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生存の設計

 封印の扉を抜けると、空気が変わった。


 乾いている。冷たいけれど、肺に入る空気が軽い。胸の奥にあった焼けるような違和感が消えている。聖印を消してから、体が楽になった気がする。


 歩き始める。短剣を右手に、左手は壁に触れながら。通路は緩やかに下っていた。ところどころに分岐があったが、右手の法則を使う。右手を壁につけてひたすら進む。出口があるならいつかは辿り着く。


 水の音が聞こえた。


 岩の隙間を抜けると、広い空間に出た。天井は見えないほど高く、光苔が密集している。壁の一角から水が湧き出していた。岩を伝って流れ落ち、浅い水たまりを作っている。透明で、底の白い砂が見える。


 匂いを確かめる。変な匂いはしない。膝をついて水を掬う。冷たい。口に含む。飲み込む。喉を通る感触が心地よかった。


 ここを拠点にできる。水場がある。空間が広くて奇襲を受けにくい。入口は岩の隙間一つだけ。

 問題は火だ。





 ミレイユの顔が頭に浮かんだ。


 『火は空気がないと燃えないの。最初は細いものから。乾いた枝とか、枯れ葉とか』


 彼女の声が耳に蘇る。


 『乾いた木を擦り合わせれば、摩擦で熱が出る。コツはね、焦らないこと。同じ場所を、同じ力で、ずっと擦り続けること』


 岩の隙間から木の破片を引っ張り出す。光苔の根元に枯れた草のようなものがある。集められるだけ集めて、水場から離れた場所に運んだ。


 二本の木を擦り合わせる。最初は何も起きなかった。焦るな。深呼吸をしてもう一度。ゆっくり、同じ場所を、同じ力で。

 何分経ったかわからない。腕が痺れてきた。手のひらが熱い。


 煙が出た。


 枯れ草を近づける。息を吹きかける。煙が濃くなった。赤く光り始めた。

 燃えた。オレンジ色の光が暗闇を照らした。


 火の温かさが体に沁みた。今まで気づかなかったけれど、体が冷え切っていた。震えが止まった。


 体が温まってから、傷の確認をした。一番ひどいのは左腕の切り傷。応急処置はしたがこのままでは化膿するかもしれない。

 短剣を火で炙った。刃が赤く光るまで熱する。深呼吸をして、傷口に当てた。


 声が出そうになった。噛み殺した。肉が焼ける匂い。吐き気がする。三秒、五秒、十秒。

 刃を離した。傷口が塞がっていた。出血は止まった。


 これで少しは長く動ける。





 体が動けるようになってから、探索に出た。


 水場の奥に細い隙間がある。その先へ進むと通路の様子が変わった。壁の感触が滑らかになっている。足元の石が規則的に並んでいる。

 人工物だ。この先に誰かが何かを作った。


 慎重に進む。足音を殺して、壁に背をつけながら。

 そして音がした。カチ、カチ、カチ。規則的な音。機械的な音。何かが動いている。


 一歩を踏み出した瞬間、足元の石が沈んだ。


 罠だ。


 体が反射的に動いた。後ろに跳ぶ。頭上を何かが通過した。壁から石の刃が突き出していた。さっきまで僕がいた場所を貫いている。

 背中に冷たい汗が流れた。


 落ち着け。床の石がスイッチになっている。どの石が罠でどの石が安全か。

 さっきの瞬間を思い出す。《記録》が何かを刻んでいる。床の石が沈むその直前、微かな音が聞こえていた。カチ。小さな金属的な音。石が動く前のわずかな予兆。

 これだ。


 慎重に一歩を踏み出した。足をゆっくりと下ろす。石に触れる直前で止める。耳を澄ます。

 カチ。音がした。すぐに足を引いた。壁から刃が飛び出した。当たらなかった。


 次の石。耳を澄ます。音がしない。踏む。また次。音がする。別の石を選ぶ。

 十歩、二十歩。だんだんと判断が早くなっていく。石の配置にパターンがある。三つ並んだ石の真ん中が罠。角の石は安全。色が少し濃い石は危険。《記録》が規則を見つけ出していく。


 三十歩目で失敗した。判断を誤った。刃が右腕を掠めた。熱い。血が流れる。でも深くない。動ける。


 立ち止まった。呼吸を整える。今、何を間違えた。さっきの石は色が薄かった。でも角ではなかった。

 角でも色が薄いと危険。《記録》に新しい規則が刻まれた。


 失敗を取り戻す。同じ間違いは二度としない。また歩き始めた。





 罠の区間を抜けた。


 振り返ると、長い通路が暗闇に消えている。右腕の血が乾き始めていた。痛みが鈍くなっている。頭は冷静だ。

 よく生きていた。最初の一撃で死んでいてもおかしくなかった。でも生き延びた。音を聞く、パターンを見つける、失敗を記録する。それだけで罠を抜けられた。


 通路はさらに奥へ続いていた。壁がさらに整っていく。人工的な区画に近づいている。


 空気が変わった。冷たい。澄んでいる。でも重い。

 胸が圧迫される。耳の奥で何かが鳴っている。耳鳴り。キーンという高い音が頭の中で響いている。


 何だこれは。足が止まりそうになった。


 『助けて』


 手帳の文字が頭を叩いた。三年前の召喚者。この深層で助けを求めながら死んでいった人。彼はここまで来られなかったのかもしれない。この圧に押し潰されたのかもしれない。


 皮膚が粟立つ。言葉が喉に引っかかる。

 引き返すか。水場に戻れば安全だ。火もある。水もある。しばらくは生き延びられる。

 でもそれでどうなる。出口は見つからない。いつか食料が尽きる。いつか体が動かなくなる。三年前の彼と同じだ。


 足を踏み出した。


 圧が重くなる。耳鳴りが大きくなる。胸が締め付けられる。でも止まらない。

 懐の手帳が重く感じる。この人の代わりに先へ進む。この人が見られなかったものを僕が見る。


 一歩、また一歩。通路が広がった。


 大きな扉が見えた。石造りの重厚な扉。表面に複雑な紋様が刻まれている。

 封印。何かがここに閉じ込められている。


 扉の前で立ち止まった。耳鳴りが止まった。


 代わりに、頭に響くように声が聞こえた。かすかな声。



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