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戦乙女ヒルデ

 声が、聞こえた。頭に優しく響くような、かすかな声。


『……お願い……ここから……出してあげて……』


 女の声だった。聖母のような優しい声。

 息が止まった。


 誰かがいる。この深層に。この封印の奥に、誰かが閉じ込められている。


 僕は封印された扉の前に立った。石造りの重厚な扉。表面には複雑な紋様が刻まれ、淡い紫色の光を放っている。脈打つように明滅するその光は、見覚えがあった。

 僕の体に刻まれていた聖印。あの時消し去った黒い回路図。それと同じ系統の術式だ。


 《記録》が、紋様を刻み始めている。線の走り方、交差の角度、光の流れ方。すべてが頭の中に流れ込んでくる。


 触れようとして、手が止まった。

 胸の奥で何かが響いていた。ずっとここに誰かがいるのだ。どれだけの時間、閉じ込められていたのだろう。どれだけの間、助けを求め続けていたのだろう。


 扉に手を伸ばした。紋様に触れた瞬間、皮膚が焼けるような感覚が走る。でも聖印を消した時ほどではない。耐えられる。

 紋様が反応した。光が強くなる。紫色から赤へ。警告の色。拒絶の色。腕を押し返そうとする力。

 これはおそらく封印だ。誰かを閉じ込めるための術式。外から開けることを拒んでいる。

 手を引くと、紋様はまた紫色に戻った。


 どうすれば開けられる。《記録》が紋様を分析している。線の構造、力の流れ、術式の論理。でもわからない。聖印を消した時とは違う。あれは自分の体の中の異物だった。消すことはできた。でもこれは外にある封印だ。触れれば跳ね返される。力ずくで壊せる強度でもない。


 ここまで来て、何もできないのか。

 

 扉に再び目を向けた。《記録》が何かを捉えている。紋様の中に文字がある。古い文字。読めない言語。でもその形を《記録》が刻んでいく。

 文字の配置。意味の流れ。術式を構成する言葉。


 これは——聖印と似ている。


 封印は聖印と似た理論で成り立っている。なら解読できるかもしれない。

 《記録》が回路を読み取っていく。断片的に。不完全に。そしてバラバラ別れた回路の先に配置された文字が浮かび上がってきた。


 『恐れに屈せず』『守るべきもののために』『戦う』


 何の言葉だ?

 口を開いた。何を言えばいいかわからなかった。でも言葉が勝手に出てきた。《記録》が刻んだ断片が、声になった。


「我、恐れに屈せず——」


 紋様が揺れた。光が乱れる。紫から青へ、青から白へ。


「——守るべきもののために、戦う」


 言葉が終わった瞬間、世界が変わった。





 紋様が逆流した。扉から僕の方へ。光が流れ込んでくる。

 頭の中に何かが刻まれていく。痛みはなかった。むしろ温かかった。古い記憶のような、誰かの想いのような。


 《記録》がそれを受け止めている。誓いの言葉。その意味。その重み。誰かがかつてこの言葉を口にした。恐れに立ち向かうために。守るべきものを守るために。その想いが僕の中に流れ込んでくる。


 視界の端に文字が浮かんだ。


 《戦乙女の加護》——獲得。


 それを見た瞬間、恐怖が消えた。

 いや、違う。消えたのではない。恐怖はまだある。でも聞こえない。心臓が静かに鳴っている。呼吸が乱れていない。手が震えていない。

 恐怖が無音になっている。ずっと背中に張り付いていた圧迫感、深層に落ちてからずっと感じていた重さ。それが消えている。頭が澄んでいる。思考が明瞭になっている。死の気配に怯えていない。


 これが加護。恐れに屈さないための力。


 扉を見た。紋様が消えていた。紫色の光はもうない。ただの石の扉になっている。

 手を伸ばし、触れる。冷たい石の感触。跳ね返されない。

 押す。扉が動いた。重い。でも動く。少しずつ、少しずつ。

 ギギギ……と石が軋む音。何十年も開かれなかった扉が動く音。隙間から空気が流れ込んでくる。冷たい。乾いている。でも何かの匂いがする。人の匂い。


 扉が開いた。中は暗かったが、光苔がある。淡い青白い光が空間を照らしている。

 狭い部屋だった。牢獄のような空間。そしてその鎖の先に——誰かがいた。


 銀色の髪が光を反射していた。長い髪。床に広がるほどの長い銀髪。汚れている。もつれている。でも光を受けて淡く輝いている。

 顔は見えなかった。俯いている。髪が顔を隠している。体は細かった。白いローブのような服。でもボロボロになっている。肌が青白い。

 鎖が彼女を縛っていた。両腕、両足、首。重そうな黒い鎖。


 ずっとここにいたのか。どれだけの時間、この暗闇の中で、この鎖に繋がれて。

 胸が締め付けられた。


 彼女は動かなかった。声を出す力も残っていないのだろう。さっきの声が最後の力だったのかもしれない。

 鎖を見る。黒い重い鎖。留め具がある。古い錠前。錆びているが頑丈そうだ。


 短剣を取り出し、錠前に当てる。刃を隙間に差し込み、力を込める。金属が軋む音。折れそうだ。でももう一度力を込めた。

 ガチン、と音がした。錠前が外れた。


 鎖を一つずつ外していった。腕の鎖、足の鎖、首の鎖。彼女は動かなかった。動けないのだろう。力が残っていないのだろう。

 最後の鎖が落ちた時、彼女の体が傾いた。すぐに支えた。


 軽い。軽すぎる。骨と皮だけのような体。どれだけの間、何も食べていなかったのだろう。

 彼女の手が弱々しく僕の服を掴んだ。


「……大丈夫だ」


 僕は言った。


「もう出られる」





 彼女を抱えて部屋を出た。重さはほとんどなかった。それが逆に怖かった。


 水場まで戻らなければ。水と火と安全な場所。そこで回復させなければ。

 通路を歩く。罠の区間は覚えている。《記録》がすべてを刻んでいる。安全な石を踏んで、彼女を抱えたまま、ゆっくりと確実に進んだ。


 水場に辿り着いた。火を起こし直し、彼女を火の近くに寝かせる。水を汲んで口元に運ぶと、彼女は少しだけ飲んだ。喉が動く。嚥下する。

 生きている。まだ生きている。

 火の光が彼女の顔を照らしていた。銀色の髪。整った顔立ち。でもやつれている。頬がこけて肌が青白い。それでも美しかった。どこかこの世のものではないような。


 しばらくして彼女が目を開けた。金色の瞳。疲労に曇っている。でもその奥に光がある。強い光。折れていない光。

 彼女の唇が動いた。


「……ありがとう……」


 かすれた小さな声。長い間使っていなかった声。それだけ言って、彼女はまた目を閉じた。





 火が静かに燃えていた。

 彼女は眠っていた。浅い呼吸。時折眉をしかめる。苦しんでいるのか、夢を見ているのか。


 僕は彼女を見ていた。銀色の髪。この世のものではないような美しさ。封印の奥に閉じ込められていた謎の女性。

 彼女は何者なのか。なぜここにいたのか。なぜ封印されていたのか。聞きたいことは山ほどあった。でも今は休ませなければ。


 彼女の手が僕の袖を掴んでいた。眠っていても離さない。離したくないのだろう。


 一人にしない。僕はそう思った。三年前の召喚者のように見捨てない。この人を助ける。


 火の音だけが静かに響いていた。深層の暗闇の中で、二人の呼吸だけが重なっていた。





 どれくらい時間が経っただろう。火が弱くなってきた。薪を足す。

 その音で彼女が目を覚ました。


 金色の瞳が僕を見た。さっきよりも少しだけ澄んでいる。水と休息が効いたのかもしれない。


「……名前を……聞いても……いいか……」


 声はまだ掠れている。でもさっきよりは力がある。


「黒瀬ユウ。ユウでいいよ」


 彼女の唇が微かに動いた。笑おうとしているのかもしれない。でもうまく笑えないのかもしれない。


「……ユウ……」


 僕の名前を彼女が口にした。


「……私は……ブリュンヒルデ・フォン・ヴァルツ……」


 その名前を聞いた瞬間、壁画が頭に浮かんだ。英雄聖堂で見たあの壁画。銀色の鎧、長い髪、剣を振るう女騎士。そして凛々しい声——鏡のことを教えてくれた、あの声。


 戦乙女。


「……長いからヒルデでいい?」


 安堵したせいか、つい言ってしまった。

 金色の瞳が僕を見ている。


 百年の時を超えて。封印の闇の底で。

 戦乙女は——生きていた。


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