託しと旅立ち
「あなたに、僕の力を。残っているものすべてを」
その言葉の意味を、僕は理解しようとした。
思念の木下さんが、真っ直ぐに僕を見ている。透けた体。でも、目だけは強い光を放っている。
「力って……どういう意味ですか」
「僕に残っているもの。思念として存在するための魔力。そして——もう一つ」
木下さんが、右手を持ち上げた。透けた手のひらの上に、淡い光が集まっていく。小さな紋様が浮かび上がる。
「スキルは奪われました。でも、もう一つだけ——あの時、教会の儀式では発現しなかった力があるんです」
ヒルデが、わずかに目を細めた。
「発現しなかった力?」
「はい。《転歩》という……移動系のスキルです。持ち主の力に左右されますが、これは空間を一瞬で移動できる」
移動系。その言葉が、僕の心に引っかかった。移動できるなら——この深層から、出られるかもしれない。
「教会の儀式では、《探知》だけが表に出ました。でも僕の中には、もう一つの種があった。それは……最後まで、芽を出さなかった」
木下さんの声が、少し震えた。
「ここで死んでこんな形になって、やっと気づいたんです。妹のところに帰りたいって、強く願った時に——体の奥で、何かが光った。でも、もう遅かった。体が動かなくて、使えなくて……」
その無念が、声に滲んでいた。
せっかく力があったのに。使えなかったのに。その悔しさが、三年間ずっと残り続けていたのだ。
「黒瀬さん」
木下さんが、僕に向かって手を差し出した。
「この力を、あなたに託したい。僕の代わりに——使ってください」
◆
僕は、差し出された手を見つめた。
スキルを託される。そんなことができるのか。
「ヒルデ」
「……それは、不可能だ」
ヒルデの声は、静かだが断定的だった。
「スキルは魂に刻まれたもの。他者に譲渡することはできない。たとえ思念であっても——いや、思念だからこそ、スキルの本体は既に聖印を通じて奪われている」
木下さんの表情が、曇った。
「でも……僕の中に、確かにあるんです。《転歩》の力が」
「残っているのは、スキルの残滓だ。発現しなかったがゆえに、回収を免れた種。だが、それを他者に移すことは——」
ヒルデが、言葉を切った。
僕を見ている。金色の瞳が、何かを考えている。
「……待て」
「ヒルデ?」
「お前のスキル——《記録》」
ヒルデが、一歩近づいてきた。
「《記録》は、あらゆるものを刻み、再現する力だ。動き、構造、パターン……ならば」
彼女の目が、鋭く光った。
「思念体のスキルは、肉体から離れた特殊な状態にある。魂に縛られていない、剥き出しの力だ。もしかしたら——お前の《記録》なら、それを刻めるかもしれない」
「刻める……?」
「通常、スキルは魂の奥深くに根を張っている。だから、外から触れることはできない。だが、思念体は違う。体を失い、魂すらも曖昧になった存在。スキルが——裸のまま、存在している」
僕は、木下さんを見た。
透けた体。揺らめく輪郭。確かに、彼は普通の人間ではない。生と死の境界にいる、特殊な存在だ。
「やってみる価値は、ある」
ヒルデが言った。
「お前の《記録》が、本当に『あらゆるもの』を記憶できるなら、刻めるなら——できるかもしれない」
◆
僕は、木下さんの手を取った。
透けているはずの手が、確かな温もりを持っていた。思念の体温。最後に残った、生きていた頃の記憶。
「木下さん。《転歩》を——見せてくれますか」
「見せる……?」
「発動しようとしてほしい。力を形にしようとする、その瞬間を」
木下さんは、少し戸惑っていた。でも、すぐに頷いた。
「わかりました」
彼が目を閉じた。
透けた体の中で、何かが動いた。淡い光が、胸の奥から湧き上がってくる。
「頼む…!」
その言葉と共に、光が形を成していく。
紋様が浮かび上がる。空間を歪める力の、設計図のようなもの。
——《記録》。
僕は、それを見た。見て、刻んだ。
木下さんの中にある《転歩》の構造。魔力の流れ。空間を掴む感覚。移動するための、力の形。
全部が、僕の中に流れ込んでくる。
「……っ」
頭が、熱くなった。
今まで経験したことのない感覚。剣の振り方や、体の動かし方とは違う。もっと根源的な——魂に触れるような。
「ユウ!」
ヒルデの声が、遠くから聞こえた。
《記録》が、限界まで稼働している。
思念体のスキルを、刻もうとしている。本来なら触れられないはずのものに、手を伸ばしている。
——届け。
そう願った瞬間、何かが——繋がった。
◆
目を開けた。
いつの間にか、膝をついていた。息が荒い。汗が額を伝っている。
「……成功、したか?」
ヒルデの声。
僕は、胸に手を当てた。
そこに——確かに、ある。《記録》と《戦乙女の加護》の隣に、新しい力が刻まれている。
「《転歩》……」
その名前が、自然と口から出た。
木下さんのスキル。空間を歩く力。それが、僕の中にある。
「できた」
木下さんが、嬉しそうに笑っていた。
でも——彼の体が、さらに薄くなっている。スキルを見せたことで、思念としての力が削られたのだ。
「木下さん……」
「大丈夫です。これで……よかった」
彼の笑顔には、安堵があった。
「《転歩》を……試してみてください」
◆
僕は、目を閉じた。
胸の奥に、新しい力がある。それを意識する。形を捉える。
——《転歩》。
発動しようとした。
体の中で、何かが動く。魔力が流れる。空間を掴もうとする感覚。
でも——届かない。
手を伸ばしても、掴めない。外への空間が遠すぎる。力が足りない。
目を開けた。僕は、同じ場所に立っていた。
「……動けない」
「記録したばかりだからな、力も足りないだろう」
ヒルデが言った。
「スキルの構造は刻めても、それを扱う練度がない。そして——魔力も足りない」
距離が足りない。この深層から外に出るには、どれだけの距離が必要だろう。数キロ? 数十キロ? もしかしたら、もっと。
「くそ……」
僕は、拳を握りしめた。
せっかくスキルを記録できたのに。脱出の手段を得たのに。それでも、届かないのか。
「私の魔力を使えればいいのだが……」
ヒルデが、自嘲気味に笑った。
「今の私では、足りない。核を失った体では、大きな魔力を扱えない」
八方塞がりだ。スキルはある。方法もある。でも、魔力がない。
「……僕の、を」
声がした。木下さんの声。
振り向くと、彼はさらに薄くなっていた。もう、向こう側が完全に透けて見える。
「僕に残っている魔力を……使ってください」
「木下さん、それは——」
「わかっています」
木下さんが、穏やかに微笑んだ。
「僕が消えるんでしょう。思念として存在するための力を、全部使ってしまえば」
僕は、言葉を失った。
彼は——自分が消えることを、わかっている。それでも、僕に魔力を与えようとしている。
「待ってくれ。他に方法が——」
「ないですよ」
木下さんが、首を横に振った。
「この深層には、魔力の源になるものなんてない。僕の魔力を使う以外に、方法はない」
「でも、それじゃあ——」
「いいんです」
木下さんの声が、不思議なほど穏やかだった。
「僕は、もう十分待ちました。三年間、ずっとここで。誰かが来てくれるのを。思いを託せる誰かを」
その目が、僕を見ていた。
「あなたが来てくれた。手帳を見つけてくれた。妹のことを、知ってくれた。約束してくれた」
声が、震えた。でも、笑っていた。
「だから——もう、いいんです」
◆
木下さんが、両手を広げた。
透けた体から、淡い光が溢れ出す。彼に残された、最後の魔力。
「受け取ってください。全部」
「木下さん……」
「黒瀬さん」
彼が、僕の目を見た。
「生きてください。帰ってください。妹に——優花に、栞を届けて、病気を治してください」
懐にある押し花の栞が、重く感じられた。
この人の最後の願い。三年間、ずっと抱えていた想い。
「そして——あの子たちに、伝えてください」
あの子たち。他の召喚者たちのことだろう。木下さんと同じように、利用されて、使い捨てにされた人たち。
「王国の真実を。聖印の本当の意味を。知らないまま死んでいくのは——悲しすぎるから」
僕は、頷いた。言葉が出なかった。でも、頷くことはできた。
「ありがとう」
木下さんが、最後に笑った。
「これで——やっと、眠れます」
光が、僕に向かって流れてきた。
◆
魔力が体に入ってくる。
温かい。優しい。でも、その奥に——悲しみがある。後悔がある。妹に会いたいという、切実な願いがある。
三年分の想いが、僕の中に流れ込んでくる。
《記録》が、それを刻んでいく。スキルとしてではない。記憶として。感情として。
木下雄二という人が、どれだけ妹を愛していたか。どれだけ帰りたかったか。どれだけ悔しかったか。
全部、刻まれていく。
「……ありがとう」
木下さんの声が、遠くなっていく。
「黒瀬さん……いや、ユウくん」
初めて、名前で呼ばれた。
「君なら、大丈夫」
光が、消えていく。木下さんの姿が、薄れていく。
最後に見えたのは、穏やかな笑顔だった。安堵の表情。三年間の苦しみから、やっと解放された顔。
「……さようなら」
そして——木下雄二の思念は、消えた。
部屋に、静寂が戻った。僕とヒルデだけが残された。
涙が、頬を伝っていた。
いつの間にか、泣いていた。
「……ユウ」
ヒルデの声が、静かに響いた。
「彼の想いを、無駄にするな」
「……わかってる」
僕は、涙を拭った。
胸の奥に、木下さんの魔力がある。彼の最後の願いが、ある。
それを——使わなければ。
◆
目を閉じた。
《転歩》に意識を集中する。
さっきとは違う。体の中に、大量の魔力がある。木下さんが残してくれた、最後の力。
——届け。
空間を掴む。遠くを目指す。この深層から、外へ。地上へ。
魔力が流れ出す。体の中から、スキルへ。
景色が——歪んだ。
「ヒルデ、手を」
僕は、ヒルデの手を掴んだ。彼女を置いていくわけにはいかない。
《転歩》が、発動した。
視界が白く染まる。体が浮き上がる感覚。空間が折り畳まれていく。
木下さんの魔力が、急速に消費されていく。一回きり。これが最初で最後。全力の跳躍。
光が弾けた。
◆
足が、地面についた。
柔らかい。土じゃない。何か——草だ。草の上に立っている。
目を開けた。
最初に見えたのは、空だった。
青い空。雲が浮かんでいる。太陽が、眩しく輝いている。
深層の暗闘じゃない。洞窟の天井じゃない。本物の空だ。
「……出た」
声が、掠れた。
周囲を見回す。
緑の草原が、どこまでも広がっていた。風が吹いている。草が揺れている。遠くに、山が見える。青い山脈が、地平線に連なっている。
王国の外だ。
見たことのない景色。でも、確かにわかる。あの暗い深層から、出たのだ。
「ユウ」
隣で、ヒルデが呟いた。
彼女も、空を見上げている。金色の瞳に、青い空が映っている。
「脱出……したな」
「……ああ」
実感が、遅れてやってきた。
生き延びた。深層から出た。木下さんの力で、ここまで来れた。
膝から、力が抜けた。その場に座り込む。
風が、頬を撫でた。草の匂いがする。土の匂いがする。生きているものの匂い。
涙が、また溢れてきた。
嬉しいからじゃない。悲しいからでもない。ただ——生きている実感が、体中を駆け巡っていた。
◆
しばらくして、涙は止まった。
でも、胸の中には重いものが残っていた。
木下さんのこと。聖印の真実。王国の闘。九条先生の正体。
全部が、頭の中でぐるぐると回っている。
「……これから、どうすればいいんだろう」
独り言のつもりだった。
でも、ヒルデには聞こえていたらしい。
「どうする、とは」
「王国に……戻るべきなのか」
僕は、膝を抱えたまま言った。
「クラスメイトがいる。高嶺さんも、相沢さんも、みんな。聖印の真実を知らないまま、王国のために戦おうとしてる」
「伝えたいのか」
「伝えなきゃいけない。木下さんとの約束だ」
でも——
「でも、今戻っても……何ができる」
声が、震えた。
「聖印の真実を話したところで、証拠がない。王国や教会が認めるわけがない。僕の言葉なんて、誰が信じる」
それだけじゃない。
「九条先生は……信用できない。三年前も担任だった。あの人が何を考えているのか、わからない」
木下さんは「信じたい」と言っていた。でも、本心はわからないと。
「王国には、僕たちの味方がいるのかもしれない。レオノーラ王女とか、シュナイダー騎士団長とか…でも味方である保証もない。敵がどれだけいるのかも、わからない」
今の僕では、判断できない。情報が足りない。力も足りない。
「今戻っても……きっと、何もできない。下手をすれば、口封じに消される」
その可能性が、頭を過ぎった。
聖印の真実を知った人間。王国にとって、都合の悪い存在。
そうでなくとも、僕を殺すつもりの人間もいる…もしかするとクラスメイトの中に。
「戻れない……」
呟いた。
戻りたいのに。でも、戻れない。
◆
不安が、胸を締め付けていた。
木下さんは消えた。僕に全てを託して。
でも、僕にその重荷を背負えるのか。約束を果たせるのか。
元の世界に帰る方法も、わからない。
妹に栞を届けると言ったけど、本当にできるのか。
クラスメイトを救いたい。でも、どうすればいいかわからない。
強くなりたい。でも、何をすればいいかわからない。
全部が、重くのしかかってくる。
深層で死にかけた時より——今の方が、怖いかもしれない。
「ユウ」
ヒルデの声がした。
顔を上げると、彼女が目の前にいた。
いつの間にか、僕の正面にしゃがみ込んでいる。金色の瞳が、真っ直ぐに僕を見ていた。
近い。
思った以上に、顔が近かった。
「私が守る」
ヒルデが言った。
静かな声。でも、揺るぎない響きがあった。
「お前は一人じゃない。私がいる」
「ヒルデ……」
「お前は私を解放した。共に戦った。私の過去を受け入れてくれた」
彼女の目が、わずかに揺らいだ。
いつもは鋭い金色の瞳に、柔らかな光が混じっている。
「だから——私はお前を守る。約束する」
その言葉が、胸に沁みた。
「お前が迷っている間、私が道を照らす。お前が立ち止まった時、私が背中を押す」
ヒルデが、少しだけ顔を近づけた。
銀色の髪が、風に揺れて僕の頬を掠めた。
「だから——行こう」
凛とした声。
堂々とした、戦乙女の佇まい。
でも、その奥に——優しさが見えた。
百年前、民間人を守ろうとして封印された人。王国の非道に異を唱えた人。その優しさが、今も彼女の中にある。
胸が——高鳴った。
これは、何だ。
今まで感じたことのない感覚だった。
高嶺さんに対して感じていたものとは、違う。
憧れとか、眩しさとか、そういうものじゃない。
もっと——近い場所で、心臓が跳ねている。
銀色の髪。金色の瞳。白い肌。
戦乙女としての凛々しさ。そして、不器用に見え隠れする温かさ。
ああ——そうか。
僕は、この人のことが——
そう気づいた瞬間、顔が熱くなった。
慌てて視線を逸らす。今この感情に向き合うのは、まずい気がした。
この人と一緒なら——行ける。
「……ありがとう、ヒルデ」
僕は、立ち上がった。
彼女も立ち上がる。並ぶと、ヒルデの方が少しだけ背が高い。
「核を取り戻す…いや全てを取り戻す旅に、僕も行く」
「……いいのか」
「ああ。その道中で、僕も強くなる。情報を集める」
懐から、押し花の栞を取り出した。
「元の世界に帰る方法を探す。木下さんとの約束を、果たす」
栞を、しっかりと握りしめた。
「そして——いつか、みんなに真実を伝えるために。準備が整ったら」
ヒルデが、少しだけ目を見開いた。
そして——口角が上がった。
「……いい目だ」
彼女が、風上を向いた。
銀色の髪が、風に流れる。
「行くぞ、ユウ」
「ああ」
僕たちは、歩き始めた。
草原を抜けて。山を越えて。まだ見ぬ世界へ。
元の世界に帰るために。
木下さんの想いを届けるために。
そして——ヒルデの核を、取り戻すために。
深層での日々は、終わった。
でも、旅は始まったばかりだ。
僕は——一歩を踏み出した。
ヒルデと共に。
広い世界へ向かって。




