで、戦からの「逃げ道」を提示した。だが、雫がゆっくりと顔を上げた瞬間、私は言葉を失った。
その瞳に宿っていたのは、衰弱した病人などではない。
すべてを焼き尽くし、己をも灰にするような、どす黒く、澄んだ狂気の炎。
「……教えてください、赤川殿。隆元様を死なせないための、人殺しの技を」
凄まじい気迫だった。
自分の命など、この者は端から勘定に入れていない。
かつて毛利を支えてきた老将たちの瞳に宿っていた、あの「滅私」の覚悟。いや、それよりももっと鋭く、純粋な殺意。
……この者は、将来、毛利の刃になる。
私は本能で悟った。ならば、止めることはできぬ。
「…………。……拾え」
足元に木刀を放り投げる。それが私にできる、精一杯の手向けだった。
雫が泥にまみれた木刀を拾い、構える。
その瞬間、私の背筋に、今まで経験したことのないような不気味な戦慄が走った。
これまで多くの武芸者と立ち合ってきたが、こんな立ち姿は見たことがない。
戦国の武士ならば、どっしりと腰を落とし、足裏で地を掴むはずだ。
だが、雫の立ち方は違う。
重心が浮いているようでいて、どこにも無駄な力みがない。まるで、全身がしなる鞭のように、完成された異質な「理」でそこにある。
特にその足元だ。
膝の抜き方、腰の据え方……淀みのない足捌き。
一歩。
ただ、踏み出しただけのはずだった。
それなのに、雫の体は、私の目測を遥かに上回る速さで滑り込んできた。
……速い! 重心移動だけで、これほどまでに加速するのか!?
私が木刀を振り下ろすより先に、雫の影が私の懐に滑り込む。
それは、力任せの突進ではない。
全てを味方につけた滑らかな死の舞。
「っ、おのれ……!」
儂は思わず後ろへ跳び退いていた。
今にも折れそうな、青白い顔の小姓を前にして、私は……この赤川元保は、本能で「死」を予感し、怯えたのだ。
……何を。何を、この小僧に怯えているのだ……!?
雫の瞳に、迷いはない。
そこにあるのは、ただ「殿を守る」という一点のみに特化し、己の全てを脱ぎ捨てたような姿であった。
喉元に突きつけられた「死」の予感に、私の喉が引き攣るように鳴った。
……信じられぬ。
この者は、剣筋を競うているのではない。ただ、最短で私の命を絶つための「道」だけを見ている。
私は震える呼吸を無理やり整え、木刀を握り直した。
「……雫。今の動き、どこの流派だ。……いや、よそう。お主がどこの誰であろうと、今、その牙が殿を守るために剥かれたというのなら、私はそれを信じるだけだ」
私は一歩、あえて雫の懐へ踏み込んだ。
今度は手加減などできぬ。この「異質な刃」を御するには、私もまた、一人の武士として命を懸けねばならぬ。
「お主の動きは速い。だが、細い。一度太刀を絡め取られれば、その細腕ごと叩き折られるぞ。……いいか、雫。貴殿に足りぬのは、泥を舐めてでも生き残る執念だ」
私はわざと冷たく、突き放すように言い放った。
雫の瞳が、僅かに揺れる。
そうだ。お主は「神聖な小姓」などではない。殿を守り、敵を屠るための「毛利の牙」だ。
「明日からは、貴殿を客分とは思わぬ。……三度死にかけたというのなら、四度目は私が殺してやる。その地獄を潜り抜けた先でしか、厳島の戦は凌げぬと思え」
「……っ、はい……! お願いします、赤川殿!」
泥だらけの顔を上げ、再び構えをとる雫。
その足元は、先程よりもさらに深く、滑らかに地を滑る。
再び木刀を大きく振りかぶった。
夕闇が完全に夜へと溶けるまで、練兵場には乾いた打撃音と、命を削るような少年の呼吸が響き続けた。




