学生手帳
水音が、近づいている。
暗い通路を、一歩ずつ進む。
光苔の明かりが、ところどころに点在している。
足元の水は、くるぶしの深さまで上がっていた。
冷たい。
石の冷たさとは違う——生きている水の冷たさだ。
手の中には、短剣。
ゴブリンから奪った、人間の短剣。
懐には、あの布。見慣れない校章が縫い付けられた、紺色の布。
歩きながら、僕はその布のことを——考えていた。
◆
どうして、こんなものがここに。
僕たちのクラス以外にも——召喚された人間がいた。
この深層に、落ちた——あるいは、閉じ込められた。
王女も、騎士団長も、教会の人間も。
誰も、そんなことは言わなかった。
——知らなかったのか。
——それとも、隠していたのか。
どちらにしても——嫌な想像しか浮かばない。
この布の持ち主は、どうなったのか。
なぜ、その装備がゴブリンの手に渡っているのか。
答えは——まだ、わからない。
でも、先に進めば——何かが見つかるかもしれない。
◆
水音が、さらに大きくなった。
通路が広がっている。
天井も高くなって、光苔の明かりが届かない暗がりが上に広がっている。
前方に——水が見えた。
地下の水場だ。
壁から水が湧き出して、浅い池を作っている。
水は澄んでいて、底の石が見える。
——飲めるか。
喉が渇いていた。
穴に落ちてから、どれくらい経ったかわからない。
水を飲まないと——体が持たない。
池の縁に膝をつく。
手で水を掬う。匂いを嗅ぐ。
変な匂いはしない。透明で、冷たい。
少しだけ——口に含んだ。
苦くない。甘くもない。ただの——水だ。
ゆっくりと飲み込む。喉を通っていく感触が、心地いい。
もう一度、水を掬った。
今度は、もう少し多く。
体の奥で、何かが——緩んだ気がした。
◆
水を飲み終えて、顔を上げた。
池の向こう側に——何かがある。
岩の影。人工的な形。
近づいてみる。水の中を歩いて、向こう岸へ渡る。
それは——荷物だった。
革製の鞄。ほとんど朽ちかけている。
紐が切れて、中身が——散乱していた。
光苔の明かりが、その中身を——照らしている。
僕は、息を止めた。
◆
学生手帳。
見慣れた形。見慣れた大きさ。
日本の、高校の——学生手帳だ。
手が、震えた。
拾い上げる。開く。
湿っている。ページが張り付いている。
それでも——文字は、読めた。
名前:木下雄二
学校名——私立聖陵学園高等学校。
知っている名前だった。
ニュースで見たことがある。全国模試の上位常連。
いわゆる——名門校だ。
確か神隠しにあったとかで一躍世間をにぎわせていた。
名前は——読み取れなかった。
インクが滲んで、ほとんど消えかけている。
でも、学年は——わかった。
二年。
僕と、同じ学年だ。
三年前に、召喚されたとしたら——今頃は、二十歳になっているはずだ。
大学生か。社会人か。
そういう人生を、歩いているはずだった。
◆
手帳のページを、めくっていく。
カレンダー。予定表。メモ欄。
ところどころに、書き込みがある。
『英語の小テスト』
『数学の宿題提出』
『部活の試合』
普通の、高校生の——日常。
僕と同じような、何でもない——日々。
それが、ある日を境に——途切れている。
十一月十七日。
その日の欄に、一言だけ。
『光』
——召喚されたのは、その日だ。
三年前の、十一月十七日。
僕たちが召喚されたのと、同じ季節。
同じような——光の中で。
さらにページをめくる。
メモ欄に、びっしりと——文字が書かれていた。
日記だ。
この人が、異世界で——書き続けた記録。
◆
震える手で、最初のページを——読んだ。
『十一月十七日。
白い光に包まれて、気づいたら知らない場所にいた。
マクセル王国、というらしい。僕たちのクラス——三十二人全員が、召喚されたと言われた。
魔族との戦争。僕たちに戦えと。
信じられない。でも、夢じゃない。』
僕たちと——同じだ。
同じように召喚されて、同じように混乱して。
次のページ。
『十一月二十日。
訓練が始まった。
僕のスキルは《探知》。魔物の気配を感じ取れる、らしい。
地味だけど、役に立つと言われた。
早く帰りたい。優花が心配してるはず。』
《探知》——索敵系のスキルだ。
戦闘向きではないが、ダンジョン探索には——有用なはず。
ページをめくる。日付が飛んでいる。
『十二月十五日。
訓練ダンジョンをクリアした。
うちのクラスのリーダーは《炎槍》を持ってる。
僕は後方支援。魔物の位置を伝えるだけ。
でも、役に立ててる気がする。』
『一月八日。
今日、王国の上層部の人間から呼び出された。
「お前の《探知》は優秀だ」と言われた。
嬉しかったけど、何か——嫌な予感がした。』
嫌な予感。
その言葉が、胸に引っかかった。
◆
さらに、ページをめくる。
字が——荒れ始めていた。
『二月三日。
命令が来た。
単独で、深層ダンジョンの探索をしろと。
《探知》があれば、魔物を避けて進めるはずだと。
断ろうとした。でも——』
『「異世界人は王国の保護下にある。
保護を受ける以上、相応の貢献をしてもらう」
そう言われた。
断れなかった。断ったら、どうなるかわからなかった。』
僕は、息を止めた。
単独で、深層の探索。
訓練を受けて数か月の高校生に——そんな命令を。
『クラスのみんなには言えない。
リーダーに相談しようとしたけど、「上の命令なら仕方ない」と言われた。
先生も——九条先生も、「大丈夫よ」と言うだけだった。
誰も、助けてくれない。』
九条先生。
僕たちの担任と——同じ名前だ。
偶然か。それとも——
次のページ。
『二月十日。
明日、深層に入る。
怖い。でも、行くしかない。
優花、ごめん。お兄ちゃん、絶対帰るから。』
それが——最後のページだった。
王国での、最後の記録。
◆
手帳を、そっと閉じた。
他にも、散乱しているものがある。
布切れ。壊れたペン。何かの破片。
そして——写真。
端が折れて、湿気で波打っている。
でも、映っているものは——わかった。
女の子。
小学生くらいの、女の子。
笑顔で、ピースサインをしている。
裏返してみる。
文字が書いてあった。かろうじて、読める。
『優花、七歳』
——妹だ。
この手帳の持ち主の、妹。
きっと、お守りとして——持っていたのだろう。
異世界に来ても、手放さなかった——大切な写真。
その写真が、こんな場所に——落ちている。
胸の奥が、締め付けられた。
◆
さらに探した。
散乱した荷物の中に——紙切れがあった。
何かの包み紙。携帯食料の包装だったのかもしれない。
その裏側に——文字が書かれていた。
手帳とは別の——深層に入ってからの記録だ。
震える字。弱々しい筆跡。
読むのに——時間がかかった。
『一日目。深層に入った。《探知》で魔物を避けながら進む。
出口がわからない。地図が役に立たない。』
『三日目。水は見つけた。食料がない。携帯食料は残り三日分。』
『五日目。魔物を避けて移動。出口が見つからない。
《探知》の範囲外から襲われた。逃げられたけど、怖い。』
『七日目。足を怪我した。動けない。
ここで待つしかない。誰か、来てくれるはず。』
——来なかったのだ。
誰も、助けに来なかった。
続きを読む。
字が、どんどん——乱れていく。
『十日目。誰か。誰かいませんか。
王国は、僕を探してくれてるのか?
それとも——もう、諦められたのか?』
『腕時計もも動かない、何日たった?優花。ごめん。お兄ちゃん、帰れないかも。
お前の顔、もう一度見たかった。』
そして——最後の行。
『助けて』
それだけが、紙の端に——大きく書かれていた。
◆
僕は、その紙を——見つめていた。
『助けて』
その文字が、目に焼きついて離れない。
三年前。
この人は、ここで——助けを求めていた。
誰にも届かない声で。誰にも見つからない場所で。
そして——その声は、届かなかった。
学生手帳。妹の写真。「助けて」のメモ。
それらが、こうして——残っている。
この人は——どうなったのか。
荷物がここにあるということは、この人は——ここにいた。
でも、体は——ない。
魔物に襲われたのか。
飢えで動けなくなったのか。
それとも——
答えは、わからない。
でも、ひとつだけ——確かなことがある。
この人は、帰れなかった。
妹に、会えなかった。
「助けて」という声は、誰にも——届かなかった。
◆
怒りが、腹の底から——湧き上がってきた。
静かな怒り。
叫びたいような、殴りたいような——でも、声が出ない。
拳を握りしめても、震えが止まらない。
王国は——知っていた。
三年前に、別のクラスを召喚していた。
そして、その中の一人を——単独で深層に送り込んだ。
『異世界人は王国の保護下にある。保護を受ける以上、相応の貢献をしてもらう』
この言葉が、頭の中で——繰り返される。
使い捨てだ。
僕たちは——道具なんだ。
戦力として優秀な者は、前線に。
戦闘に向かない者は——危険な任務に。
死んでも、代わりはいくらでもいる。
レオノーラ王女は、「道具として扱わない」と言っていた。
シュナイダー騎士団長は、誠実そうに見えた。
でも——三年前も、同じだったのか?
この手帳の持ち主も、最初は——希望を持っていたのかもしれない。
訓練を頑張って、役に立とうとして。
それでも——断れない命令を、押し付けられた。
九条先生。
三年前にも、同じ名前の教師がいた。
「大丈夫よ」と言って——生徒を、死地に送り出した。
偶然の一致か。
それとも——
考えたくない。
でも、考えずにはいられない。
僕たちの九条先生も——同じなのか?
あの人も——王国側の人間なのか?
手帳を握る手に、力が入った。
僕たちが召喚された時、王は言っていた。
『召喚には、膨大な魔力と触媒が必要だ。一度使えば、数十年は再び発動できない』
嘘だ。
三年前にも、召喚があった。
僕たちが最初ではない。
なのに——そのことを、誰も言わなかった。
隠していたのだ。
過去の召喚者が、どうなったのか。
この深層で、誰かが——助けを求めながら死んでいったことを。
◆
手帳と写真とメモを——大事に、拾い上げた。
水気を切って、懐にしまう。
校章の縫い付けられた布と一緒に。
——持って帰る。
もし、僕がここから出られたら。
この手帳を、この写真を——届けたい。
この人の家族に。この人の——妹に。
『優花、七歳』
あの写真の女の子は、今は——十歳だ。
お兄ちゃんの帰りを、待っているかもしれない。
まだ、帰ってくると——信じているかもしれない。
それを思うと——胸が、痛かった。
◆
立ち上がった。
足が、重い。
体が、疲れている。
でも——立ち止まるわけにはいかない。
この人は、出口を見つけられなかった。
でも、僕は——まだ、諦めていない。
水場を離れて、通路を見回す。
光苔の明かりが、いくつかの方向を——照らしている。
どこへ行けばいい。
どうすれば、ここから出られる。
——考えろ。
この人の記録を、無駄にしないために。
この人の思いを、届けるために。
通路の壁を、手で触りながら進む。
石の冷たさ。苔の湿り気。ところどころに、亀裂がある。
そして——
手が、止まった。
◆
壁の感触が——違う。
他の場所は、自然の岩肌だ。
凸凹があって、苔が生えていて、不規則な形をしている。
でも、ここだけ——滑らかだ。
平らで、冷たくて、まるで——人が削ったみたいに。
目を凝らす。
光苔の明かりを、近づける。
——継ぎ目だ。
壁と壁の間に、細い線が——走っている。
見落としそうなほど細い。でも、確かに——ある。
人工物。
この深層に、人が作った——何かがある。
僕は、その継ぎ目に——指を這わせた。
向こう側に、何があるのか。
この壁の奥に、何が隠されているのか。
手帳の持ち主は、ここまで——たどり着けなかったのかもしれない。
水場で力尽きて、先に進めなかったのかもしれない。
でも、僕は——まだ、動ける。
懐の手帳が、重く——感じられた。
この人の代わりに、先へ進む。
この人が見られなかったものを、僕が見る。
指先に力を込めて、継ぎ目を——なぞった。
何かが——あるはずだ。
この壁の、向こう側に。




