弱体の理由
金色の瞳が、かすかに揺れた。
「ヒルデ」
彼女は、その名を確かめるようにゆっくり繰り返した。
「ヒルデ……か。懐かしいな。昔、そう呼んだ者がいた」
掠れた声だった。長く使われなかった喉で、言葉を一つずつ押し出している。それでも、その響きにはわずかな懐かしさがあった。
「悪くない」
僕はもう一度、その名を呼ぶ。
「水、もう少し飲める?」
ヒルデは小さく頷いた。僕は水を汲んで口元へ運ぶ。今度はさっきよりもずっとしっかりと飲めた。喉が動き、静かに嚥下する。
水場を見つけておいてよかった。火を起こせるようになっておいてよかった。ミレイユに教わった知識が、こんな場所で役に立つなんて思わなかった。
「礼を言う、ユウ」
僕の名を呼ぶ声に、少しだけ力が戻っていた。
火が小さく爆ぜる。
ヒルデは岩壁に背を預けたまま、それでも背筋を伸ばしていた。体は消耗しているはずなのに、目の奥の光だけは揺らがない。
「聞きたいことがあるだろう」
彼女はまっすぐ僕を見た。
「私が何者か」
僕は頷く。
「王国ではみんなが知ってるよ、一度は必ず耳にする。戦乙女、ブリュンヒルデ。百年前、魔族の侵攻を食い止めた英雄だって」
金色の瞳が細められる。
「百年、語り継がれているのか」
その声には、喜びとも苦さともつかない響きが混じっていた。
「ヒルデは死んだか、どこかで眠りについたって話になってる」
「眠りについた、か」
ヒルデは自分の手を見下ろした。細く骨ばった手首には、まだ鎖の跡が残っている。
「間違ってはいない。私は眠っていた。この場所に、封印されて」
「封印……誰が、どうして」
問いかけると、ヒルデはゆっくり首を振った。
「長い話になる。」
それだけ言って、彼女は一度目を閉じた。話すだけでも消耗するのだろう。それでも弱音は吐かない。
「無理しなくていい。落ち着いてからで」
僕が言うと、ヒルデは薄く目を開けた。さっきより、ほんの少しだけ表情がやわらいだ気がした。
「お前は優しいな」
それからヒルデは短く眠った。
僕は火の番をしながら、その横顔を見ていた。銀の髪。やつれていても整った顔立ち。百年前の英雄が、いま目の前で息をしている。
どうしてこんな場所に封印されていたのか。
考えても答えは出ない。彼女が話してくれるのを待つしかなかった。
◆
どれくらい時間が経っただろう。
ヒルデが再び目を開けた。短い睡眠と水分が効いたのか、瞳の力がさっきより戻っている。
「一緒に出よう、ここから」
ヒルデは僕を見返し、静かに頷いた。
「そのつもりだ。だが、その前に知っておくべきことがある」
彼女は胸元に手を当てた。
「今の私は、全盛期の力を持っていない。魂の核が欠けている」
「魂の核?」
「戦乙女の核は、魂の源だ。心臓のようなものだと思えばいい。封印されるとき、奪われた」
淡々とした口調だった。感情をこらえているというより、事実を順に並べている声音だ。
「核がなければ本来の力は出せない。今は体も衰えている。ただ、並の魔物程度なら問題ない。回復すれば、ある程度は戦える」
ヒルデは手を握って開き、感覚を確かめるように動かした。
強がりじゃない。現状を正確に把握しているだけだ。
できることと、できないことを、もう整理している。
「僕は戦い方を知らない」
正直に言う。
「ここまで来られたのは運がよかっただけだ。ヒルデがいれば、生き延びられる確率は上がる。でも、僕自身が戦えないと意味がない」
「お前のスキルは?」
「《記録》だ。見たものを覚えられる。動きとか、パターンとか」
「覚えるだけか」
「最初はそう思ってた。でも、覚えたものを重ねるうちに、体が少しずつ動くようになってきた。再現できる感じがある」
ヒルデの目に光が差す。
「なるほど。使える」
彼女は即答した。
「私が戦い方を見せる。お前はそれを《記録》しろ」
迷いのない声だった。
「私の動きを刻め。知識も動きも受け継げ。お前を戦えるようにする」
提案ではなく、宣言だった。
百年前の英雄が、僕を導くと決めた。その言葉だった。
「厳しくする。ついてこられるか」
僕は深く頷いた。
「お願いします」
ヒルデは、ほんの少しだけ口元を上げる。
「敬語はいらない」
◆
それから、僕は自分のことを話した。
異世界から召喚されたこと。訓練中に穴へ落ちたこと。深層をさまよって、ここまで来たこと。
ヒルデは黙って聞いていた。
「異世界からの召喚者か。百年前にもいた」
「いたのか?」
「ああ。王国と教会は、昔から異世界召喚を研究していた。魔族の門とは別の技術だ。……百年経っても、やることは変わらないらしい」
静かな怒りが、その言葉の底にあった。
僕はさらに、三年前の召喚者のことも話した。
深層で見つけた手帳のこと。『助けて』と震える字で書かれていたこと。ひとりで死んでいったこと。
話し終えるまで、ヒルデは一度も口を挟まなかった。
「そうか……」
彼女の瞳が、かすかに曇る。
「救えなかったか」
「せめて、伝えたいんだ」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
「僕は、その人の分まで生き延びる。ここから出て、誰かに伝える。この人がここにいたって」
ヒルデはじっと僕を見たあと、静かに言った。
「いい心がけだ」
穏やかな声だった。けれど芯は厳しい。
「ならば、生き延びろ。死ねば、何も伝えられない」
◆
火が弱くなってきたので、薪を足す。
炎が少し大きくなったところで、ヒルデが立ち上がった。
「そろそろ動けるか試す」
僕が手を出しかけるより先に、彼女は自力で立ち上がる。よろめきはない。鎖につながれていた直後とは思えないほど、姿勢が安定していた。
「歩ける。問題ない」
確かな足取りで一歩踏み出し、ヒルデは通路の奥を見た。
「行くぞ、ユウ」
二人で水場を出る。
ヒルデは僕の半歩前を歩き、壁や天井、足元まで視線を走らせながら進んでいく。
「この構造……覚えがある」
「覚えが?」
「古い遺跡だ。私が封印される前からあった。この先には——」
そこで、空気が変わった。
重い。
冷たい。
肌が粟立つ。
「感じるか」
ヒルデの声が低くなる。
「……何かいる」
僕は頷いた。暗闇の奥から、今まで感じたことのない圧が流れてくる。大きくて、強い。気配だけで息が詰まりそうだった。
「遺跡の主だ」
ヒルデの目が鋭くなる。獲物を見据える目だった。
けれど次の言葉は、熱ではなく冷静さだった。
「今は戦わない。まずは休息だ。体力を戻して、作戦を立てる」
僕の疲労まで見越しての判断だとすぐにわかった。
「わかった」
僕たちは通路の陰に身を隠した。
小さく火を起こし、気配を殺して座り込む。遠くの“遺跡の主”は、今のところ動く様子を見せない。
「焦るな、ユウ。戦いは準備で決まる」
ヒルデは金色の瞳で僕を見る。
「お前に教えることは山ほどある。覚悟しておけ」
火の音だけが、静かに響いた。




