聖印の異物表示
壁の継ぎ目に指を這わせた。滑らかな感触。周囲の岩肌とは明らかに違う。人が削った、人が作った何かがある。
光苔を近づけて目を凝らす。継ぎ目は壁の一角に四角い線を描いていた。扉のように見える。でも取っ手はない。押しても動かない。叩いても反応がない。
どうすれば開く。
手のひらを壁に当てた。
その瞬間、視界が揺れた。
目眩。吐き気。膝から力が抜けて壁にもたれかかる。
何が起きている。目を開けると、視界に何かが映っていた。黒い線。壁の表面に黒い回路図のようなものが浮かんでいる。
いや、違う。これは壁じゃない。
視界を動かす。手を見る。腕を見る。
自分の体に、それがあった。
胸の中央。聖印が刻まれた場所から、黒い線が伸びている。血管のように枝分かれして、腕へ、肩へ、首へ。
何だこれは。呼吸が荒くなる。心臓がうるさい。
落ち着け。自分に言い聞かせた。パニックになったら終わりだ。
深呼吸。一回、二回、三回。少しだけ視界がクリアになる。黒い線はまだ見えている。
よく見ると、その線は動いていた。ゆっくりと脈を打つように、心臓の鼓動に合わせて明滅している。
気持ち悪い。自分の体の中に知らないものがある。それが脈を打って動いている。
これが聖印か。
祝福式の時、他の人の聖印は金色に輝いていた。僕の聖印だけが薄くて歪んでいた。あの時、光が「入りきれなかった」のだ。弾かれて、拒まれて、皮膚の下に不完全な形で残った。
シュナイダーは言っていた。『聖印が薄いということは、この世界の法則に縛られにくいということだ』と。
これがその聖印なのか。僕の体に馴染みきれなかった歪んだ聖印。それが今、《記録》によって可視化されている。
◆
視界に映る黒い線をじっと見つめた。
回路図のようだと思った。配線のようなもの。複雑に絡み合って、でもどこかに規則性がある。
《記録》が動いた。いつもの感覚。見たものを脳裏に刻む感覚。黒い線の形が記録されていく。分岐点、交差点、途切れた箇所。一つ一つが脳の奥に刻まれていく。
そして気づいた。この配線には「流れ」がある。起点から終点へ、何かが流れている。僕の中心から外へ向かって。
まるで何かを吸い上げているような。何かを集めているような。
嫌な感覚だった。理由はわからない。でも本能的にこれは良くないものだと感じた。
消せないか。ふとそう思った。
配線が流れを作っているなら、その流れを止めれば——いや、止めるのではなく、空にすれば。《記録》は動きを覚えて再現できる。なら逆に、流れを「なかったこと」にできないか。配線の中身を、空っぽにできないか。
何を考えている。そんなことできるはずがない。
でも指が動いていた。自分の胸に手を当てる。聖印の位置。黒い線の起点。
触れた瞬間、焼けた。
声にならない叫びが喉を突き上げた。皮膚の下で何かが燃えている。熱い、痛い、焼ける。
膝をついた。床の石が遠くに感じる。視界が白く滲む。
でも手は離さなかった。
《記録》が動いている。配線の形を記録している。起点から終点への流れを一つ一つ追っている。そして流れを「空」にし始めていた。
配線の中を流れる何か。それを《記録》が捉えて、「ここには何もなかった」と上書きしていく。
意識が朦朧とする。痛い、熱い。吐き気がする、眩暈がする。止めたい、手を離したい。
でも止められなかった。体が勝手に動いている。《記録》が勝手に働いている。
配線の分岐点。そこを通る流れを空にする。別の分岐点。そこも空にする。一つ、また一つ。黒い線が薄くなっていく。消えていく。腕から、肩から、首から。配線が剥がれ落ちていく。まるで枯れた蔦が壁から落ちるように、一本ずつ。
そして胸の中央。起点だった場所。最後の一本が消えた。
◆
どれくらいの時間が経ったのか。
気がつくと僕は床に倒れていた。頬に石の冷たさを感じる。呼吸が荒い。全身に汗をかいている。
生きている。そう思った。
ゆっくりと体を起こす。手足が震えている。力が入らない。でも何かが違っていた。
胸に手を当てる。聖印があった場所。目を閉じて《記録》を意識する。さっきまで見えていた黒い配線を探す。
ない。何も見えなかった。黒い線は一本も残っていない。聖印は完全に消えていた。
代わりに、呼吸が驚くほど楽になっていた。深く息を吸う。肺が限界まで膨らむ。吐く。体の隅々まで空気が行き渡る感覚。
今までどれだけ浅い呼吸をしていたのか。今までどれだけ体が重かったのか。それがなくなっていた。
聖印がなくなったことで、僕は自由になった気がした。
しばらくその場に座り込んで、何が起きたのか整理しようとした。
壁に触れた瞬間、視界に黒い配線が見えた。それは僕の体の中にあった聖印だった。薄くて歪んで不完全な、でも確かに存在していた聖印。《記録》がその配線を記録し、無意識に流れを「空」にし始めた。結果として聖印は完全に消えた。
これでいいのか。シスター・エルナは言っていた。『聖印がなければ、魔族の瘴気に侵されやすくなります』と。それが本当なら、僕は今、無防備になったのかもしれない。この世界の「守り」を自分で剥がしてしまった。
でもあの配線を見た時に感じた嫌悪感。何かを吸い上げている、集めようとしているようなあの感覚。あれは「守り」には見えなかった。
むしろ——いや、考えすぎだ。今は先に進むことだけを考えよう。
◆
立ち上がった。足がまだ少し震えている。でも歩ける。動ける。むしろさっきより体が軽い。
壁の継ぎ目をもう一度見た。さっきは開かなかった扉のようなもの。今度は手を当てるだけではなく、《記録》を意識して使ってみる。
目を閉じる。壁の向こうをイメージする。
見える。うっすらとだけど、壁の中にも配線のようなものがある。これは封印か。この扉を閉じている何らかの仕組み。
聖印を消したのと同じように、この配線も空にできるか。
手のひらを壁に当てた。また焼けるような痛み。でもさっきよりずっと軽い。配線を読み取る。流れを追う。そして空にする。一つ、二つ、三つ。
壁の中で何かが動いた。カチン、と音がした。金属が噛み合うような小さな音。
目を開ける。壁の継ぎ目が開いていた。僅かな隙間。指が入るくらいの細い隙間。でも開いた。僕の力で開いた。
隙間に指をかけて引いた。重い。でも動く。少しずつ扉が開いていく。石と石が擦れる音。埃が舞う。古い空気の匂いが流れ出してくる。
扉の向こうに空間が広がっていた。暗い。でも奥からかすかな光が見える。光苔とは違う、もっと人工的な光。
足を踏み入れる。床の感触が変わった。石ではない。何か金属のような。
これは人が作った場所だ。この深層のさらに奥に、誰かが何かを隠していた。
懐の手帳が重く感じられた。三年前の召喚者。この深層で死んでいった名前も知らない誰か。あの人はここまでたどり着けなかった。でも僕は来れた。《記録》のおかげで。このハズレだと言われた能力のおかげで。聖印が薄かったおかげで。
もし僕の聖印が他の人と同じように強く刻まれていたら、今頃僕はあの配線に縛られたままだったかもしれない。《記録》で見ることも消すこともできなかったかもしれない。
ハズレだと思っていたものが僕を救った。馴染めなかったことが僕を自由にした。皮肉だなと思った。
先へ進む。暗い通路を一歩ずつ。光が近づいてくる。空気が冷たくなっていく。
そして圧が変わった。耳鳴り。胸が締め付けられるような感覚。何かがある。この先に何かがいる。
足を止めた。呼吸を整えた。
怖い。でも引き返すわけにはいかない。手帳の持ち主の代わりに。ここで終わった誰かの代わりに。僕は先へ進む。




