【Side: クラスメイト】 ユウの消失
煙が晴れ始めていた。
英雄聖堂の中庭には、まだ焦げた匂いが漂っている。石畳の一部が砕け散り、壁には魔法の直撃による亀裂が走っていた。
高嶺澪は、煙の中を歩き回っていた。
目を凝らしても、視界は白く霞んでいる。喉が痛い。目が沁みる。でも、止まれなかった。
「黒瀬くん!」
声が、枯れ始めていた。
何度呼んでも返事がない。どこにもいない。
あの瞬間、ユウは確かにいた。
病院を抜け出して、聖堂まで走ってきて。鏡を使って、ヴェリナの魔法を逸らして。あの魔法が地面に直撃した時、衝撃波で——
その先が、思い出せない。
煙が酷くて、何も見えなかった。悲鳴と怒号が飛び交って、誰がどこにいるかもわからなくなって。気づいた時には、ユウの姿がどこにもなかった。
「澪!」
後ろから、篠原由依の声がした。
「まだ見つからない?」
「……ううん。どこにも」
澪は振り返った。由依の顔も、煤で汚れている。彼女もずっと探していたのだろう。
「穴の近くにはいなかった。シュナイダー団長たちが調べてるけど……」
穴。
ヴェリナの魔法が直撃して開いた、巨大な穴。
聖堂の床を抉って、遥か下まで続いている。底が見えないほど深い、暗い穴。
まさか——
その考えが頭を過ぎって、澪は首を振った。
違う。そんなはずがない。ユウは、きっとどこかで倒れているだけだ。煙で見えなかっただけだ。
「玲央たちも探してる。大丈夫、すぐに見つかるよ」
由依が、澪の肩に手を置いた。
その手が、微かに震えていた。由依も、不安なのだ。
◆
中庭の反対側では、神崎玲央が騎士たちと話していた。
「黒瀬は見つかったのか」
「いえ、まだです。煙が酷くて、混乱の最中に何が起きたか——」
騎士の報告を聞きながら、神崎は唇を噛んだ。
あの時、自分は何をしていた。
ヴェリナと戦っていた。でも、歯が立たなかった。《聖剣》を振るっても、魔法障壁に阻まれて。人間に似た姿の魔族相手に、斬り込むことすらできなくて。
そこへユウが現れた。
病院にいるはずのユウが、傷だらけの体で走ってきて。鏡を使って、魔法を逸らして。
また——また、ユウに助けられた。
「くそ……」
拳を握りしめた。
悔しさと、焦りと、それから——罪悪感のようなものが、胸の中で渦を巻いていた。
「玲央」
声をかけられて、振り向く。
風間悠斗と坂下恒一が、こちらに歩いてきていた。
「穴の周りを調べた。深すぎて、底が見えない。騎士団の探知魔法でも、反応がないらしい」
坂下が、淡々と報告した。いつもより少しだけ、声が硬い。
「反応がない?」
「穴の下は、古いダンジョンの深層に繋がっているみたいだ。魔力が濁っていて、探知が届かない」
風間が、険しい顔で付け加えた。
「……まさか、黒瀬があの穴に落ちたってことは——」
「わからない。でも、他に行方不明の生徒はいない」
神崎は、穴の方を見た。
騎士たちがロープを垂らしている。でも、誰も降りようとしない。降りられないのだ。あまりにも深くて、何がいるかわからなくて。
「降りられないのか」
「深層に繋がっている可能性がある以上、安易に降りるのは危険だと……シュナイダー団長の判断だ」
坂下の言葉に、神崎は何も言えなかった。
正しい判断だとわかっている。でも——もしユウがあの下にいるなら。
その時、聖堂の入口から、一人の人影が現れた。
◆
レオノーラ・フォン・グランヴァルト。
この国の第一王女。
金髪が風に揺れている。翠の瞳には、いつもの穏やかさの代わりに、深い憂いが宿っていた。その後ろには、数名の騎士が従っている。
「シュナイダー団長」
レオノーラが駆け寄ってきた。王女らしからぬ、切迫した足取りだった。
「状況を教えてください。皆さんは無事ですか」
「殿下。ヴェリナと名乗る女魔族の襲撃を受けました。騎士団が応戦しましたが、撃退には至らず。魔力切れで自ら撤退した模様です」
シュナイダーが報告した。
「被害は」
「重傷者が三名。いずれも騎士団員です。異世界人の方々に死傷者は——」
シュナイダーの言葉が、一瞬止まった。
「……一名、行方不明者がおります」
「行方不明……?」
レオノーラの顔色が変わった。
「黒瀬ユウ。魔法の直撃で開いた穴の近くにいたと思われます。現在、捜索中ですが……」
「黒瀬さん……」
レオノーラが、穴の方を見た。その表情には、政治家としての冷静さではなく、年相応の——誰かを心配する少女の顔があった。
「穴の下はダンジョンの深層に繋がっており、探知魔法も届きません」
「降りることは……」
「深層の魔物は、地上とは比較にならないほど強力です。準備なしに降りれば、救助隊すら戻れなくなる恐れが……」
シュナイダーの声には、苦渋が滲んでいた。
この人も、見捨てたいわけではないのだ。でも、判断を下さなければならない。
「……捜索隊を編成してください」
レオノーラが言った。声は震えていたが、意志は揺らいでいなかった。
「深層への降下が難しくても、穴の周囲を徹底的に調べてほしいんです。地上のどこかに出ている可能性もあります。人手が足りなければ、私が王城に掛け合います」
「殿下……」
「皆さんを、この世界に連れてきてしまったのは私たちです」
レオノーラは、真っ直ぐにシュナイダーを見た。
「だから——見捨てたくない。お願いします」
その言葉には、王女としての威厳ではなく、一人の人間としての誠実さがあった。
シュナイダーは深く頭を下げた。
「了解いたしました」
◆
澪は、レオノーラの言葉を聞いていた。
全力を尽くす。見捨てない。その言葉が、わずかな希望として胸に残った。
でも——不安は消えない。
ユウは、どこにいるのだろう。
暗い穴の底で、一人で苦しんでいるのではないか。助けを求めて、誰にも聞こえない声で叫んでいるのではないか。
胸のペンダントに、手を当てた。
ユウが貸してくれたもの。お守りだと言っていた。
「黒瀬くん……」
小さく呟いた。
返事はない。当たり前だ。ここにはいないのだから。
「澪」
由依が、隣に立った。
「今日はもう、戻ろう。明日も捜索は続くから」
「……うん」
澪は頷いた。
でも、足が動かなかった。このまま帰ったら、ユウを見捨てるみたいで。
「明日、また来よう。私も一緒に探すから」
「……ありがとう、由依」
澪は、最後にもう一度だけ中庭を見回した。
煙はほとんど晴れていた。でも、ユウの姿はどこにもない。
足を引きずるように、澪は聖堂を後にした。
◆
人々が去っていく中、榊太一は一人、穴の縁に立っていた。
暗い。
底が見えない。
あの中に、黒瀬がいる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
罪悪感——いや、違う。これは恐怖だ。バレるのが怖い。誰かに見られていたらどうしよう。そんな恐怖。
あの時、煙の中で何が起きたか。
誰も見ていなかった。誰も、榊が何をしたか知らない。
——蹴っただけだ。
そう、自分に言い聞かせた。
ちょっと足が当たっただけ。黒瀬が勝手に落ちたんだ。俺のせいじゃない。
でも、そうじゃないことは自分が一番よくわかっていた。
あの瞬間、確かに——蹴った。
意識的に、明確な悪意を持って、黒瀬を穴に向かって蹴り落とした。
なぜそんなことをしたのか。
理由は、わかっている。
澪だ。
高嶺澪が、いつも黒瀬を気にかけていた。何かあるたびに黒瀬のところへ行って、心配そうな顔をして。今日だって、真っ先に黒瀬の名前を呼んでいた。
俺のことは、見てくれないのに。
あんな地味な奴のことばかり。
その苛立ちが、あの瞬間、爆発した。
煙で誰も見ていない。今なら——そう思った瞬間、体が動いていた。
「……」
榊は、穴から目を逸らした。
黒瀬は、きっと死んだ。
あの深さだ。生きているはずがない。
そう思うと、少しだけ——楽になった。
もうバレることはない。証拠は何もない。煙の中で起きたことなんて、誰にもわからない。
これで——邪魔者がいなくなった。
◆
その夜。
王城の一室で、シュナイダーは書類を前に沈んだ顔をしていた。
穴の調査報告。
深さ、推定百メートル以上。下層はダンジョンの深層に接続。探知魔法、反応なし。
生存の可能性は——低い。
それが、騎士団の見解だった。
「黒瀬……」
シュナイダーは、あの少年のことを思い出していた。
訓練ダンジョンでの戦い。ヴェリナの弱点を見抜いて、伝えてくれた少年。地味なスキルだと侮られていたが、あの観察力は本物だった。
そして今日、また彼が状況を変えた。
鏡を使って魔法を逸らすなど、とっさに思いつける判断ではない。
あの少年を——救えなかった。
拳が、机を叩いた。
音が、静かな部屋に響いた。
明日から、捜索は続く。
だが、深層への降下は認められないだろう。王城の上層部は、異世界人一人のためにそこまでの危険を冒すことを許さない。
結局——見殺しにするのだ。
守れなかった。また、守れなかった。
シュナイダーは、窓の外を見た。
夜空には、月が冷たく光っていた。
◆
翌朝。
捜索は再開された。
澪は、誰よりも早く聖堂へ向かった。
騎士たちと一緒に、穴の周囲を調べた。地上に出口がないか、別の道がないか。
でも、何も見つからなかった。
二日目も、三日目も。
捜索隊は穴の周囲を徹底的に調べたが、ユウの痕跡は見つからなかった。
「高嶺さん」
四日目の夕方。
騎士の一人が、澪に声をかけた。
「今日で、大規模な捜索は打ち切りになります」
「……え?」
「これ以上人員を割くことができないと、上からの判断です。申し訳ありません」
騎士は、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
でも、澪には何も言えなかった。
打ち切り。
それは——諦めるということだ。
「そんな……」
「小規模な捜索は続けます。ですが、正直に申し上げて……生存の可能性は、低いと考えられています」
その言葉が、胸に突き刺さった。
生存の可能性は、低い。
それは——ユウが死んだと言っているのと同じだ。
「……嫌」
澪は、首を横に振った。
「まだ、わからないでしょ。黒瀬くんは、きっと……」
「お気持ちはわかります。ですが——」
「わかってない!」
声が、大きくなった。
周囲の騎士たちが、こちらを見た。でも、構わなかった。
「黒瀬くんは、私たちを助けてくれた。何度も。なのに、見捨てるなんて——」
「高嶺」
後ろから、由依の声がした。
「落ち着いて。騎士さんたちも、精一杯やってくれたんだから」
「でも……」
「澪」
由依が、澪の手を握った。
温かい手。でも、その温かさが、今は痛かった。
「帰ろう。今日は、休んだほうがいい」
澪は、何も言えなかった。
由依に手を引かれて、聖堂を後にした。
振り返ると、穴はまだそこにあった。
暗くて、深くて、底が見えない穴。
その中に、ユウがいるかもしれない。一人で、苦しんでいるかもしれない。
でも、誰も助けに行けない。
澪の目から、涙が溢れた。
声を殺して、泣いた。
◆
その夜、澪は自室で一人だった。
机の上には、ペンダントが置いてある。
ユウが貸してくれた、お守り。
手に取った。
冷たい金属の感触が、掌に伝わる。
「黒瀬くん……」
呟いた。
返事はない。
どうして、こんなことになったのだろう。
ユウは、私たちを助けに来てくれた。それなのに、自分だけが——
涙が、また溢れてきた。
止められなかった。止める気力もなかった。
ペンダントを、胸に当てた。
ユウの温もりが、まだ残っているような気がした。
「会いたい……」
小さな声で、言った。
誰にも聞こえない声で。
「もう一度、会いたいよ……」
その願いは、夜の闇に消えていった。
穴の底は、深すぎる。
誰も降りられない。
ユウが——生きているのか、死んでいるのか。
誰にも、わからない。
澪は、ペンダントを握りしめたまま、眠りについた。
涙の跡が、頬に残ったまま。




