3年前の残り香
部屋の中に、一歩を踏み入れた。
埃っぽい空気が肺を満たす。光苔の淡い明かりが、室内をぼんやりと照らしていた。
狭い部屋だった。六畳ほどか。天井は低く、壁は荒削りの石で囲まれている。主の部屋とは違う。ここは人が作った空間だ。
壁際に、簡易的な寝床があった。石の台の上に、何かの布が敷かれている。布は色褪せて、端がほつれていた。何度も使われた跡がある。
反対側には大きな石を利用したテーブル。その上に、道具や容器が並んでいた。空の水筒。錆びた小刀。干からびた何かの残骸。食料だったのかもしれない。
そして壁には、文字が刻まれていた。
石を削って書いたのだろう。荒い筆跡。でも、読める。必死に何かを伝えようとしている文字だった。
「ここで……暮らしていたのか」
僕は呟いた。ヒルデが隣に立っている。
この深層で。主のいる部屋のすぐ近くで。誰かが、生きていた。
懐の手帳が、重く感じられた。
木下雄二。私立聖陵学園高等学校、二年生。三年前に召喚されて、単独で深層に送り込まれた人。その人が、ここにいたのだ。あの手帳を書き残した後、ここまで辿り着いていた。
「見てみよう」
僕は壁の文字に近づいた。
最初の文字列は、こうだった。
『ここまで来た。遺跡の主と思われる部屋の奥に、隠し部屋があった。幸い主がいないタイミングがあるようで、探知のスキルを駆使して忍び込んだ』
日付はない。時間の感覚が失われていたのかもしれない。
続きを読む。
『食料を見つけた。誰かの残したものか。少しだけ生き延びられる』
『水は主の部屋を通らないと取りに行けない。危険だ。でも、行くしかない』
『足の傷が治らない。動くのが辛い』
文字が、少しずつ乱れていく。
『帰りたい。優花に会いたい。お兄ちゃんは絶対帰るって、約束したのに』
胸が締め付けられた。この人は、ここで待っていたのだ。助けが来ることを信じて。でも、誰も来なかった。
壁の文字は、さらに続いていた。
『体が動かない。もう、主の部屋を通れない。水が取りに行けない』
『もう、だめかもしれない』
そして、最後の一行。
『優花、ごめん。お兄ちゃん、帰れなかった』
それが、壁に刻まれた最後の言葉だった。
僕は、しばらく動けなかった。
この部屋で、この人は死んだのだ。助けを求めながら。妹の名前を呼びながら。誰にも見つけられずに。
でも、遺体がない。骨も、衣服の残骸も。どこへ消えたのだろう。主に食われたのか。それとも——
「ユウ」
ヒルデの声が、僕を現実に引き戻した。彼女は部屋の奥を見ていた。棚の向こう側。暗がりの中に、何かがある。
「あれは……」
近づいてみる。
棚の陰に隠れるように、小さな祭壇のようなものがあった。石を積み上げて作られている。その上に、何かが置かれていた。
光苔の明かりを近づける。
写真だ。妹の写真。優花という名前の、七歳の女の子。あの水場で見つけた写真と同じものだった。
いや、違う。あれは僕が拾った。これは、別の写真だ。よく見ると、構図が少し違う。同じ女の子が、同じようにピースサインをしている。でも、背景が違う。服装も違う。
複数枚、持っていたのだろう。そのうちの一枚を、ここに——祭壇のように飾っていた。
この写真を見ながら、この人は死んでいったのだ。妹の顔を、最後に見たかったのだろう。
◆
その時だった。
空気が——変わった。
温度が下がったわけではない。風が吹いたわけでもない。でも、何かが違う。部屋の中に、気配があった。僕とヒルデ以外の、何かの気配。
「——聞こえますか」
声がした。どこからともなく。でも、確かに聞こえた。若い男の声。震えている。でも、必死に何かを伝えようとしている声。
「ヒルデ」
「……ああ。私にも聞こえる」
ヒルデが、警戒するように周囲を見回した。でも、敵意は感じられない。この声には、害意がない。
「あなたは……誰だ」
僕は、声のする方向に問いかけた。
「——僕は……木下雄二」
手帳の持ち主。この部屋で死んだ人。その人の声が、今、聞こえている。
「思念……か」
ヒルデが呟いた。
「強い想いを残して死んだ者は、稀に思念として残ることがある。この深層の魔力が、それを可能にしているのだろう」
祭壇の上で、空気が揺らいだ。淡い光が集まっていく。人の形を作っていく。
そして——そこに、彼がいた。
透けている。向こう側が見える。でも、確かに人の姿をしている。高校生くらいの男子。少し痩せている。目が大きくて、どこか気弱そうな顔立ち。制服を着ている。聖陵学園の制服だろう。
木下雄二。三年前に召喚されて、この深層で死んだ人。その思念が、僕の前に現れていた。
「あなたは……生きている人間ですか」
思念が、僕を見ていた。目に、涙が浮かんでいる。思念なのに、泣いている。
「ずっと、待っていました。誰か来てくれるのを。でも、誰も来なくて……」
「木下さん」
僕は、彼の名前を呼んだ。
「あなたの手帳を見つけた。妹さんの写真も。メモも。全部、読んだ」
思念の目が、大きく見開かれた。
「優花の……写真を?」
「ああ。水場で見つけた。大事に持っている」
懐から、手帳と写真を取り出した。思念に見せる。
木下雄二の思念は、それを見て——泣き崩れた。
「よかった……見つけてもらえた……」
声が震えている。体も震えている。三年間、誰にも見つけられず、誰にも気づかれず、ただ待ち続けた魂が——やっと、解放されようとしている。
「あなたは……名前は」
「黒瀬ユウ。同じように召喚された。三ヶ月前に」
「黒瀬……さん」
思念が、僕の名前を繰り返した。
「あなたも……使い捨てにされたんですか」
「いえ魔族との戦闘中にトラブルでここに…、閉じ込められました」
「そう……ですか」
思念の顔が、悲しげに歪んだ。
しばらく、沈黙が続いた。
思念は泣き止んで、少し落ち着いたようだった。僕は彼の前に座り込んで、話を聞く姿勢を取った。ヒルデは少し離れた場所に立っている。僕たちの会話を見守りながら、何かを考えているようだった。
「木下さん。聞きたいことがある」
「……何でも、聞いてください。僕に答えられることなら」
「あなたは……どうやって死んだ」
直接的な問いだった。でも、避けては通れない。
思念は、少し俯いた。
「水が……取りに行けなくなって。足の傷が悪化して、動けなくなって。主の部屋を通れなくて……」
「衰弱死か」
「……はい。たぶん」
思念の声が、震えた。
「でも……死ぬ瞬間に、おかしなことがありました」
「おかしなこと?」
「聖印が……光ったんです」
聖印。教会で受けた、祝福の印。僕たちの体に刻まれた、この世界の紋章。
「光った?」
「はい。胸の聖印が、急に熱くなって……光って……」
思念の手が、胸元に触れた。もう実体はないのに、その動作をしている。
「そして……何かが、吸い上げられる感覚がありました」
「吸い上げられる?」
「うまく説明できないんですけど……体の中から、何かが……引き抜かれていくような。《探知》の力が、聖印を通して、どこかに……飛んでいくような感覚が」
僕は、息を呑んだ。
聖印が光る。スキルが吸い上げられる。どこかへ飛んでいく。それは——
◆
「ヒルデ」
僕は、彼女の方を振り向いた。
「今の話……何か、知っているのか」
ヒルデは、しばらく黙っていた。金色の瞳が、暗い光を帯びている。
「……知っている」
低い声だった。怒りを押し殺したような声。
「聖印は、守護の紋章と言われているがで実際は違う」
「じゃあ、何なんだ」
「回収装置だ」
その言葉が、部屋の空気を凍らせた。
「回収……装置?」
「異世界から召喚された者は、祝福の儀でスキルを授かる。違う世界の人間故か、特殊なスキルであることが多い」
ヒルデが、ゆっくりと近づいてきた。
「教会は、その力を欲した。異世界人のスキルを、自分たちの騎士に移植する方法を。そのために作られたのが——聖印だ」
「……まさか」
「召喚者が死ぬと、聖印が発動する。スキルを魂から引き剥がし、教会に転送する。そして、適合する騎士に——移植される」
僕の頭が、真っ白になった。
聖印は守護ではない。回収装置。死んだらスキルを奪われる。つまり——僕たちは、最初から。
「スキルを育てるための……苗床か」
「そういうことだ」
ヒルデの声は、冷たかった。
「王国と教会にとって、召喚者は使い捨ての存在だ。生きている間は戦力として使い、死ねばスキルを回収する。どちらにしても、利用価値がある」
吐き気がした。膝が震えた。僕たちは、そういう扱いを受けていたのか。最初から。
「じゃあ……みんなも」
声が、掠れた。
「みんな、死んだら——スキルを奪われるのか」
「聖印を持っている限りは、そうだ」
クラスメイトの顔が、頭に浮かんだ。
みんな、知らないのだ。自分たちの体に刻まれた聖印が、何なのか。死んだ時に何が起きるのか。
怒りが、腹の底から湧き上がってきた。
「なんで……」
声が震えた。拳を握りしめた。
「なんで、そんなことを……」
「それが、この国のやり方だ」
ヒルデが言った。
「私が封印された理由の一部もそこにある。私は、そのシステムに異を唱えた。異世界人を巻き込む作戦を拒否した。」
ヒルデの過去。彼女が語った、王国の罪。繋がった。すべてが、繋がった。この国は、最初から腐っていたのだ。
思念の木下雄二が、小さく呟いた。
「そう……だったんですね」
彼の声には、怒りではなく、諦めがあった。
「僕のスキルも……《探知》も……誰かに、移植されているんですね」
「……おそらくは」
「そうですか」
思念は、静かに目を閉じた。
「僕は、死んでも……利用されていたんだ」
その言葉に、僕は何も言えなかった。彼は、知らなかったのだ。死ぬまで、知らなかった。自分の体に刻まれた聖印が、何なのか。そして、死んだ後に——気づいた。
「黒瀬さん」
思念が、目を開けた。
「あなたは……聖印を持っていますか」
その問いに、僕は——答えられなかった。
聖印を僕は消すことができた。
胸に手を当てた。服の上から、聖印があるはずの場所を探る。
——何も、感じない。
「ユウ」
ヒルデが言った。
「お前の聖印は、もうない」
「聖印は、お前の体に刻まれた異物だ。《記録》は、おそらく元の状態、聖印のない状態を記録しもとに戻したのだろう。お前は回収システムから、外れたのだ」
僕は、自分の胸を見下ろした。聖印があったはずの場所。今は、何も見えない。何も感じない。消えている。本当に、消えている。
「だから……僕は」
「そうだ。お前だけは、死んでもスキルを奪われない。」
僕だけ。クラスメイトの中で、僕だけが。その事実が、重く——のしかかってきた。
◆
重い沈黙が、部屋を満たしていた。
聖印の真実。回収装置。僕たちは最初から——利用されるために召喚された。
ヒルデが、壁に背を預けていた。金色の瞳が、虚空を見つめている。
彼女も、思うところがあるのだろう。百年前、同じシステムに異を唱えて封印された。その過去が、今の話と重なっているはずだ。
「木下さん」
僕は、思念に向き直った。
「もう少し、聞かせてほしい。三年前——あなたは、なぜこの深層に一人で送り込まれた」
思念の顔が、わずかに強張った。
「……《探知》があったからです。魔物を避けて進めるから、単独で深層を調査しろと」
それは、手帳に書かれていた内容と一致する。
「他のクラスメイトは?」
「別の任務を……命じられていました」
木下さんの声が、震えた。
「別の任務?」
「……魔族領への潜入です」
魔族領。人間が足を踏み入れることを禁じられた場所。そこへ——召喚されたばかりの高校生を送り込んだのか。
「正気じゃない……」
「王国の人たちは言いました。重要な物を取り戻す任務だって。成功すれば、帰還の手がかりが得られるって」
帰還の手がかり。その言葉で釣ったのか。家に帰りたいという願いを利用して、死地に送り込んだ。
「何を……取り戻せと言われていた」
木下さんは、少し躊躇した。そして——ヒルデの方を見た。
「……戦乙女の核、です」
空気が、凍りついた。
僕は思わずヒルデを振り返った。彼女の表情が、強張っていた。
「核……」
ヒルデの核。彼女が弱体化している理由。心臓にあたる部分が欠けている。それが——魔族に奪われている?
「百年前、魔族がその核を奪い去ったと聞きました」
木下さんが続けた。
「それを取り戻せば、英雄の力が使えると。魔族に負けないために必要な物だと」
ヒルデの顔が、蒼白になっていた。
金色の瞳が、揺れている。
「そんな……私の核が、魔族の……」
彼女は知らなかったのだ。
封印されている間に、自分の核が何処にあるのかさえ。百年の眠りの中で、何が起きていたのかを。
「僕は索敵担当として、こっちの深層を任されました。戦闘向きじゃなかったから」
木下さんの声は、苦々しかった。
「でも、仲間たちは魔族領に。《炎槍》を持ったリーダーと、戦闘系スキルの数人で。少数精鋭で潜入しろって」
「……結果は」
「知りません。僕がこの深層で動けなくなった後、どうなったのか……でも、三年経っても誰も助けに来なかった」
つまり——全滅したか、見捨てられたか。どちらにしても、帰ってきた者はいない。
「騎士団の護衛は、いなかったのか」
「いませんでした。『少人数の方が見つかりにくい』って。でも、本当は——僕たちが死んでも構わなかったんだと思います」
使い捨て。最初から、そういう扱いだったのだ。
僕たちと同じように召喚されて、僕たちと同じように訓練を受けて——そして、死地に送り込まれた。
◆
僕は、もう一つ聞きたいことがあった。
「木下さん。あなたたちの——担任の教師は、誰だった」
「教師……ですか」
木下さんの表情が、少し変わった。懐かしむような、それでいて悲しげな目。
「九条先生……です」
僕は、息を呑んだ。
「九条……まこと?」
「はい。僕たちの担任、九条まこと先生」
同じ名前。同じ人物なのか。それとも——
「どんな人だった」
木下さんは、少し考えてから答えた。
「……優しい人でした。いつも僕たちのことを気にかけてくれて」
「優しい……」
「はい。危険な任務の時は、王国に抗議してくれたり。『生徒たちを危険に晒すな』って」
僕が知っている九条先生とは、少し違う印象だった。いや——表面上は同じかもしれない。でも、本心は。
「先生は……最後まで、僕たちを守ろうとしてくれました。魔族領に行く仲間たちを見送る時、泣いていた」
泣いていた。生徒のために。
「先生も一緒に行くって言い張ったんです。でも、王国に止められて。『教師は戦力にならない、足手まといだ』って」
木下さんの目が、遠くを見ていた。
「僕は別行動だったから、あんまり詳しくは知らないんですけど……でも、先生は本当に心配してくれていたと思います。表情を見ればわかりました」
表情を見ればわかった。それは——本心だったのか。演技だったのか。
「先生の本心は……どうだったと思う」
木下さんは、首を傾げた。
「本心……ですか?」
「その……本当に生徒のことを想っていたのか。それとも、何か別の目的が——」
「わからないです」
木下さんが、正直に答えた。
「僕たちは……先生を信頼していました。優しかったし、いつも味方でいてくれたから。でも、本心まではわからないです。先生が何を考えていたのか、本当のところは……」
やはり、そうか。
木下さんが知っているのは、表面上の九条先生だけだ。生徒に優しく接して、危険な任務に反対して、見送る時に泣いてくれた教師。
でも、その奥に何があったのかは——誰にもわからない。
「ただ……」
木下さんが、付け加えた。
「僕は、信じたいです。先生は本物だったって。あの涙は、演技じゃなかったって」
その言葉が、胸に刺さった。
三年前の九条先生と、今の九条先生が同一人物なのかどうかさえ、確信が持てない。
でも、もし同じ人物だとしたら——三年前は生徒のために泣いていた人が、今はどうなっているのか。
今は、わからない。判断する材料が足りない。
◆
思念の木下雄二が、僕を見ていた。その目に、羨望があった。妬みではない。純粋な、羨ましさ。
「いいですね……黒瀬さんは」
「木下さん……」
「僕も、知っていたら……聖印を消す方法があるって、知っていたら……」
声が、震えた。
「でも、もう遅いですよね。僕は死んでしまった。スキルも、奪われてしまった。今さら、何を言っても……」
思念の体が、少し薄くなった。感情が乱れると、存在が不安定になるのだろう。三年間の孤独と絶望が、彼の魂を蝕んでいた。
「妹にどうしても…これを…渡したかった」
木下さんは押し花の栞を握りしめていた。
「それは…?」
「妹は生まれつき病を持っていました。すこしづつ体を蝕んでいく、でもこの世界にはあらゆる病気を治す花があった!だから僕は王国に協力していたのに…」
だからなのか、王国の命令とはいえこんな危険なダンジョンに。
「やっとここで見つけたんだ、エリクサーの花を…これを煎じて飲ませれば優花は!」
強い思念、死んだ事の後悔だけじゃない、きっとこれが木下さんの一番の思いだったんだ。
「僕が届けるよ」
思念が、顔を上げた。
「…え?」
「僕がやる、必ず、王国の好きにはさせない。これ以上利用されてたまるか」
「本当……ですか」
「約束する。僕がここから出られたら、元の世界に戻る方法を見つける。必ず帰る、木下さんの思いを届けるよ」
その言葉に、思念の目から——涙が零れた。今度は、悲しみの涙ではない。安堵の涙だった。
「ありがとう……ございます」
声が、震えていた。
「ずっと、待っていたんです。誰かに、伝えたかった」
思念は、しばらく泣いていた。
そして——顔を上げた。その目に、決意があった。
「黒瀬さん。お願いがあります」
「何でしょうか」
「僕に——託させてください」
託す。何を。
「あなたに、僕の力を。残っているものすべてを」




