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勝利とその先へ

 核が目の前にあった。

 赤い光。脈打つ生命の源。傷ついて、弱って、それでもまだ輝いている。

 主が動こうとしていた。形態が崩れる苦痛の中で、それでも僕を排除しようとしている。前足が持ち上がる。爪が向けられる。


 でも遅い。第三形態の崩壊で体が言うことを聞かないのだ。動きが鈍い。軌道が読める。

 僕は止まらなかった。

 爪が振り下ろされる。半歩だけ横にずれる。ヒルデに教わった動き。最小限の移動で最大の効果。爪が肩を掠めた。服が裂ける。皮膚が切れる。血が滲む。


 でも止まらない。

 核に向かって、短剣を突き出した。

 刃が赤い光に触れた。抵抗がある。核を守ろうとする最後の力。押し返そうとする圧力。


 構わない。

 体重を乗せた。両手で柄を握り、全身の力を込めて押し込んだ。

 短剣が沈んでいく。核の表面を貫いて、奥へ、奥へ。


 主が絶叫した。今までで一番大きな叫び。断末魔の叫び。


 でも僕は手を離さなかった。膝が震えている。腕が痺れている。視界が霞んでいる。それでも短剣を握り続けた。最後まで、崩れない姿勢で。

 刃が核の中心に達した。

 赤い光が、砕けた。



 主の体が崩れていった。

 まるで砂の城が波に呑まれるように。黒い鱗が剥がれ落ち、筋肉が萎み、骨が崩れる。金色だった目が濁り、光を失っていく。

 僕は短剣を引き抜いた。黒い血が噴き出す。温かい。生き物の血の温度だ。


 主だったものが床に倒れた。もう動かない。もう脈打たない。古い存在だった何かが、ただの残骸になっていく。

 終わった。

 その実感が、遅れてやってきた。


 膝から力が抜けた。立っていられない。その場に崩れ落ちる。短剣が手から滑り落ちて、床に金属音を立てた。


 息が荒い。心臓がまだ暴れている。全身が汗で濡れている。体中が痛い。《戦乙女の加護》の効果が薄れてきたのか、今まで感じなかった痛みが一気に押し寄せてくる。


 勝った。勝ったのに、体が震えている。恐怖ではない。緊張が解けたせいだ。死ぬかもしれないという状況から、やっと解放された。その反動が、体を震わせている。

 天井を見上げた。暗い。光苔の淡い光だけが、空間を照らしている。

 生きている。僕はまだ、生きている。



 どれくらいそうしていただろう。

 呼吸が落ち着いてきた。心臓の鼓動が、少しずつ静まっていく。体の震えも、収まりつつある。

 ヒルデ。


 その名前が頭に浮かんで、慌てて体を起こした。

 壁際に倒れていた銀色の髪が見える。動いていない。まだ気を失っているのか。

 立ち上がろうとして、膝が笑った。力が入らない。四つん這いのまま、ヒルデの方へ這っていく。


 近づいて、顔を覗き込んだ。目を閉じている。でも胸が上下している。呼吸がある。生きている。


「ヒルデ」


 声をかけた。返事がない。


「ヒルデ、終わったよ。倒した」


 彼女の肩に触れた。揺すってみる。

 金色の瞳がゆっくりと開いた。


「……ユウ」


 かすれた声。疲労に濁った目。でもその奥に、確かな光がある。


「……倒したのか」


「うん。核を砕いた」


 ヒルデの視線が、僕の後ろに向けられた。主だったものの残骸を見ている。


「……そうか」


 彼女の唇が、微かに上がった。笑おうとしているのだ。疲れ切った顔で、それでも笑おうとしている。


「よく、やった」


 その言葉が、胸に沁みた。



 しばらく二人で動けなかった。


 ヒルデは壁に背を預けたまま、目を閉じていた。意識はあるが、体が動かないのだろう。弱体化した体で、あれだけの戦闘をしたのだ。消耗は僕以上のはずだ。


 僕はヒルデの隣に座り込んでいた。傷の確認をする気力もない。ただ息を整えて、体力が回復するのを待っている。

 主の残骸から、黒い靄が立ち上っていた。ゆっくりと空気に溶けていく。古い存在が、この世界から消えていく。


「……ユウ」


 ヒルデが口を開いた。目は閉じたままだ。


「どうやって倒した」


「第三形態が崩れた時に核が露出した。その隙に刺した」


「私が気を失った後か」


「うん」


「……一人で、やり遂げたのだな」


 その声には、静かな感嘆があった。


「お前は強くなった。出会った時とは別人だ」


「ヒルデが教えてくれたから」


「私は教えただけだ。実行したのはお前だ」


 ヒルデが目を開けた。金色の瞳が僕を見ている。


「誇っていい。お前は遺跡の主を倒した。それは紛れもない事実だ」


 その言葉を、素直に受け取った。

 勝ったのだ。生き延びたのだ。三年前の召喚者が辿り着けなかった場所で、僕は生き残った。



 少し休んでから、立ち上がった。

 足はまだ震えているが、歩ける。ヒルデに手を貸して、彼女も立ち上がらせた。


「動けるか」


「問題ない。少し休めば回復する」


 ヒルデはそう言ったが、僕の肩に手を置いたまま離さなかった。支えがないと歩けないのだろう。それを指摘しないでおいた。

 主の残骸の横を通り過ぎる。黒い靄はもうほとんど消えていた。残っているのは、崩れた鱗と骨の破片だけだ。


 部屋の奥を見た。

 壁がある。行き止まりかと思った。でも違う。

 壁の一角に、扉があった。


 主の巨体に隠れて見えなかったのだろう。石造りの、古い扉。表面には紋様が刻まれているが、封印のそれとは違う。ただの装飾だ。


「あれは」


 ヒルデが呟いた。


「隠し部屋か。主が守っていたものがあるのかもしれない」


 僕は扉に近づいた。取っ手に手をかける。重い。でも動く。

 少しずつ扉を開けていく。古い空気の匂いが流れ出してくる。埃っぽい。でもその中に、別の匂いが混じっている。

 人の暮らしの匂い。


 扉が開いた。

 その向こうに広がっていたのは、小さな部屋だった。


 壁際に簡易的な寝床がある。毛布が敷かれている。反対側には、物が積まれた棚。道具や、食料だったものの残骸。そして壁には、文字が刻まれていた。落書きのような、でも必死に何かを伝えようとしている文字。


 誰かがここで暮らしていた。

 この深層で。主のいる部屋の奥で。誰かが生きていた痕跡がある。

 懐の手帳が、重く感じられた。


 三年前の召喚者。

 その人は、ここまで辿り着いていたのかもしれない。


「入ってみよう」


 僕は一歩を踏み出した。ヒルデが隣についてくる。

 三年前の誰かが残したものを、確かめるために。


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