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託しと旅立ち

「あなたに、僕の力を。残っているものすべてを」


 その言葉の意味を、僕は理解しようとした。

 思念の木下さんが、真っ直ぐに僕を見ている。透けた体。でも、目だけは強い光を放っている。


「力って……どういう意味ですか」


「僕に残っているもの。思念として存在するための魔力。そして——もう一つ」


 木下さんが、右手を持ち上げた。透けた手のひらの上に、淡い光が集まっていく。小さな紋様が浮かび上がる。


「スキルは奪われました。でも、もう一つだけ——あの時、教会の儀式では発現しなかった力があるんです」


 ヒルデが、わずかに目を細めた。


「発現しなかった力?」


「はい。《転歩》という……移動系のスキルです。持ち主の力に左右されますが、これは空間を一瞬で移動できる」


 移動系。その言葉が、僕の心に引っかかった。移動できるなら——この深層から、出られるかもしれない。


「教会の儀式では、《探知》だけが表に出ました。でも僕の中には、もう一つの種があった。それは……最後まで、芽を出さなかった」


 木下さんの声が、少し震えた。


「ここで死んでこんな形になって、やっと気づいたんです。妹のところに帰りたいって、強く願った時に——体の奥で、何かが光った。でも、もう遅かった。体が動かなくて、使えなくて……」


 その無念が、声に滲んでいた。

 せっかく力があったのに。使えなかったのに。その悔しさが、三年間ずっと残り続けていたのだ。


「黒瀬さん」


 木下さんが、僕に向かって手を差し出した。


「この力を、あなたに託したい。僕の代わりに——使ってください」



 僕は、差し出された手を見つめた。

 スキルを託される。そんなことができるのか。


「ヒルデ」


「……それは、不可能だ」


 ヒルデの声は、静かだが断定的だった。


「スキルは魂に刻まれたもの。他者に譲渡することはできない。たとえ思念であっても——いや、思念だからこそ、スキルの本体は既に聖印を通じて奪われている」


 木下さんの表情が、曇った。


「でも……僕の中に、確かにあるんです。《転歩》の力が」


「残っているのは、スキルの残滓だ。発現しなかったがゆえに、回収を免れた種。だが、それを他者に移すことは——」


 ヒルデが、言葉を切った。

 僕を見ている。金色の瞳が、何かを考えている。


「……待て」


「ヒルデ?」


「お前のスキル——《記録》」


 ヒルデが、一歩近づいてきた。


「《記録》は、あらゆるものを刻み、再現する力だ。動き、構造、パターン……ならば」


 彼女の目が、鋭く光った。


「思念体のスキルは、肉体から離れた特殊な状態にある。魂に縛られていない、剥き出しの力だ。もしかしたら——お前の《記録》なら、それを刻めるかもしれない」


「刻める……?」


「通常、スキルは魂の奥深くに根を張っている。だから、外から触れることはできない。だが、思念体は違う。体を失い、魂すらも曖昧になった存在。スキルが——裸のまま、存在している」


 僕は、木下さんを見た。

 透けた体。揺らめく輪郭。確かに、彼は普通の人間ではない。生と死の境界にいる、特殊な存在だ。


「やってみる価値は、ある」


 ヒルデが言った。


「お前の《記録》が、本当に『あらゆるもの』を記憶できるなら、刻めるなら——できるかもしれない」



 僕は、木下さんの手を取った。

 透けているはずの手が、確かな温もりを持っていた。思念の体温。最後に残った、生きていた頃の記憶。


「木下さん。《転歩》を——見せてくれますか」


「見せる……?」


「発動しようとしてほしい。力を形にしようとする、その瞬間を」


 木下さんは、少し戸惑っていた。でも、すぐに頷いた。


「わかりました」


 彼が目を閉じた。

 透けた体の中で、何かが動いた。淡い光が、胸の奥から湧き上がってくる。


「頼む…!」


 その言葉と共に、光が形を成していく。

 紋様が浮かび上がる。空間を歪める力の、設計図のようなもの。


 ——《記録》。


 僕は、それを見た。見て、刻んだ。

 木下さんの中にある《転歩》の構造。魔力の流れ。空間を掴む感覚。移動するための、力の形。


 全部が、僕の中に流れ込んでくる。


「……っ」


 頭が、熱くなった。

 今まで経験したことのない感覚。剣の振り方や、体の動かし方とは違う。もっと根源的な——魂に触れるような。


「ユウ!」


 ヒルデの声が、遠くから聞こえた。


 《記録》が、限界まで稼働している。

 思念体のスキルを、刻もうとしている。本来なら触れられないはずのものに、手を伸ばしている。


 ——届け。


 そう願った瞬間、何かが——繋がった。



 目を開けた。

 いつの間にか、膝をついていた。息が荒い。汗が額を伝っている。


「……成功、したか?」


 ヒルデの声。


 僕は、胸に手を当てた。

 そこに——確かに、ある。《記録》と《戦乙女の加護》の隣に、新しい力が刻まれている。


「《転歩》……」


 その名前が、自然と口から出た。

 木下さんのスキル。空間を歩く力。それが、僕の中にある。


「できた」


 木下さんが、嬉しそうに笑っていた。

 でも——彼の体が、さらに薄くなっている。スキルを見せたことで、思念としての力が削られたのだ。


「木下さん……」


「大丈夫です。これで……よかった」


 彼の笑顔には、安堵があった。


「《転歩》を……試してみてください」



 僕は、目を閉じた。

 胸の奥に、新しい力がある。それを意識する。形を捉える。


 ——《転歩》。


 発動しようとした。

 体の中で、何かが動く。魔力が流れる。空間を掴もうとする感覚。


 でも——届かない。

 手を伸ばしても、掴めない。外への空間が遠すぎる。力が足りない。


 目を開けた。僕は、同じ場所に立っていた。


「……動けない」


「記録したばかりだからな、力も足りないだろう」


 ヒルデが言った。


「スキルの構造は刻めても、それを扱う練度がない。そして——魔力も足りない」


 距離が足りない。この深層から外に出るには、どれだけの距離が必要だろう。数キロ? 数十キロ? もしかしたら、もっと。


「くそ……」


 僕は、拳を握りしめた。

 せっかくスキルを記録できたのに。脱出の手段を得たのに。それでも、届かないのか。


「私の魔力を使えればいいのだが……」


 ヒルデが、自嘲気味に笑った。


「今の私では、足りない。核を失った体では、大きな魔力を扱えない」


 八方塞がりだ。スキルはある。方法もある。でも、魔力がない。


「……僕の、を」


 声がした。木下さんの声。

 振り向くと、彼はさらに薄くなっていた。もう、向こう側が完全に透けて見える。


「僕に残っている魔力を……使ってください」


「木下さん、それは——」


「わかっています」


 木下さんが、穏やかに微笑んだ。


「僕が消えるんでしょう。思念として存在するための力を、全部使ってしまえば」


 僕は、言葉を失った。

 彼は——自分が消えることを、わかっている。それでも、僕に魔力を与えようとしている。


「待ってくれ。他に方法が——」


「ないですよ」


 木下さんが、首を横に振った。


「この深層には、魔力の源になるものなんてない。僕の魔力を使う以外に、方法はない」


「でも、それじゃあ——」


「いいんです」


 木下さんの声が、不思議なほど穏やかだった。


「僕は、もう十分待ちました。三年間、ずっとここで。誰かが来てくれるのを。思いを託せる誰かを」


 その目が、僕を見ていた。


「あなたが来てくれた。手帳を見つけてくれた。妹のことを、知ってくれた。約束してくれた」


 声が、震えた。でも、笑っていた。


「だから——もう、いいんです」



 木下さんが、両手を広げた。

 透けた体から、淡い光が溢れ出す。彼に残された、最後の魔力。


「受け取ってください。全部」


「木下さん……」


「黒瀬さん」


 彼が、僕の目を見た。


「生きてください。帰ってください。妹に——優花に、栞を届けて、病気を治してください」


 懐にある押し花の栞が、重く感じられた。

 この人の最後の願い。三年間、ずっと抱えていた想い。


「そして——あの子たちに、伝えてください」


 あの子たち。他の召喚者たちのことだろう。木下さんと同じように、利用されて、使い捨てにされた人たち。


「王国の真実を。聖印の本当の意味を。知らないまま死んでいくのは——悲しすぎるから」


 僕は、頷いた。言葉が出なかった。でも、頷くことはできた。


「ありがとう」


 木下さんが、最後に笑った。


「これで——やっと、眠れます」


 光が、僕に向かって流れてきた。



 魔力が体に入ってくる。

 温かい。優しい。でも、その奥に——悲しみがある。後悔がある。妹に会いたいという、切実な願いがある。


 三年分の想いが、僕の中に流れ込んでくる。


 《記録》が、それを刻んでいく。スキルとしてではない。記憶として。感情として。


 木下雄二という人が、どれだけ妹を愛していたか。どれだけ帰りたかったか。どれだけ悔しかったか。


 全部、刻まれていく。


「……ありがとう」


 木下さんの声が、遠くなっていく。


「黒瀬さん……いや、ユウくん」


 初めて、名前で呼ばれた。


「君なら、大丈夫」


 光が、消えていく。木下さんの姿が、薄れていく。

 最後に見えたのは、穏やかな笑顔だった。安堵の表情。三年間の苦しみから、やっと解放された顔。


「……さようなら」


 そして——木下雄二の思念は、消えた。

 部屋に、静寂が戻った。僕とヒルデだけが残された。


 涙が、頬を伝っていた。

 いつの間にか、泣いていた。


「……ユウ」


 ヒルデの声が、静かに響いた。


「彼の想いを、無駄にするな」


「……わかってる」


 僕は、涙を拭った。

 胸の奥に、木下さんの魔力がある。彼の最後の願いが、ある。

 それを——使わなければ。



 目を閉じた。

 《転歩》に意識を集中する。


 さっきとは違う。体の中に、大量の魔力がある。木下さんが残してくれた、最後の力。


 ——届け。


 空間を掴む。遠くを目指す。この深層から、外へ。地上へ。


 魔力が流れ出す。体の中から、スキルへ。


 景色が——歪んだ。


「ヒルデ、手を」


 僕は、ヒルデの手を掴んだ。彼女を置いていくわけにはいかない。


 《転歩》が、発動した。


 視界が白く染まる。体が浮き上がる感覚。空間が折り畳まれていく。


 木下さんの魔力が、急速に消費されていく。一回きり。これが最初で最後。全力の跳躍。


 光が弾けた。



 足が、地面についた。

 柔らかい。土じゃない。何か——草だ。草の上に立っている。


 目を開けた。


 最初に見えたのは、空だった。

 青い空。雲が浮かんでいる。太陽が、眩しく輝いている。


 深層の暗闘じゃない。洞窟の天井じゃない。本物の空だ。


「……出た」


 声が、掠れた。


 周囲を見回す。

 緑の草原が、どこまでも広がっていた。風が吹いている。草が揺れている。遠くに、山が見える。青い山脈が、地平線に連なっている。


 王国の外だ。

 見たことのない景色。でも、確かにわかる。あの暗い深層から、出たのだ。


「ユウ」


 隣で、ヒルデが呟いた。

 彼女も、空を見上げている。金色の瞳に、青い空が映っている。


「脱出……したな」


「……ああ」


 実感が、遅れてやってきた。

 生き延びた。深層から出た。木下さんの力で、ここまで来れた。


 膝から、力が抜けた。その場に座り込む。


 風が、頬を撫でた。草の匂いがする。土の匂いがする。生きているものの匂い。


 涙が、また溢れてきた。

 嬉しいからじゃない。悲しいからでもない。ただ——生きている実感が、体中を駆け巡っていた。



 しばらくして、涙は止まった。

 でも、胸の中には重いものが残っていた。


 木下さんのこと。聖印の真実。王国の闘。九条先生の正体。


 全部が、頭の中でぐるぐると回っている。


「……これから、どうすればいいんだろう」


 独り言のつもりだった。

 でも、ヒルデには聞こえていたらしい。


「どうする、とは」


「王国に……戻るべきなのか」


 僕は、膝を抱えたまま言った。


「クラスメイトがいる。高嶺さんも、相沢さんも、みんな。聖印の真実を知らないまま、王国のために戦おうとしてる」


「伝えたいのか」


「伝えなきゃいけない。木下さんとの約束だ」


 でも——


「でも、今戻っても……何ができる」


 声が、震えた。


「聖印の真実を話したところで、証拠がない。王国や教会が認めるわけがない。僕の言葉なんて、誰が信じる」


 それだけじゃない。


「九条先生は……信用できない。三年前も担任だった。あの人が何を考えているのか、わからない」


 木下さんは「信じたい」と言っていた。でも、本心はわからないと。


「王国には、僕たちの味方がいるのかもしれない。レオノーラ王女とか、シュナイダー騎士団長とか…でも味方である保証もない。敵がどれだけいるのかも、わからない」


 今の僕では、判断できない。情報が足りない。力も足りない。


「今戻っても……きっと、何もできない。下手をすれば、口封じに消される」


 その可能性が、頭を過ぎった。

 聖印の真実を知った人間。王国にとって、都合の悪い存在。

 そうでなくとも、僕を殺すつもりの人間もいる…もしかするとクラスメイトの中に。


「戻れない……」


 呟いた。

 戻りたいのに。でも、戻れない。



 不安が、胸を締め付けていた。


 木下さんは消えた。僕に全てを託して。

 でも、僕にその重荷を背負えるのか。約束を果たせるのか。


 元の世界に帰る方法も、わからない。

 妹に栞を届けると言ったけど、本当にできるのか。


 クラスメイトを救いたい。でも、どうすればいいかわからない。

 強くなりたい。でも、何をすればいいかわからない。


 全部が、重くのしかかってくる。

 深層で死にかけた時より——今の方が、怖いかもしれない。


「ユウ」


 ヒルデの声がした。


 顔を上げると、彼女が目の前にいた。

 いつの間にか、僕の正面にしゃがみ込んでいる。金色の瞳が、真っ直ぐに僕を見ていた。


 近い。

 思った以上に、顔が近かった。


「私が守る」


 ヒルデが言った。

 静かな声。でも、揺るぎない響きがあった。


「お前は一人じゃない。私がいる」


「ヒルデ……」


「お前は私を解放した。共に戦った。私の過去を受け入れてくれた」


 彼女の目が、わずかに揺らいだ。

 いつもは鋭い金色の瞳に、柔らかな光が混じっている。


「だから——私はお前を守る。約束する」


 その言葉が、胸に沁みた。


「お前が迷っている間、私が道を照らす。お前が立ち止まった時、私が背中を押す」


 ヒルデが、少しだけ顔を近づけた。

 銀色の髪が、風に揺れて僕の頬を掠めた。


「だから——行こう」

 

 凛とした声。

 堂々とした、戦乙女の佇まい。


 でも、その奥に——優しさが見えた。

 百年前、民間人を守ろうとして封印された人。王国の非道に異を唱えた人。その優しさが、今も彼女の中にある。

 

 胸が——高鳴った。

 

 これは、何だ。

 今まで感じたことのない感覚だった。

 

 高嶺さんに対して感じていたものとは、違う。

 憧れとか、眩しさとか、そういうものじゃない。

 

 もっと——近い場所で、心臓が跳ねている。

 

 銀色の髪。金色の瞳。白い肌。

 戦乙女としての凛々しさ。そして、不器用に見え隠れする温かさ。

 

 ああ——そうか。

 僕は、この人のことが——


 そう気づいた瞬間、顔が熱くなった。

 慌てて視線を逸らす。今この感情に向き合うのは、まずい気がした。


 この人と一緒なら——行ける。


 「……ありがとう、ヒルデ」


 僕は、立ち上がった。

 彼女も立ち上がる。並ぶと、ヒルデの方が少しだけ背が高い。


「核を取り戻す…いや全てを取り戻す旅に、僕も行く」


「……いいのか」


「ああ。その道中で、僕も強くなる。情報を集める」


 懐から、押し花の栞を取り出した。


「元の世界に帰る方法を探す。木下さんとの約束を、果たす」


 栞を、しっかりと握りしめた。


「そして——いつか、みんなに真実を伝えるために。準備が整ったら」


 ヒルデが、少しだけ目を見開いた。

 そして——口角が上がった。


「……いい目だ」


 彼女が、風上を向いた。

 銀色の髪が、風に流れる。


「行くぞ、ユウ」


「ああ」


 僕たちは、歩き始めた。


 草原を抜けて。山を越えて。まだ見ぬ世界へ。


 元の世界に帰るために。

 木下さんの想いを届けるために。

 そして——ヒルデの核を、取り戻すために。


 深層での日々は、終わった。

 でも、旅は始まったばかりだ。


 僕は——一歩を踏み出した。

 ヒルデと共に。

 広い世界へ向かって。


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