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戦いを知る

 暗闘の中、ヒルデが足を止めた。


「ここでいい」


 通路の脇に、少し広い空間があった。天井が高く、壁に苔が生えている。微かに水が滴る音が聞こえる。


「休むのか?」


「違う」


 ヒルデが振り向いた。金色の瞳が、火のない暗闘の中でも光を放っている。


「お前に、戦い方を教える」



 僕は驚いて、ヒルデを見た。


「今から?」


「そうだ。この先には遺跡の主がいる。今のお前では勝てない」


 ヒルデの声は淡々としていた。事実を述べているだけだ。


「私も本調子ではない。だから——お前が戦えるようになる必要がある」


 僕は短剣の柄に手を置いた。ゴブリンから奪った、血の染みた刃。

 これで、遺跡の主に立ち向かう。無謀としか思えなかった。


「……僕に、できるのか」


「できるようにする」


 ヒルデが、僕の正面に立った。


「お前には《記録》がある。私の動きを刻め。言葉を聞け。体に叩き込め」


 その声には、迷いがなかった。百年前の英雄の、確信に満ちた声だった。

 訓練が、始まった。


「まず、構えを見せろ」


 僕は短剣を構えた。シュナイダーに教わった基本の構え。足を開き、重心を落とす。

 ヒルデが、じっと見ていた。


「悪くない。だが——」


 彼女が近づいてきた。細い指が、僕の肩に触れる。


「肩が上がっている。力が入りすぎだ」


 言われて初めて、気づいた。確かに、肩が強張っている。


「呼吸が浅い。吐け」


 息を吐いた。肩から、力が抜けていく。


「そうだ。戦いは力ではない。呼吸だ」


 ヒルデの手が、僕の背中を軽く押した。


「重心が高い。もう少し落とせ」


 膝を曲げる。床を踏みしめる感覚が、変わった。


「——いい。それが、お前の基準点だ」


「次は、動きだ」


 ヒルデが一歩下がった。


「私に向かって、踏み込め」


 言われるまま、前に踏み出した。

 ——瞬間、足首を払われた。

 体が傾く。床に手をついて、なんとか転倒を避けた。


「遅い」


 ヒルデの声が、頭上から降ってきた。


「踏み込む前に、足に力を溜めていた。それでは——相手に読まれる」


 僕は起き上がった。息が乱れている。


「力を溜めずに、どうやって——」


「考えるな。感じろ」


 ヒルデが、僕の目の前で動いた。

 一歩。それだけだった。

 なのに——速かった。

 予備動作がない。溜めがない。ただ、自然に、足が地面を離れて、次の位置に着いた。


「見たか」


「……見た」


 《記録》が、その動きを刻んでいた。筋肉の使い方。重心の移動。足首の角度。


「私の動きを、お前の体で再現しろ。そのためのスキルだろう」


 僕は頷いた。

 そして——もう一度、踏み込んだ。

 何度も、繰り返した。

 踏み込んでは払われ、起き上がっては挑む。

 汗が額を伝う。息が上がる。筋肉が熱を持ち始める。


「まだ力んでいる」


「肘が開いている」


「足の置き方が浅い」


 ヒルデの指摘は、容赦がなかった。

 でも——その度に、《記録》が動作を修正していく。

 体が、少しずつ覚えていく。

 呼吸のタイミング。重心の位置。間合いの感覚。


「——今のは、悪くなかった」


 何十回目かの踏み込みで、ヒルデが初めて頷いた。


「払おうとしたが、間に合わなかった」


 僕は肩で息をしながら、立ち上がった。


「……ほんとに?」


「嘘は言わない」


 ヒルデの金色の瞳が、微かに和らいだ。


「お前の《記録》は——思った以上に、使える」



 休憩を取ることにした。

 壁に背を預け、水筒の水を口に含む。冷たい液体が、乾いた喉を潤していく。


「ユウ。一つ聞きたい」


 ヒルデが、僕の隣に座った。


「私の封印を解いた時——何か、感じなかったか」


 その問いに、僕は記憶を辿った。

 封印の紋様。誓いの言葉。鎖が解けていく感覚。

 そして——あの瞬間。


「……何かが、刻まれた気がした」


「刻まれた?」


「うまく言えないけど……体の中に、何か入ってきたような。それ以来、少し——感覚が変わった」


 ヒルデが、僕を見た。金色の瞳が、真剣な光を帯びている。


「どう変わった」


「怖いはずの場面で、頭が冷静でいられる。体は震えるのに、判断が鈍らないというか……」


 ヒルデは小さく頷いた。


「やはりそうか」


「……何か、知ってるのか」


「それは——私の力だ」


 ヒルデの声が、静かに響いた。


「《戦乙女の加護》。封印を解く際に、お前に宿ったのだろう」


「戦乙女の……加護」


 僕は、自分の胸に手を当てた。

 確かに、何かがある。言葉にできない、でも確かな——力の気配。


「どういう力なんだ」


「戦いにおいて、恐怖を消す力だ」


 ヒルデが、壁に背を預けたまま続けた。


「恐怖によって萎縮することがなくなる。どれほどの敵を前にしても、冷静さを保つことができる」


 それは——強力な力だ。

 恐怖で体がすくむ事が、頭が働かなくなる事が、どれほど致命的か。ヴェリナと対峙した時に思い知った。


「……すごい力だ」


「だが」


 ヒルデの声が、厳しくなった。


「お前には、諸刃の剣だ」


「諸刃?」


「恐怖がなくなるということは——危険を察知する感覚も消えるということだ」


 ヒルデが、僕を真っ直ぐに見た。


「戦いに慣れた者なら、恐怖がなくても経験で危険を判断できる。だがお前は違う。戦いを知らない」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


「恐怖がないまま戦えば、無謀になる。危険を見誤る。本来なら退くべき場面で、突っ込んでしまう」


「……つまり」


「加護に頼りすぎるな、ということだ」


 ヒルデの金色の瞳が、僕を射抜いた。


「お前は——今のうちに、危険を理解しておく必要がある」


「今のうちに……?」


「そうだ。敵との戦闘中は加護が発動し、恐怖が消える。だから今——戦いの前に、何が危険かを頭に叩き込んでおけ」


 ヒルデが、立ち上がった。


「恐怖を言葉にしろ。何が怖いのか。なぜ怖いのか。今ならまだ、それがわかるはずだ」


「言葉に……」


「試してみろ。今、何が怖い」


 僕は、考えた。

 何が怖いのか。


「……遺跡の主」


「なぜ」


「強いから。勝てる気がしないから」


「他には」


「死ぬこと。ここで終わること」


 言葉にすると、不思議と——輪郭が見えてきた。


「死んだら、何が困る」


 ヒルデの問いに、僕は答えた。


「帰れなくなる。みんなに、三年前の人たちのことを伝えられなくなる」


「それが——お前の恐怖の正体だ」


 ヒルデが、微かに頷いた。


「漠然とした『死』ではない。具体的な『失うもの』だ。それを今、頭に刻んでおけ」


「……どうして」


「戦闘中、お前は恐怖を感じなくなる。だが——今言葉にしたことは、頭に残る」


 ヒルデの声が、静かに響いた。


「恐怖がなくても、『これをしたら帰れなくなる』『これをしたら会えなくなる』と考えることはできる。感情ではなく、理屈で危険を判断しろ」


 ——なるほど。

 恐怖という感情は消える。でも、知識は消えない。

 だから今のうちに、何が危険かを理解しておく。戦闘中は、その理解を頼りに判断する。


「わかった……気がする」


「気がする、ではない。わかれ」


 ヒルデの声は厳しかった。でも、どこか——心配の色があった。


「加護に溺れるな。それが——お前の課題だ」


 僕は、深く息を吐いた。

 恐怖は消える。だからこそ、今のうちに——何を守りたいのか、何を失いたくないのか、しっかり刻んでおく。

 それが——僕に必要なことだった。


 訓練を再開した。

 今度は、防御の練習だった。


「私が打ち込む。避けるか、受けろ」


 ヒルデが、落ちていた枝を拾った。武器の代わりだ。

 僕は短剣を構えた。


「行くぞ」


 ——速い。

 枝が、横から薙いできた。

 反射的に、短剣を上げる。金属と木がぶつかる音。腕が痺れた。


「受けるな。流せ」


 言われた意味が、すぐにはわからなかった。

 でも、《記録》が——ヒルデの動きを、分析していた。

 枝の軌道。力の方向。それを、どこへ逃がせばいいか。


「もう一度」


 ヒルデが、また打ち込んできた。

 今度は——短剣を斜めに構えた。枝が、刃に当たって滑っていく。


「そうだ。力で止めるのではない。相手の力を、別の方向へ流す」


 腕の痺れが、さっきより少ない。


「覚えたか」


「……少しだけ」


「十分だ。それを繰り返せ」


 訓練は、さらに激しくなっていった。

 ヒルデの打ち込みが、速くなる。角度が変わる。フェイントが混じる。

 僕は必死で対応した。流し、避け、時には弾かれ、その時だった。

 ヒルデの枝が、予想外の角度から来た。咄嗟に避けようとして——足がもつれた。

 体が、前に倒れる。止められない。——ヒルデにぶつかった。

 いや、ぶつかったというより抱きつく形になっていた。



 銀色の髪が、目の前にあった。

 細い肩。冷たい肌。微かに感じる体温。心臓が——跳ねた。

 ヒルデの体は、思っていたより華奢だった。百年前の英雄。戦乙女。そんな称号からは想像できないほど、細くて、軽くて、女の子だ。

 当たり前のことを、今さら実感した。胸が、ドクドクと音を立てている。顔が熱い。頭が真っ白になる。


「……大丈夫か」


 ヒルデの声が、頭上から降ってきた。

 冷静だった。動揺の欠片もない。

 僕は慌てて体を離した。


「ご、ごめん——!」


「謝る必要はない。足がもつれただけだろう」


 ヒルデは、何事もなかったかのように立っていた。

 金色の瞳が、僕を見ている。その視線に、特別な感情は読み取れない。


「疲労が溜まっている。少し休め」


「あ、ああ……」


 僕は、壁に寄りかかった。心臓が、まだ暴れている。

 どれくらい、時間が経っただろう。体が悲鳴を上げていた。筋肉が張り、関節が軋んでいる。

 でも——確かに、動きが変わっていた。最初は十回に一回だった成功が、五回に一回になり、三回に一回になっていく。


「ここまでだ」


 ヒルデが、枝を下ろした。


「これ以上やると、体が壊れる。休め」


 僕は、その場に座り込んだ。息が荒い。汗が滴る。

 でも——充実感があった。体が、確かに変わっている。

 《記録》が、ヒルデの動きを吸収している。まだ完璧には再現できない。でも、少しずつ——僕の体に、染み込んでいっている。


「腹が減ったな」


 ヒルデが、壁に背を預けながら言った。

 そう言われて——僕も、空腹を感じた。訓練に集中していて、忘れていた。


「食料、まだあるか」


「……少しだけ」


 僕は荷物を漁った。

 乾パンの残り。ゴブリンから奪った干し肉の切れ端。水場で見つけた苔のような植物。

 深層では、まともな食材は手に入らない。

 でも——。


「これで、何か作れないか」


 ミレイユの顔が、頭に浮かんだ。

 王国食堂で、一緒に料理をした日々。彼女が教えてくれたこと。

 『香草の使い方。火の回し方。素材が乏しくても、工夫次第で食べられる形にできる』


 あの言葉が——今、役に立つ。

 僕は、持っていた道具を広げた。

 短剣。火打ち石。小さな鍋——ゴブリンの巣から拾ったものだ。


「何をする」


 ヒルデが、興味深そうに見ていた。


「料理……のようなもの」


 乾パンを砕いた。粉状になるまで、短剣の柄で叩く。

 干し肉を細かく刻んだ。できるだけ薄く、均一に。ミレイユに教わった切り方だ。

 苔のような植物——これは、水場の近くで見つけた時、少し齧ってみた。苦味があるが、毒ではなさそうだった。


「火を起こす」


 火打ち石を打った。火花が散り、乾いた苔に燃え移る。小さな炎が生まれた。

 鍋に水を入れ、火にかける。

 湯が沸いたら、まず干し肉を入れた。


 肉から出汁が出る。ミレイユが言っていた——『旨味は、時間をかけて引き出すもの』。

 しばらく煮込んでから、砕いた乾パンを加えた。

 かき混ぜる。粉が湯を吸って、とろみがついていく。


 最後に、苔を刻んで入れた。苦味があるから、少量だけ。彩りと、わずかな香り付けのために。


「……何だ、これは」


 ヒルデが、鍋を覗き込んだ。


「雑炊……のようなもの。王国食堂で教わった技術の応用」


 異世界の食堂で、ミレイユと試行錯誤した日々。あの時は遊び半分だったけど——今、それが命を繋いでいる。


「食べられるのか」


「たぶん。味は保証できないけど」


 僕は鍋から直接、一口を掬った。


 ——熱い。舌が焼ける。


 でも、味は——悪くない。

 干し肉の旨味が、粥のような生地に染み込んでいる。苔の苦味が、アクセントになっている。

 美味しい、とは言えない。でも——『食べられる』形になっている。


「ヒルデも、どうぞ」


 鍋を差し出した。

 ヒルデは少し躊躇してから、手を伸ばした。

 ヒルデが、一口を含んだ。

 咀嚼する。飲み込む。そして——わずかに、目を見開いた。


「……驚いた」


「不味かった?」


「いや。食えると思わなかった」


 ヒルデが、もう一口を掬った。


「深層で、こんなものが作れるとは。お前、どこで覚えた」


「王国食堂で。ミレイユという人に教わった」


「ミレイユ……」


 ヒルデが、小さく呟いた。


「お前には、待っている人がいるのだな」


 その言葉に、僕は——高嶺さんの顔を思い出した。

 ミレイユの顔も。相沢さんも。


「……いる。だから、帰りたい」


「ならば、生き延びろ」


 ヒルデが、鍋を僕に返した。


「食え。体力を回復させろ。この先は——さらに厳しくなる」



 食事を終えて、少し休んだ。

 体の疲労が、じわじわと回復していく。


「ユウ」


 ヒルデが、立ち上がった。


「もう少し練習するぞ。今度は——実戦を想定した動きだ」


 僕も立ち上がった。

 体はまだ重い。でも、動ける。


「いくぞ」


 ヒルデが、構えた。

 僕も、短剣を構える。

 呼吸を整える。重心を落とす。間合いを測る。


 ——さっきよりも、体が軽く感じた。


 《記録》が、ヒルデの動きを刻み続けている。

 一つ一つの動作が、僕の中に蓄積されていく。

 完璧には程遠い。でも——確実に、近づいている。戦える自分に。

 訓練は、さらに続いた。攻撃。防御。回避。連携。


 ヒルデは弱体化しているはずなのに、動きは鋭かった。百年前の英雄の技術が、錆びずに残っている。


「間合いを誤るな」


「足を止めるな」


「呼吸を忘れるな」


 指摘は的確で、容赦がなかった。

 でも——その厳しさが、僕を成長させていた。

 さっきヒルデに抱きついてしまった時のことが、ふと頭を過ぎる。

 あの細い体。銀色の髪の匂い。


 ——集中しろ。


 頭を振って、雑念を追い払った。

 今は、戦うことだけを考えろ。



 どれくらい経っただろう。


「ここまでだ」


 ヒルデが、動きを止めた。


「これ以上は、体が持たない。本番までに回復させる必要がある」


 僕は頷いた。汗だくで、息が荒い。でも——達成感があった。


「……ヒルデ」


「何だ」


「ありがとう。教えてくれて」


 ヒルデは、少しだけ目を細めた。


「礼はまだ早い。生き延びてから言え」


 その声は厳しかった。でも、どこか——温かみがあった。

 少し休憩を取ってから、僕たちは再び歩き始めた。

 通路は、徐々に広くなっていった。天井が高くなり、壁に刻まれた紋様が増えていく。


 空気が——変わった。

 重い。冷たい。肌が粟立つような、圧迫感。

 遺跡の主の気配が、近づいている。


「この先だ」


 ヒルデが、足を止めた。

 通路の奥に——扉があった。

 巨大な、石造りの扉。


 表面には、複雑な紋様が刻まれている。封印の術式ではない。これは——装飾だ。

 何かを称える、古い意匠。

 そして、その扉の向こうから——。


「——聞こえるか」


 ヒルデが、低い声で言った。

 僕は、耳を澄ました。

 低い音が聞こえた。規則的に、ゆっくりと。


 ——鼓動だ。


 何かの、心臓の音。

 扉の向こうで、何かが——生きている。


「主の部屋だ」


 ヒルデの金色の瞳が、扉を見据えていた。


「あの向こうに、遺跡の主がいる」


 僕は、短剣の柄を握り締めた。

 手が——震えていた。


 恐怖だ。今はまだ、戦闘前だから感じられる。

 でも、あの扉をくぐれば——この恐怖は消える。

 だからこそ、今のうちに確認しておく。

 僕は何を失いたくないのか。誰に会いたいのか。何を伝えたいのか。

 ——忘れるな。

 戦闘中、恐怖がなくなっても。この気持ちだけは、頭に残しておく。


「……行くか」


 ヒルデが、僕を見た。


「準備はできたか」


 僕は頷いた。

 体は疲れている。万全とは言えない。

 でも——これ以上待っても、状況は良くならない。食料も限られている。


「行こう」


 ヒルデが、微かに口角を上げた。


「いい目だ」


 扉に、手をかけた。

 低い鼓動が、掌に伝わってくる。

 遺跡の主が——待っている。

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