表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/36

弱体の理由

 金色の瞳が、かすかに揺れた。


「ヒルデ」


 彼女は、その名を確かめるようにゆっくり繰り返した。


「ヒルデ……か。懐かしいな。昔、そう呼んだ者がいた」


 掠れた声だった。長く使われなかった喉で、言葉を一つずつ押し出している。それでも、その響きにはわずかな懐かしさがあった。


「悪くない」


 僕はもう一度、その名を呼ぶ。


「水、もう少し飲める?」


 ヒルデは小さく頷いた。僕は水を汲んで口元へ運ぶ。今度はさっきよりもずっとしっかりと飲めた。喉が動き、静かに嚥下する。

 水場を見つけておいてよかった。火を起こせるようになっておいてよかった。ミレイユに教わった知識が、こんな場所で役に立つなんて思わなかった。


「礼を言う、ユウ」


 僕の名を呼ぶ声に、少しだけ力が戻っていた。


 火が小さく爆ぜる。

 ヒルデは岩壁に背を預けたまま、それでも背筋を伸ばしていた。体は消耗しているはずなのに、目の奥の光だけは揺らがない。


「聞きたいことがあるだろう」


 彼女はまっすぐ僕を見た。


「私が何者か」


 僕は頷く。


「王国ではみんなが知ってるよ、一度は必ず耳にする。戦乙女、ブリュンヒルデ。百年前、魔族の侵攻を食い止めた英雄だって」


 金色の瞳が細められる。


「百年、語り継がれているのか」


 その声には、喜びとも苦さともつかない響きが混じっていた。


「ヒルデは死んだか、どこかで眠りについたって話になってる」


「眠りについた、か」


 ヒルデは自分の手を見下ろした。細く骨ばった手首には、まだ鎖の跡が残っている。


「間違ってはいない。私は眠っていた。この場所に、封印されて」


「封印……誰が、どうして」


 問いかけると、ヒルデはゆっくり首を振った。


「長い話になる。」


 それだけ言って、彼女は一度目を閉じた。話すだけでも消耗するのだろう。それでも弱音は吐かない。


「無理しなくていい。落ち着いてからで」


 僕が言うと、ヒルデは薄く目を開けた。さっきより、ほんの少しだけ表情がやわらいだ気がした。


「お前は優しいな」


 それからヒルデは短く眠った。


 僕は火の番をしながら、その横顔を見ていた。銀の髪。やつれていても整った顔立ち。百年前の英雄が、いま目の前で息をしている。

 どうしてこんな場所に封印されていたのか。

 考えても答えは出ない。彼女が話してくれるのを待つしかなかった。



 どれくらい時間が経っただろう。

 ヒルデが再び目を開けた。短い睡眠と水分が効いたのか、瞳の力がさっきより戻っている。


「一緒に出よう、ここから」


 ヒルデは僕を見返し、静かに頷いた。


「そのつもりだ。だが、その前に知っておくべきことがある」


 彼女は胸元に手を当てた。


「今の私は、全盛期の力を持っていない。魂の核が欠けている」


「魂の核?」


「戦乙女の核は、魂の源だ。心臓のようなものだと思えばいい。封印されるとき、奪われた」


 淡々とした口調だった。感情をこらえているというより、事実を順に並べている声音だ。


「核がなければ本来の力は出せない。今は体も衰えている。ただ、並の魔物程度なら問題ない。回復すれば、ある程度は戦える」


 ヒルデは手を握って開き、感覚を確かめるように動かした。


 強がりじゃない。現状を正確に把握しているだけだ。

 できることと、できないことを、もう整理している。


「僕は戦い方を知らない」


 正直に言う。


「ここまで来られたのは運がよかっただけだ。ヒルデがいれば、生き延びられる確率は上がる。でも、僕自身が戦えないと意味がない」


「お前のスキルは?」


「《記録》だ。見たものを覚えられる。動きとか、パターンとか」


「覚えるだけか」


「最初はそう思ってた。でも、覚えたものを重ねるうちに、体が少しずつ動くようになってきた。再現できる感じがある」


 ヒルデの目に光が差す。


「なるほど。使える」


 彼女は即答した。


「私が戦い方を見せる。お前はそれを《記録》しろ」


 迷いのない声だった。


「私の動きを刻め。知識も動きも受け継げ。お前を戦えるようにする」


 提案ではなく、宣言だった。

 百年前の英雄が、僕を導くと決めた。その言葉だった。


「厳しくする。ついてこられるか」


 僕は深く頷いた。


「お願いします」


 ヒルデは、ほんの少しだけ口元を上げる。


「敬語はいらない」



 それから、僕は自分のことを話した。

 異世界から召喚されたこと。訓練中に穴へ落ちたこと。深層をさまよって、ここまで来たこと。


 ヒルデは黙って聞いていた。


「異世界からの召喚者か。百年前にもいた」


「いたのか?」


「ああ。王国と教会は、昔から異世界召喚を研究していた。魔族の門とは別の技術だ。……百年経っても、やることは変わらないらしい」


 静かな怒りが、その言葉の底にあった。


 僕はさらに、三年前の召喚者のことも話した。

 深層で見つけた手帳のこと。『助けて』と震える字で書かれていたこと。ひとりで死んでいったこと。


 話し終えるまで、ヒルデは一度も口を挟まなかった。


「そうか……」


 彼女の瞳が、かすかに曇る。


「救えなかったか」


「せめて、伝えたいんだ」


 自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。


「僕は、その人の分まで生き延びる。ここから出て、誰かに伝える。この人がここにいたって」


 ヒルデはじっと僕を見たあと、静かに言った。


「いい心がけだ」


 穏やかな声だった。けれど芯は厳しい。


「ならば、生き延びろ。死ねば、何も伝えられない」



 火が弱くなってきたので、薪を足す。

 炎が少し大きくなったところで、ヒルデが立ち上がった。


「そろそろ動けるか試す」


 僕が手を出しかけるより先に、彼女は自力で立ち上がる。よろめきはない。鎖につながれていた直後とは思えないほど、姿勢が安定していた。


「歩ける。問題ない」


 確かな足取りで一歩踏み出し、ヒルデは通路の奥を見た。


「行くぞ、ユウ」


 二人で水場を出る。

 ヒルデは僕の半歩前を歩き、壁や天井、足元まで視線を走らせながら進んでいく。


「この構造……覚えがある」


「覚えが?」


「古い遺跡だ。私が封印される前からあった。この先には——」


 そこで、空気が変わった。


 重い。

 冷たい。

 肌が粟立つ。


「感じるか」


 ヒルデの声が低くなる。


「……何かいる」


 僕は頷いた。暗闇の奥から、今まで感じたことのない圧が流れてくる。大きくて、強い。気配だけで息が詰まりそうだった。


「遺跡の主だ」


 ヒルデの目が鋭くなる。獲物を見据える目だった。


 けれど次の言葉は、熱ではなく冷静さだった。


「今は戦わない。まずは休息だ。体力を戻して、作戦を立てる」


 僕の疲労まで見越しての判断だとすぐにわかった。


「わかった」


 僕たちは通路の陰に身を隠した。

 小さく火を起こし、気配を殺して座り込む。遠くの“遺跡の主”は、今のところ動く様子を見せない。


「焦るな、ユウ。戦いは準備で決まる」


 ヒルデは金色の瞳で僕を見る。


「お前に教えることは山ほどある。覚悟しておけ」


 火の音だけが、静かに響いた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ