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【Side: クラスメイト】 ユウの消失

 煙が晴れ始めていた。

 英雄聖堂の中庭には、まだ焦げた匂いが漂っている。石畳の一部が砕け散り、壁には魔法の直撃による亀裂が走っていた。


 高嶺澪は、煙の中を歩き回っていた。

 目を凝らしても、視界は白く霞んでいる。喉が痛い。目が沁みる。でも、止まれなかった。


「黒瀬くん!」


 声が、枯れ始めていた。

 何度呼んでも返事がない。どこにもいない。


 あの瞬間、ユウは確かにいた。

 病院を抜け出して、聖堂まで走ってきて。鏡を使って、ヴェリナの魔法を逸らして。あの魔法が地面に直撃した時、衝撃波で——


 その先が、思い出せない。


 煙が酷くて、何も見えなかった。悲鳴と怒号が飛び交って、誰がどこにいるかもわからなくなって。気づいた時には、ユウの姿がどこにもなかった。


「澪!」


 後ろから、篠原由依の声がした。


「まだ見つからない?」


「……ううん。どこにも」


 澪は振り返った。由依の顔も、煤で汚れている。彼女もずっと探していたのだろう。


「穴の近くにはいなかった。シュナイダー団長たちが調べてるけど……」


 穴。

 ヴェリナの魔法が直撃して開いた、巨大な穴。

 聖堂の床を抉って、遥か下まで続いている。底が見えないほど深い、暗い穴。


 まさか——


 その考えが頭を過ぎって、澪は首を振った。

 違う。そんなはずがない。ユウは、きっとどこかで倒れているだけだ。煙で見えなかっただけだ。


「玲央たちも探してる。大丈夫、すぐに見つかるよ」


 由依が、澪の肩に手を置いた。

 その手が、微かに震えていた。由依も、不安なのだ。



 中庭の反対側では、神崎玲央が騎士たちと話していた。


「黒瀬は見つかったのか」


「いえ、まだです。煙が酷くて、混乱の最中に何が起きたか——」


 騎士の報告を聞きながら、神崎は唇を噛んだ。


 あの時、自分は何をしていた。

 ヴェリナと戦っていた。でも、歯が立たなかった。《聖剣》を振るっても、魔法障壁に阻まれて。人間に似た姿の魔族相手に、斬り込むことすらできなくて。


 そこへユウが現れた。

 病院にいるはずのユウが、傷だらけの体で走ってきて。鏡を使って、魔法を逸らして。

 また——また、ユウに助けられた。


「くそ……」


 拳を握りしめた。

 悔しさと、焦りと、それから——罪悪感のようなものが、胸の中で渦を巻いていた。


「玲央」


 声をかけられて、振り向く。

 風間悠斗と坂下恒一が、こちらに歩いてきていた。


「穴の周りを調べた。深すぎて、底が見えない。騎士団の探知魔法でも、反応がないらしい」


 坂下が、淡々と報告した。いつもより少しだけ、声が硬い。


「反応がない?」


「穴の下は、古いダンジョンの深層に繋がっているみたいだ。魔力が濁っていて、探知が届かない」


 風間が、険しい顔で付け加えた。


「……まさか、黒瀬があの穴に落ちたってことは——」


「わからない。でも、他に行方不明の生徒はいない」


 神崎は、穴の方を見た。

 騎士たちがロープを垂らしている。でも、誰も降りようとしない。降りられないのだ。あまりにも深くて、何がいるかわからなくて。


「降りられないのか」


「深層に繋がっている可能性がある以上、安易に降りるのは危険だと……シュナイダー団長の判断だ」


 坂下の言葉に、神崎は何も言えなかった。

 正しい判断だとわかっている。でも——もしユウがあの下にいるなら。


 その時、聖堂の入口から、一人の人影が現れた。



 レオノーラ・フォン・グランヴァルト。

 この国の第一王女。


 金髪が風に揺れている。翠の瞳には、いつもの穏やかさの代わりに、深い憂いが宿っていた。その後ろには、数名の騎士が従っている。


「シュナイダー団長」


 レオノーラが駆け寄ってきた。王女らしからぬ、切迫した足取りだった。


「状況を教えてください。皆さんは無事ですか」


「殿下。ヴェリナと名乗る女魔族の襲撃を受けました。騎士団が応戦しましたが、撃退には至らず。魔力切れで自ら撤退した模様です」


 シュナイダーが報告した。


「被害は」


「重傷者が三名。いずれも騎士団員です。異世界人の方々に死傷者は——」


 シュナイダーの言葉が、一瞬止まった。


「……一名、行方不明者がおります」


「行方不明……?」


 レオノーラの顔色が変わった。


「黒瀬ユウ。魔法の直撃で開いた穴の近くにいたと思われます。現在、捜索中ですが……」


「黒瀬さん……」


 レオノーラが、穴の方を見た。その表情には、政治家としての冷静さではなく、年相応の——誰かを心配する少女の顔があった。


「穴の下はダンジョンの深層に繋がっており、探知魔法も届きません」


「降りることは……」


「深層の魔物は、地上とは比較にならないほど強力です。準備なしに降りれば、救助隊すら戻れなくなる恐れが……」


 シュナイダーの声には、苦渋が滲んでいた。

 この人も、見捨てたいわけではないのだ。でも、判断を下さなければならない。


「……捜索隊を編成してください」


 レオノーラが言った。声は震えていたが、意志は揺らいでいなかった。


「深層への降下が難しくても、穴の周囲を徹底的に調べてほしいんです。地上のどこかに出ている可能性もあります。人手が足りなければ、私が王城に掛け合います」


「殿下……」


「皆さんを、この世界に連れてきてしまったのは私たちです」


 レオノーラは、真っ直ぐにシュナイダーを見た。


「だから——見捨てたくない。お願いします」


 その言葉には、王女としての威厳ではなく、一人の人間としての誠実さがあった。

 シュナイダーは深く頭を下げた。


「了解いたしました」



 澪は、レオノーラの言葉を聞いていた。

 全力を尽くす。見捨てない。その言葉が、わずかな希望として胸に残った。


 でも——不安は消えない。


 ユウは、どこにいるのだろう。

 暗い穴の底で、一人で苦しんでいるのではないか。助けを求めて、誰にも聞こえない声で叫んでいるのではないか。


 胸のペンダントに、手を当てた。

 ユウが貸してくれたもの。お守りだと言っていた。


「黒瀬くん……」


 小さく呟いた。

 返事はない。当たり前だ。ここにはいないのだから。


「澪」


 由依が、隣に立った。


「今日はもう、戻ろう。明日も捜索は続くから」


「……うん」


 澪は頷いた。

 でも、足が動かなかった。このまま帰ったら、ユウを見捨てるみたいで。


「明日、また来よう。私も一緒に探すから」


「……ありがとう、由依」


 澪は、最後にもう一度だけ中庭を見回した。

 煙はほとんど晴れていた。でも、ユウの姿はどこにもない。


 足を引きずるように、澪は聖堂を後にした。



 人々が去っていく中、榊太一は一人、穴の縁に立っていた。


 暗い。

 底が見えない。

 あの中に、黒瀬がいる。


 胸の奥で、何かが軋んだ。

 罪悪感——いや、違う。これは恐怖だ。バレるのが怖い。誰かに見られていたらどうしよう。そんな恐怖。


 あの時、煙の中で何が起きたか。

 誰も見ていなかった。誰も、榊が何をしたか知らない。


 ——蹴っただけだ。


 そう、自分に言い聞かせた。

 ちょっと足が当たっただけ。黒瀬が勝手に落ちたんだ。俺のせいじゃない。


 でも、そうじゃないことは自分が一番よくわかっていた。


 あの瞬間、確かに——蹴った。

 意識的に、明確な悪意を持って、黒瀬を穴に向かって蹴り落とした。


 なぜそんなことをしたのか。

 理由は、わかっている。


 澪だ。


 高嶺澪が、いつも黒瀬を気にかけていた。何かあるたびに黒瀬のところへ行って、心配そうな顔をして。今日だって、真っ先に黒瀬の名前を呼んでいた。


 俺のことは、見てくれないのに。

 あんな地味な奴のことばかり。


 その苛立ちが、あの瞬間、爆発した。

 煙で誰も見ていない。今なら——そう思った瞬間、体が動いていた。


「……」


 榊は、穴から目を逸らした。


 黒瀬は、きっと死んだ。

 あの深さだ。生きているはずがない。


 そう思うと、少しだけ——楽になった。

 もうバレることはない。証拠は何もない。煙の中で起きたことなんて、誰にもわからない。


 これで——邪魔者がいなくなった。



 その夜。

 王城の一室で、シュナイダーは書類を前に沈んだ顔をしていた。


 穴の調査報告。

 深さ、推定百メートル以上。下層はダンジョンの深層に接続。探知魔法、反応なし。


 生存の可能性は——低い。

 それが、騎士団の見解だった。


「黒瀬……」


 シュナイダーは、あの少年のことを思い出していた。

 訓練ダンジョンでの戦い。ヴェリナの弱点を見抜いて、伝えてくれた少年。地味なスキルだと侮られていたが、あの観察力は本物だった。


 そして今日、また彼が状況を変えた。

 鏡を使って魔法を逸らすなど、とっさに思いつける判断ではない。


 あの少年を——救えなかった。


 拳が、机を叩いた。

 音が、静かな部屋に響いた。


 明日から、捜索は続く。

 だが、深層への降下は認められないだろう。王城の上層部は、異世界人一人のためにそこまでの危険を冒すことを許さない。


 結局——見殺しにするのだ。

 守れなかった。また、守れなかった。


 シュナイダーは、窓の外を見た。

 夜空には、月が冷たく光っていた。



 翌朝。

 捜索は再開された。


 澪は、誰よりも早く聖堂へ向かった。

 騎士たちと一緒に、穴の周囲を調べた。地上に出口がないか、別の道がないか。


 でも、何も見つからなかった。


 二日目も、三日目も。

 捜索隊は穴の周囲を徹底的に調べたが、ユウの痕跡は見つからなかった。


「高嶺さん」


 四日目の夕方。

 騎士の一人が、澪に声をかけた。


「今日で、大規模な捜索は打ち切りになります」


「……え?」


「これ以上人員を割くことができないと、上からの判断です。申し訳ありません」


 騎士は、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。

 でも、澪には何も言えなかった。


 打ち切り。

 それは——諦めるということだ。


「そんな……」


「小規模な捜索は続けます。ですが、正直に申し上げて……生存の可能性は、低いと考えられています」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 生存の可能性は、低い。

 それは——ユウが死んだと言っているのと同じだ。


「……嫌」


 澪は、首を横に振った。


「まだ、わからないでしょ。黒瀬くんは、きっと……」


「お気持ちはわかります。ですが——」


「わかってない!」


 声が、大きくなった。

 周囲の騎士たちが、こちらを見た。でも、構わなかった。


「黒瀬くんは、私たちを助けてくれた。何度も。なのに、見捨てるなんて——」


「高嶺」


 後ろから、由依の声がした。


「落ち着いて。騎士さんたちも、精一杯やってくれたんだから」


「でも……」


「澪」


 由依が、澪の手を握った。

 温かい手。でも、その温かさが、今は痛かった。


「帰ろう。今日は、休んだほうがいい」


 澪は、何も言えなかった。

 由依に手を引かれて、聖堂を後にした。


 振り返ると、穴はまだそこにあった。

 暗くて、深くて、底が見えない穴。

 その中に、ユウがいるかもしれない。一人で、苦しんでいるかもしれない。


 でも、誰も助けに行けない。


 澪の目から、涙が溢れた。

 声を殺して、泣いた。



 その夜、澪は自室で一人だった。


 机の上には、ペンダントが置いてある。

 ユウが貸してくれた、お守り。


 手に取った。

 冷たい金属の感触が、掌に伝わる。


「黒瀬くん……」


 呟いた。

 返事はない。


 どうして、こんなことになったのだろう。

 ユウは、私たちを助けに来てくれた。それなのに、自分だけが——


 涙が、また溢れてきた。

 止められなかった。止める気力もなかった。


 ペンダントを、胸に当てた。

 ユウの温もりが、まだ残っているような気がした。


「会いたい……」


 小さな声で、言った。

 誰にも聞こえない声で。


「もう一度、会いたいよ……」


 その願いは、夜の闇に消えていった。


 穴の底は、深すぎる。

 誰も降りられない。

 ユウが——生きているのか、死んでいるのか。

 誰にも、わからない。


 澪は、ペンダントを握りしめたまま、眠りについた。

 涙の跡が、頬に残ったまま。


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