戦いを知る
暗闘の中、ヒルデが足を止めた。
「ここでいい」
通路の脇に、少し広い空間があった。天井が高く、壁に苔が生えている。微かに水が滴る音が聞こえる。
「休むのか?」
「違う」
ヒルデが振り向いた。金色の瞳が、火のない暗闘の中でも光を放っている。
「お前に、戦い方を教える」
◆
僕は驚いて、ヒルデを見た。
「今から?」
「そうだ。この先には遺跡の主がいる。今のお前では勝てない」
ヒルデの声は淡々としていた。事実を述べているだけだ。
「私も本調子ではない。だから——お前が戦えるようになる必要がある」
僕は短剣の柄に手を置いた。ゴブリンから奪った、血の染みた刃。
これで、遺跡の主に立ち向かう。無謀としか思えなかった。
「……僕に、できるのか」
「できるようにする」
ヒルデが、僕の正面に立った。
「お前には《記録》がある。私の動きを刻め。言葉を聞け。体に叩き込め」
その声には、迷いがなかった。百年前の英雄の、確信に満ちた声だった。
訓練が、始まった。
「まず、構えを見せろ」
僕は短剣を構えた。シュナイダーに教わった基本の構え。足を開き、重心を落とす。
ヒルデが、じっと見ていた。
「悪くない。だが——」
彼女が近づいてきた。細い指が、僕の肩に触れる。
「肩が上がっている。力が入りすぎだ」
言われて初めて、気づいた。確かに、肩が強張っている。
「呼吸が浅い。吐け」
息を吐いた。肩から、力が抜けていく。
「そうだ。戦いは力ではない。呼吸だ」
ヒルデの手が、僕の背中を軽く押した。
「重心が高い。もう少し落とせ」
膝を曲げる。床を踏みしめる感覚が、変わった。
「——いい。それが、お前の基準点だ」
「次は、動きだ」
ヒルデが一歩下がった。
「私に向かって、踏み込め」
言われるまま、前に踏み出した。
——瞬間、足首を払われた。
体が傾く。床に手をついて、なんとか転倒を避けた。
「遅い」
ヒルデの声が、頭上から降ってきた。
「踏み込む前に、足に力を溜めていた。それでは——相手に読まれる」
僕は起き上がった。息が乱れている。
「力を溜めずに、どうやって——」
「考えるな。感じろ」
ヒルデが、僕の目の前で動いた。
一歩。それだけだった。
なのに——速かった。
予備動作がない。溜めがない。ただ、自然に、足が地面を離れて、次の位置に着いた。
「見たか」
「……見た」
《記録》が、その動きを刻んでいた。筋肉の使い方。重心の移動。足首の角度。
「私の動きを、お前の体で再現しろ。そのためのスキルだろう」
僕は頷いた。
そして——もう一度、踏み込んだ。
何度も、繰り返した。
踏み込んでは払われ、起き上がっては挑む。
汗が額を伝う。息が上がる。筋肉が熱を持ち始める。
「まだ力んでいる」
「肘が開いている」
「足の置き方が浅い」
ヒルデの指摘は、容赦がなかった。
でも——その度に、《記録》が動作を修正していく。
体が、少しずつ覚えていく。
呼吸のタイミング。重心の位置。間合いの感覚。
「——今のは、悪くなかった」
何十回目かの踏み込みで、ヒルデが初めて頷いた。
「払おうとしたが、間に合わなかった」
僕は肩で息をしながら、立ち上がった。
「……ほんとに?」
「嘘は言わない」
ヒルデの金色の瞳が、微かに和らいだ。
「お前の《記録》は——思った以上に、使える」
◆
休憩を取ることにした。
壁に背を預け、水筒の水を口に含む。冷たい液体が、乾いた喉を潤していく。
「ユウ。一つ聞きたい」
ヒルデが、僕の隣に座った。
「私の封印を解いた時——何か、感じなかったか」
その問いに、僕は記憶を辿った。
封印の紋様。誓いの言葉。鎖が解けていく感覚。
そして——あの瞬間。
「……何かが、刻まれた気がした」
「刻まれた?」
「うまく言えないけど……体の中に、何か入ってきたような。それ以来、少し——感覚が変わった」
ヒルデが、僕を見た。金色の瞳が、真剣な光を帯びている。
「どう変わった」
「怖いはずの場面で、頭が冷静でいられる。体は震えるのに、判断が鈍らないというか……」
ヒルデは小さく頷いた。
「やはりそうか」
「……何か、知ってるのか」
「それは——私の力だ」
ヒルデの声が、静かに響いた。
「《戦乙女の加護》。封印を解く際に、お前に宿ったのだろう」
「戦乙女の……加護」
僕は、自分の胸に手を当てた。
確かに、何かがある。言葉にできない、でも確かな——力の気配。
「どういう力なんだ」
「戦いにおいて、恐怖を消す力だ」
ヒルデが、壁に背を預けたまま続けた。
「恐怖によって萎縮することがなくなる。どれほどの敵を前にしても、冷静さを保つことができる」
それは——強力な力だ。
恐怖で体がすくむ事が、頭が働かなくなる事が、どれほど致命的か。ヴェリナと対峙した時に思い知った。
「……すごい力だ」
「だが」
ヒルデの声が、厳しくなった。
「お前には、諸刃の剣だ」
「諸刃?」
「恐怖がなくなるということは——危険を察知する感覚も消えるということだ」
ヒルデが、僕を真っ直ぐに見た。
「戦いに慣れた者なら、恐怖がなくても経験で危険を判断できる。だがお前は違う。戦いを知らない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「恐怖がないまま戦えば、無謀になる。危険を見誤る。本来なら退くべき場面で、突っ込んでしまう」
「……つまり」
「加護に頼りすぎるな、ということだ」
ヒルデの金色の瞳が、僕を射抜いた。
「お前は——今のうちに、危険を理解しておく必要がある」
「今のうちに……?」
「そうだ。敵との戦闘中は加護が発動し、恐怖が消える。だから今——戦いの前に、何が危険かを頭に叩き込んでおけ」
ヒルデが、立ち上がった。
「恐怖を言葉にしろ。何が怖いのか。なぜ怖いのか。今ならまだ、それがわかるはずだ」
「言葉に……」
「試してみろ。今、何が怖い」
僕は、考えた。
何が怖いのか。
「……遺跡の主」
「なぜ」
「強いから。勝てる気がしないから」
「他には」
「死ぬこと。ここで終わること」
言葉にすると、不思議と——輪郭が見えてきた。
「死んだら、何が困る」
ヒルデの問いに、僕は答えた。
「帰れなくなる。みんなに、三年前の人たちのことを伝えられなくなる」
「それが——お前の恐怖の正体だ」
ヒルデが、微かに頷いた。
「漠然とした『死』ではない。具体的な『失うもの』だ。それを今、頭に刻んでおけ」
「……どうして」
「戦闘中、お前は恐怖を感じなくなる。だが——今言葉にしたことは、頭に残る」
ヒルデの声が、静かに響いた。
「恐怖がなくても、『これをしたら帰れなくなる』『これをしたら会えなくなる』と考えることはできる。感情ではなく、理屈で危険を判断しろ」
——なるほど。
恐怖という感情は消える。でも、知識は消えない。
だから今のうちに、何が危険かを理解しておく。戦闘中は、その理解を頼りに判断する。
「わかった……気がする」
「気がする、ではない。わかれ」
ヒルデの声は厳しかった。でも、どこか——心配の色があった。
「加護に溺れるな。それが——お前の課題だ」
僕は、深く息を吐いた。
恐怖は消える。だからこそ、今のうちに——何を守りたいのか、何を失いたくないのか、しっかり刻んでおく。
それが——僕に必要なことだった。
訓練を再開した。
今度は、防御の練習だった。
「私が打ち込む。避けるか、受けろ」
ヒルデが、落ちていた枝を拾った。武器の代わりだ。
僕は短剣を構えた。
「行くぞ」
——速い。
枝が、横から薙いできた。
反射的に、短剣を上げる。金属と木がぶつかる音。腕が痺れた。
「受けるな。流せ」
言われた意味が、すぐにはわからなかった。
でも、《記録》が——ヒルデの動きを、分析していた。
枝の軌道。力の方向。それを、どこへ逃がせばいいか。
「もう一度」
ヒルデが、また打ち込んできた。
今度は——短剣を斜めに構えた。枝が、刃に当たって滑っていく。
「そうだ。力で止めるのではない。相手の力を、別の方向へ流す」
腕の痺れが、さっきより少ない。
「覚えたか」
「……少しだけ」
「十分だ。それを繰り返せ」
訓練は、さらに激しくなっていった。
ヒルデの打ち込みが、速くなる。角度が変わる。フェイントが混じる。
僕は必死で対応した。流し、避け、時には弾かれ、その時だった。
ヒルデの枝が、予想外の角度から来た。咄嗟に避けようとして——足がもつれた。
体が、前に倒れる。止められない。——ヒルデにぶつかった。
いや、ぶつかったというより抱きつく形になっていた。
◆
銀色の髪が、目の前にあった。
細い肩。冷たい肌。微かに感じる体温。心臓が——跳ねた。
ヒルデの体は、思っていたより華奢だった。百年前の英雄。戦乙女。そんな称号からは想像できないほど、細くて、軽くて、女の子だ。
当たり前のことを、今さら実感した。胸が、ドクドクと音を立てている。顔が熱い。頭が真っ白になる。
「……大丈夫か」
ヒルデの声が、頭上から降ってきた。
冷静だった。動揺の欠片もない。
僕は慌てて体を離した。
「ご、ごめん——!」
「謝る必要はない。足がもつれただけだろう」
ヒルデは、何事もなかったかのように立っていた。
金色の瞳が、僕を見ている。その視線に、特別な感情は読み取れない。
「疲労が溜まっている。少し休め」
「あ、ああ……」
僕は、壁に寄りかかった。心臓が、まだ暴れている。
どれくらい、時間が経っただろう。体が悲鳴を上げていた。筋肉が張り、関節が軋んでいる。
でも——確かに、動きが変わっていた。最初は十回に一回だった成功が、五回に一回になり、三回に一回になっていく。
「ここまでだ」
ヒルデが、枝を下ろした。
「これ以上やると、体が壊れる。休め」
僕は、その場に座り込んだ。息が荒い。汗が滴る。
でも——充実感があった。体が、確かに変わっている。
《記録》が、ヒルデの動きを吸収している。まだ完璧には再現できない。でも、少しずつ——僕の体に、染み込んでいっている。
「腹が減ったな」
ヒルデが、壁に背を預けながら言った。
そう言われて——僕も、空腹を感じた。訓練に集中していて、忘れていた。
「食料、まだあるか」
「……少しだけ」
僕は荷物を漁った。
乾パンの残り。ゴブリンから奪った干し肉の切れ端。水場で見つけた苔のような植物。
深層では、まともな食材は手に入らない。
でも——。
「これで、何か作れないか」
ミレイユの顔が、頭に浮かんだ。
王国食堂で、一緒に料理をした日々。彼女が教えてくれたこと。
『香草の使い方。火の回し方。素材が乏しくても、工夫次第で食べられる形にできる』
あの言葉が——今、役に立つ。
僕は、持っていた道具を広げた。
短剣。火打ち石。小さな鍋——ゴブリンの巣から拾ったものだ。
「何をする」
ヒルデが、興味深そうに見ていた。
「料理……のようなもの」
乾パンを砕いた。粉状になるまで、短剣の柄で叩く。
干し肉を細かく刻んだ。できるだけ薄く、均一に。ミレイユに教わった切り方だ。
苔のような植物——これは、水場の近くで見つけた時、少し齧ってみた。苦味があるが、毒ではなさそうだった。
「火を起こす」
火打ち石を打った。火花が散り、乾いた苔に燃え移る。小さな炎が生まれた。
鍋に水を入れ、火にかける。
湯が沸いたら、まず干し肉を入れた。
肉から出汁が出る。ミレイユが言っていた——『旨味は、時間をかけて引き出すもの』。
しばらく煮込んでから、砕いた乾パンを加えた。
かき混ぜる。粉が湯を吸って、とろみがついていく。
最後に、苔を刻んで入れた。苦味があるから、少量だけ。彩りと、わずかな香り付けのために。
「……何だ、これは」
ヒルデが、鍋を覗き込んだ。
「雑炊……のようなもの。王国食堂で教わった技術の応用」
異世界の食堂で、ミレイユと試行錯誤した日々。あの時は遊び半分だったけど——今、それが命を繋いでいる。
「食べられるのか」
「たぶん。味は保証できないけど」
僕は鍋から直接、一口を掬った。
——熱い。舌が焼ける。
でも、味は——悪くない。
干し肉の旨味が、粥のような生地に染み込んでいる。苔の苦味が、アクセントになっている。
美味しい、とは言えない。でも——『食べられる』形になっている。
「ヒルデも、どうぞ」
鍋を差し出した。
ヒルデは少し躊躇してから、手を伸ばした。
ヒルデが、一口を含んだ。
咀嚼する。飲み込む。そして——わずかに、目を見開いた。
「……驚いた」
「不味かった?」
「いや。食えると思わなかった」
ヒルデが、もう一口を掬った。
「深層で、こんなものが作れるとは。お前、どこで覚えた」
「王国食堂で。ミレイユという人に教わった」
「ミレイユ……」
ヒルデが、小さく呟いた。
「お前には、待っている人がいるのだな」
その言葉に、僕は——高嶺さんの顔を思い出した。
ミレイユの顔も。相沢さんも。
「……いる。だから、帰りたい」
「ならば、生き延びろ」
ヒルデが、鍋を僕に返した。
「食え。体力を回復させろ。この先は——さらに厳しくなる」
◆
食事を終えて、少し休んだ。
体の疲労が、じわじわと回復していく。
「ユウ」
ヒルデが、立ち上がった。
「もう少し練習するぞ。今度は——実戦を想定した動きだ」
僕も立ち上がった。
体はまだ重い。でも、動ける。
「いくぞ」
ヒルデが、構えた。
僕も、短剣を構える。
呼吸を整える。重心を落とす。間合いを測る。
——さっきよりも、体が軽く感じた。
《記録》が、ヒルデの動きを刻み続けている。
一つ一つの動作が、僕の中に蓄積されていく。
完璧には程遠い。でも——確実に、近づいている。戦える自分に。
訓練は、さらに続いた。攻撃。防御。回避。連携。
ヒルデは弱体化しているはずなのに、動きは鋭かった。百年前の英雄の技術が、錆びずに残っている。
「間合いを誤るな」
「足を止めるな」
「呼吸を忘れるな」
指摘は的確で、容赦がなかった。
でも——その厳しさが、僕を成長させていた。
さっきヒルデに抱きついてしまった時のことが、ふと頭を過ぎる。
あの細い体。銀色の髪の匂い。
——集中しろ。
頭を振って、雑念を追い払った。
今は、戦うことだけを考えろ。
◆
どれくらい経っただろう。
「ここまでだ」
ヒルデが、動きを止めた。
「これ以上は、体が持たない。本番までに回復させる必要がある」
僕は頷いた。汗だくで、息が荒い。でも——達成感があった。
「……ヒルデ」
「何だ」
「ありがとう。教えてくれて」
ヒルデは、少しだけ目を細めた。
「礼はまだ早い。生き延びてから言え」
その声は厳しかった。でも、どこか——温かみがあった。
少し休憩を取ってから、僕たちは再び歩き始めた。
通路は、徐々に広くなっていった。天井が高くなり、壁に刻まれた紋様が増えていく。
空気が——変わった。
重い。冷たい。肌が粟立つような、圧迫感。
遺跡の主の気配が、近づいている。
「この先だ」
ヒルデが、足を止めた。
通路の奥に——扉があった。
巨大な、石造りの扉。
表面には、複雑な紋様が刻まれている。封印の術式ではない。これは——装飾だ。
何かを称える、古い意匠。
そして、その扉の向こうから——。
「——聞こえるか」
ヒルデが、低い声で言った。
僕は、耳を澄ました。
低い音が聞こえた。規則的に、ゆっくりと。
——鼓動だ。
何かの、心臓の音。
扉の向こうで、何かが——生きている。
「主の部屋だ」
ヒルデの金色の瞳が、扉を見据えていた。
「あの向こうに、遺跡の主がいる」
僕は、短剣の柄を握り締めた。
手が——震えていた。
恐怖だ。今はまだ、戦闘前だから感じられる。
でも、あの扉をくぐれば——この恐怖は消える。
だからこそ、今のうちに確認しておく。
僕は何を失いたくないのか。誰に会いたいのか。何を伝えたいのか。
——忘れるな。
戦闘中、恐怖がなくなっても。この気持ちだけは、頭に残しておく。
「……行くか」
ヒルデが、僕を見た。
「準備はできたか」
僕は頷いた。
体は疲れている。万全とは言えない。
でも——これ以上待っても、状況は良くならない。食料も限られている。
「行こう」
ヒルデが、微かに口角を上げた。
「いい目だ」
扉に、手をかけた。
低い鼓動が、掌に伝わってくる。
遺跡の主が——待っている。




