勝利とその先へ
核が目の前にあった。
赤い光。脈打つ生命の源。傷ついて、弱って、それでもまだ輝いている。
主が動こうとしていた。形態が崩れる苦痛の中で、それでも僕を排除しようとしている。前足が持ち上がる。爪が向けられる。
でも遅い。第三形態の崩壊で体が言うことを聞かないのだ。動きが鈍い。軌道が読める。
僕は止まらなかった。
爪が振り下ろされる。半歩だけ横にずれる。ヒルデに教わった動き。最小限の移動で最大の効果。爪が肩を掠めた。服が裂ける。皮膚が切れる。血が滲む。
でも止まらない。
核に向かって、短剣を突き出した。
刃が赤い光に触れた。抵抗がある。核を守ろうとする最後の力。押し返そうとする圧力。
構わない。
体重を乗せた。両手で柄を握り、全身の力を込めて押し込んだ。
短剣が沈んでいく。核の表面を貫いて、奥へ、奥へ。
主が絶叫した。今までで一番大きな叫び。断末魔の叫び。
でも僕は手を離さなかった。膝が震えている。腕が痺れている。視界が霞んでいる。それでも短剣を握り続けた。最後まで、崩れない姿勢で。
刃が核の中心に達した。
赤い光が、砕けた。
◆
主の体が崩れていった。
まるで砂の城が波に呑まれるように。黒い鱗が剥がれ落ち、筋肉が萎み、骨が崩れる。金色だった目が濁り、光を失っていく。
僕は短剣を引き抜いた。黒い血が噴き出す。温かい。生き物の血の温度だ。
主だったものが床に倒れた。もう動かない。もう脈打たない。古い存在だった何かが、ただの残骸になっていく。
終わった。
その実感が、遅れてやってきた。
膝から力が抜けた。立っていられない。その場に崩れ落ちる。短剣が手から滑り落ちて、床に金属音を立てた。
息が荒い。心臓がまだ暴れている。全身が汗で濡れている。体中が痛い。《戦乙女の加護》の効果が薄れてきたのか、今まで感じなかった痛みが一気に押し寄せてくる。
勝った。勝ったのに、体が震えている。恐怖ではない。緊張が解けたせいだ。死ぬかもしれないという状況から、やっと解放された。その反動が、体を震わせている。
天井を見上げた。暗い。光苔の淡い光だけが、空間を照らしている。
生きている。僕はまだ、生きている。
◆
どれくらいそうしていただろう。
呼吸が落ち着いてきた。心臓の鼓動が、少しずつ静まっていく。体の震えも、収まりつつある。
ヒルデ。
その名前が頭に浮かんで、慌てて体を起こした。
壁際に倒れていた銀色の髪が見える。動いていない。まだ気を失っているのか。
立ち上がろうとして、膝が笑った。力が入らない。四つん這いのまま、ヒルデの方へ這っていく。
近づいて、顔を覗き込んだ。目を閉じている。でも胸が上下している。呼吸がある。生きている。
「ヒルデ」
声をかけた。返事がない。
「ヒルデ、終わったよ。倒した」
彼女の肩に触れた。揺すってみる。
金色の瞳がゆっくりと開いた。
「……ユウ」
かすれた声。疲労に濁った目。でもその奥に、確かな光がある。
「……倒したのか」
「うん。核を砕いた」
ヒルデの視線が、僕の後ろに向けられた。主だったものの残骸を見ている。
「……そうか」
彼女の唇が、微かに上がった。笑おうとしているのだ。疲れ切った顔で、それでも笑おうとしている。
「よく、やった」
その言葉が、胸に沁みた。
◆
しばらく二人で動けなかった。
ヒルデは壁に背を預けたまま、目を閉じていた。意識はあるが、体が動かないのだろう。弱体化した体で、あれだけの戦闘をしたのだ。消耗は僕以上のはずだ。
僕はヒルデの隣に座り込んでいた。傷の確認をする気力もない。ただ息を整えて、体力が回復するのを待っている。
主の残骸から、黒い靄が立ち上っていた。ゆっくりと空気に溶けていく。古い存在が、この世界から消えていく。
「……ユウ」
ヒルデが口を開いた。目は閉じたままだ。
「どうやって倒した」
「第三形態が崩れた時に核が露出した。その隙に刺した」
「私が気を失った後か」
「うん」
「……一人で、やり遂げたのだな」
その声には、静かな感嘆があった。
「お前は強くなった。出会った時とは別人だ」
「ヒルデが教えてくれたから」
「私は教えただけだ。実行したのはお前だ」
ヒルデが目を開けた。金色の瞳が僕を見ている。
「誇っていい。お前は遺跡の主を倒した。それは紛れもない事実だ」
その言葉を、素直に受け取った。
勝ったのだ。生き延びたのだ。三年前の召喚者が辿り着けなかった場所で、僕は生き残った。
◆
少し休んでから、立ち上がった。
足はまだ震えているが、歩ける。ヒルデに手を貸して、彼女も立ち上がらせた。
「動けるか」
「問題ない。少し休めば回復する」
ヒルデはそう言ったが、僕の肩に手を置いたまま離さなかった。支えがないと歩けないのだろう。それを指摘しないでおいた。
主の残骸の横を通り過ぎる。黒い靄はもうほとんど消えていた。残っているのは、崩れた鱗と骨の破片だけだ。
部屋の奥を見た。
壁がある。行き止まりかと思った。でも違う。
壁の一角に、扉があった。
主の巨体に隠れて見えなかったのだろう。石造りの、古い扉。表面には紋様が刻まれているが、封印のそれとは違う。ただの装飾だ。
「あれは」
ヒルデが呟いた。
「隠し部屋か。主が守っていたものがあるのかもしれない」
僕は扉に近づいた。取っ手に手をかける。重い。でも動く。
少しずつ扉を開けていく。古い空気の匂いが流れ出してくる。埃っぽい。でもその中に、別の匂いが混じっている。
人の暮らしの匂い。
扉が開いた。
その向こうに広がっていたのは、小さな部屋だった。
壁際に簡易的な寝床がある。毛布が敷かれている。反対側には、物が積まれた棚。道具や、食料だったものの残骸。そして壁には、文字が刻まれていた。落書きのような、でも必死に何かを伝えようとしている文字。
誰かがここで暮らしていた。
この深層で。主のいる部屋の奥で。誰かが生きていた痕跡がある。
懐の手帳が、重く感じられた。
三年前の召喚者。
その人は、ここまで辿り着いていたのかもしれない。
「入ってみよう」
僕は一歩を踏み出した。ヒルデが隣についてくる。
三年前の誰かが残したものを、確かめるために。




