VS遺跡の主2
腕が、痺れていた。
血が止まらない。短剣を握る手が、滑る。
——まずい。
頭ではわかっている。でも、恐怖は感じない。《戦乙女の加護》が消している。
だからこそ、理屈で考える。
このまま戦い続ければ——体力が尽きる。先に倒れるのは、僕の方だ。
「ユウ」
ヒルデの声が、横から響いた。
「下がれ。少し時間を稼ぐ」
僕が何か言う前に——ヒルデが、前に出た。
◆
銀色の髪が、暗闇の中で揺れた。
ヒルデは武器を持っていない。弱体化した体。魂の核を失った、不完全な状態。
なのに——その動きは、鋭かった。
主が、爪を振り下ろす。
ヒルデは、半歩だけ横に動いた。それだけで——攻撃が、空を切る。
次の薙ぎ払い。また半歩。紙一重で、躱す。
無駄がない。最小限の動きで、最大の効果を出している。
——これが、百年前の英雄。
弱体化していても、技術は残っている。戦いの極意が、体に刻まれている。
《記録》が、その動きを刻んでいた。
足の運び方。体の傾け方。視線の向け方。すべてが——教科書のように正確だった。
でも——長くは持たない。
ヒルデの息が、乱れ始めていた。
三度目の回避。四度目。五度目。
動きが、わずかに鈍くなっている。
主が、それを察したのか——攻撃が、激しくなった。
連続で爪が振られる。ヒルデが後退する。壁が、近づいていく。
「ヒルデ!」
僕は、駆け出していた。
腕は痺れている。血も止まっていない。
でも——動ける。まだ、動ける。
短剣を構えて、主の横腹に飛び込んだ。
さっき傷をつけた場所。鱗の隙間。
そこを狙って——突き出した。
主が、咄嗟に体を捻った。短剣が、鱗を擦って弾かれる。
でも——注意が、僕に向いた。
ヒルデが、壁から離れる時間ができた。
「……助かった」
ヒルデの声が、背後から聞こえた。
息が荒い。額に汗が滲んでいる。
でも——金色の瞳は、まだ光を失っていなかった。
「いい判断だ。だが——無茶をするな」
「ヒルデこそ」
「私は大丈夫だ。お前より、ずっと長く戦ってきた」
その言葉に——なぜか、安心した。
弱体化していても、ヒルデは頼りになる。一人じゃない。そう思えるだけで、心が軽くなった。
◆
主が、再び動き出した。
今度は——僕を狙っている。
赤い目が、こちらを見据えていた。獲物を定めた、捕食者の目。
「来るぞ」
ヒルデが、僕の隣に立った。
「私が合図を出す。その通りに動け」
「……わかった」
主が、跳んだ。
「右!」
ヒルデの声に従って、右に転がった。
爪が、さっきまでいた場所を抉る。床の石が、砕け散った。
「起き上がれ。次が来る」
言われるまま、立ち上がった。
主が、体勢を立て直している。次の攻撃の溜めが——見えた。
「左前。懐に入れ」
ヒルデの指示。迷わず、従った。
左前に踏み込む。主の攻撃が、頭上を通過していく。
近い。鱗の質感が、目の前にある。
「狙うな」
ヒルデの声が、頭に響いた。
「今は当てようとするな。当てられない位置にいろ」
——当てられない位置。
その意味が、一瞬でわかった。
攻撃を当てることより、攻撃を受けないことを優先しろ。生き残ることが、最優先だ。
僕は、主の懐から離脱した。
後ろに下がるのではなく、横に回り込む。主の視界から外れる位置へ。
「そうだ。その動きだ」
ヒルデの声に、わずかな称賛が混じっていた。
主が、首を巡らせた。僕を探している。
その隙に——さらに位置を変える。
《記録》が、主の視界を分析していた。どこが死角か。どの角度なら見えにくいか。
赤い目の動きを追いながら、常にその外側に回り込む。
——見えてきた。
戦い方が、少しずつ——わかってきた。
◆
ヒルデが、反対側から動いた。
主の注意が、分散する。僕とヒルデ、二つの標的を同時に追えない。
「交互に動け。片方が動いている間、もう片方は止まる」
ヒルデの指示は、簡潔だった。
でも——的確だった。
僕が動く。主の視線が、僕を追う。
その間に、ヒルデが位置を変える。
主が、ヒルデを見る。
その間に、僕が動く。
呼吸を合わせるように、交互に移動していく。
主が、苛立ったように咆哮を上げた。
どちらを追えばいいかわからない。狙いが定まらない。
——これが、連携か。
一人では不可能なことが、二人ならできる。
何度目かの移動の時——チャンスが見えた。
主が、ヒルデを追って首を向けた瞬間。
横腹が——がら空きになっていた。
さっき傷をつけた場所。まだ血が滲んでいる。
僕は、踏み込んだ。
「待て!」
ヒルデの声が、遅れて聞こえた。
でも——体は、もう動いていた。
短剣を突き出す。鱗の隙間を狙って——
——当たった。
手応えがある。刃が、肉に沈む感覚。
黒い血が、噴き出した。
主が、絶叫を上げた。
◆
その瞬間——何かが、変わった。
空気が、震えた。
主の体から、黒い靄が噴き出していた。
傷口からではない。全身から。まるで——殻を脱ぎ捨てるように。
「下がれ!」
ヒルデの声が、鋭く響いた。
僕は、反射的に後退した。
主の体が——膨張していく。
黒い鱗が、さらに黒く染まる。背中の骨の突起が、伸びていく。
赤い目が——金色に変わった。
咆哮。
さっきまでとは、比べ物にならない圧。
肺が潰されそうになる。足が、床に縫い付けられる。
——形態が、変わった。
《記録》が、警告を発していた。
さっきまでのパターンは、もう通用しない。動きが、完全に変わっている。
「ユウ」
ヒルデが、僕の腕を掴んだ。
引っ張られるようにして、壁際まで下がる。
主が——ゆっくりと、こちらを向いた。
金色の目が、僕たちを捉えていた。
◆
「……まずいな」
ヒルデが、低く呟いた。
その声に——初めて、焦りの色があった。
「形態変化か。予想より、早い」
「形態変化……?」
「古い存在には、よくある。追い詰められると、姿を変えて力を増す」
主が、一歩を踏み出した。
床が、軋んだ。体重が、さっきより重くなっている。
「さっきまでの動きは忘れろ。パターンが変わった」
ヒルデが、僕の前に立った。
細い背中が、壁のように見えた。
「私が先に動きを見る。お前は——生き残ることだけを考えろ」
その声は、厳しかった。
でも——どこか、温かかった。
守られている。そう感じた。
弱体化した体で、それでも僕を守ろうとしている。
百年前の英雄は——今も、英雄だった。
「……わかった」
僕は、短剣を握り直した。
腕はまだ痺れている。血も止まっていない。
でも——まだ、戦える。
ヒルデが前にいる限り、僕も立ち続ける。
主が——咆哮を上げた。
第二形態の戦いが、始まった。




