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学生手帳

 水音が、近づいている。


 暗い通路を、一歩ずつ進む。

 光苔の明かりが、ところどころに点在している。

 足元の水は、くるぶしの深さまで上がっていた。


 冷たい。

 石の冷たさとは違う——生きている水の冷たさだ。


 手の中には、短剣。

 ゴブリンから奪った、人間の短剣。

 懐には、あの布。見慣れない校章が縫い付けられた、紺色の布。


 歩きながら、僕はその布のことを——考えていた。







 どうして、こんなものがここに。


 僕たちのクラス以外にも——召喚された人間がいた。

 この深層に、落ちた——あるいは、閉じ込められた。


 王女も、騎士団長も、教会の人間も。

 誰も、そんなことは言わなかった。


 ——知らなかったのか。

 ——それとも、隠していたのか。


 どちらにしても——嫌な想像しか浮かばない。


 この布の持ち主は、どうなったのか。

 なぜ、その装備がゴブリンの手に渡っているのか。


 答えは——まだ、わからない。


 でも、先に進めば——何かが見つかるかもしれない。







 水音が、さらに大きくなった。


 通路が広がっている。

 天井も高くなって、光苔の明かりが届かない暗がりが上に広がっている。


 前方に——水が見えた。


 地下の水場だ。

 壁から水が湧き出して、浅い池を作っている。

 水は澄んでいて、底の石が見える。


 ——飲めるか。


 喉が渇いていた。

 穴に落ちてから、どれくらい経ったかわからない。

 水を飲まないと——体が持たない。


 池の縁に膝をつく。

 手で水を掬う。匂いを嗅ぐ。

 変な匂いはしない。透明で、冷たい。


 少しだけ——口に含んだ。


 苦くない。甘くもない。ただの——水だ。

 ゆっくりと飲み込む。喉を通っていく感触が、心地いい。


 もう一度、水を掬った。

 今度は、もう少し多く。


 体の奥で、何かが——緩んだ気がした。







 水を飲み終えて、顔を上げた。


 池の向こう側に——何かがある。


 岩の影。人工的な形。

 近づいてみる。水の中を歩いて、向こう岸へ渡る。


 それは——荷物だった。


 革製の鞄。ほとんど朽ちかけている。

 紐が切れて、中身が——散乱していた。


 光苔の明かりが、その中身を——照らしている。


 僕は、息を止めた。







 学生手帳。


 見慣れた形。見慣れた大きさ。

 日本の、高校の——学生手帳だ。


 手が、震えた。


 拾い上げる。開く。

 湿っている。ページが張り付いている。

 それでも——文字は、読めた。


 名前:木下雄二

 学校名——私立聖陵学園高等学校。


 知っている名前だった。

 ニュースで見たことがある。全国模試の上位常連。

 いわゆる——名門校だ。

確か神隠しにあったとかで一躍世間をにぎわせていた。


 名前は——読み取れなかった。

 インクが滲んで、ほとんど消えかけている。

 でも、学年は——わかった。


 二年。

 僕と、同じ学年だ。


 三年前に、召喚されたとしたら——今頃は、二十歳になっているはずだ。

 大学生か。社会人か。

 そういう人生を、歩いているはずだった。







 手帳のページを、めくっていく。


 カレンダー。予定表。メモ欄。

 ところどころに、書き込みがある。


 『英語の小テスト』

 『数学の宿題提出』

 『部活の試合』


 普通の、高校生の——日常。

 僕と同じような、何でもない——日々。


 それが、ある日を境に——途切れている。


 十一月十七日。

 その日の欄に、一言だけ。


 『光』


 ——召喚されたのは、その日だ。


 三年前の、十一月十七日。

 僕たちが召喚されたのと、同じ季節。

 同じような——光の中で。


 さらにページをめくる。

 メモ欄に、びっしりと——文字が書かれていた。


 日記だ。

 この人が、異世界で——書き続けた記録。







 震える手で、最初のページを——読んだ。


 『十一月十七日。

  白い光に包まれて、気づいたら知らない場所にいた。

  マクセル王国、というらしい。僕たちのクラス——三十二人全員が、召喚されたと言われた。

  魔族との戦争。僕たちに戦えと。

  信じられない。でも、夢じゃない。』


 僕たちと——同じだ。

 同じように召喚されて、同じように混乱して。


 次のページ。


 『十一月二十日。

  訓練が始まった。

  僕のスキルは《探知》。魔物の気配を感じ取れる、らしい。

  地味だけど、役に立つと言われた。

  早く帰りたい。優花が心配してるはず。』


 《探知》——索敵系のスキルだ。

 戦闘向きではないが、ダンジョン探索には——有用なはず。


 ページをめくる。日付が飛んでいる。


 『十二月十五日。

  訓練ダンジョンをクリアした。

  うちのクラスのリーダーは《炎槍》を持ってる。

  僕は後方支援。魔物の位置を伝えるだけ。

  でも、役に立ててる気がする。』


 『一月八日。

  今日、王国の上層部の人間から呼び出された。

  「お前の《探知》は優秀だ」と言われた。

  嬉しかったけど、何か——嫌な予感がした。』


 嫌な予感。

 その言葉が、胸に引っかかった。







 さらに、ページをめくる。


 字が——荒れ始めていた。


 『二月三日。

  命令が来た。

  単独で、深層ダンジョンの探索をしろと。

  《探知》があれば、魔物を避けて進めるはずだと。

  断ろうとした。でも——』


 『「異世界人は王国の保護下にある。

  保護を受ける以上、相応の貢献をしてもらう」

  そう言われた。

  断れなかった。断ったら、どうなるかわからなかった。』


 僕は、息を止めた。


 単独で、深層の探索。

 訓練を受けて数か月の高校生に——そんな命令を。


 『クラスのみんなには言えない。

  リーダーに相談しようとしたけど、「上の命令なら仕方ない」と言われた。

  先生も——九条先生も、「大丈夫よ」と言うだけだった。

  誰も、助けてくれない。』


 九条先生。

 僕たちの担任と——同じ名前だ。

 偶然か。それとも——


 次のページ。


 『二月十日。

  明日、深層に入る。

  怖い。でも、行くしかない。

  優花、ごめん。お兄ちゃん、絶対帰るから。』


 それが——最後のページだった。

 王国での、最後の記録。







 手帳を、そっと閉じた。


 他にも、散乱しているものがある。

 布切れ。壊れたペン。何かの破片。


 そして——写真。


 端が折れて、湿気で波打っている。

 でも、映っているものは——わかった。


 女の子。

 小学生くらいの、女の子。

 笑顔で、ピースサインをしている。


 裏返してみる。

 文字が書いてあった。かろうじて、読める。


 『優花、七歳』


 ——妹だ。


 この手帳の持ち主の、妹。

 きっと、お守りとして——持っていたのだろう。

 異世界に来ても、手放さなかった——大切な写真。


 その写真が、こんな場所に——落ちている。


 胸の奥が、締め付けられた。







 さらに探した。


 散乱した荷物の中に——紙切れがあった。


 何かの包み紙。携帯食料の包装だったのかもしれない。

 その裏側に——文字が書かれていた。


 手帳とは別の——深層に入ってからの記録だ。


 震える字。弱々しい筆跡。

 読むのに——時間がかかった。


 『一日目。深層に入った。《探知》で魔物を避けながら進む。

  出口がわからない。地図が役に立たない。』

 『三日目。水は見つけた。食料がない。携帯食料は残り三日分。』

 『五日目。魔物を避けて移動。出口が見つからない。

  《探知》の範囲外から襲われた。逃げられたけど、怖い。』

 『七日目。足を怪我した。動けない。

  ここで待つしかない。誰か、来てくれるはず。』


 ——来なかったのだ。

 誰も、助けに来なかった。


 続きを読む。

 字が、どんどん——乱れていく。


 『十日目。誰か。誰かいませんか。

  王国は、僕を探してくれてるのか?

  それとも——もう、諦められたのか?』

 『腕時計もも動かない、何日たった?優花。ごめん。お兄ちゃん、帰れないかも。

  お前の顔、もう一度見たかった。』


 そして——最後の行。


 『助けて』


 それだけが、紙の端に——大きく書かれていた。







 僕は、その紙を——見つめていた。


 『助けて』


 その文字が、目に焼きついて離れない。


 三年前。

 この人は、ここで——助けを求めていた。

 誰にも届かない声で。誰にも見つからない場所で。


 そして——その声は、届かなかった。


 学生手帳。妹の写真。「助けて」のメモ。

 それらが、こうして——残っている。


 この人は——どうなったのか。


 荷物がここにあるということは、この人は——ここにいた。

 でも、体は——ない。


 魔物に襲われたのか。

 飢えで動けなくなったのか。

 それとも——


 答えは、わからない。

 でも、ひとつだけ——確かなことがある。


 この人は、帰れなかった。

 妹に、会えなかった。

 「助けて」という声は、誰にも——届かなかった。







 怒りが、腹の底から——湧き上がってきた。


 静かな怒り。

 叫びたいような、殴りたいような——でも、声が出ない。

 拳を握りしめても、震えが止まらない。


 王国は——知っていた。


 三年前に、別のクラスを召喚していた。

 そして、その中の一人を——単独で深層に送り込んだ。


 『異世界人は王国の保護下にある。保護を受ける以上、相応の貢献をしてもらう』


 この言葉が、頭の中で——繰り返される。


 使い捨てだ。

 僕たちは——道具なんだ。


 戦力として優秀な者は、前線に。

 戦闘に向かない者は——危険な任務に。

 死んでも、代わりはいくらでもいる。


 レオノーラ王女は、「道具として扱わない」と言っていた。

 シュナイダー騎士団長は、誠実そうに見えた。

 でも——三年前も、同じだったのか?


 この手帳の持ち主も、最初は——希望を持っていたのかもしれない。

 訓練を頑張って、役に立とうとして。

 それでも——断れない命令を、押し付けられた。


 九条先生。

 三年前にも、同じ名前の教師がいた。

 「大丈夫よ」と言って——生徒を、死地に送り出した。


 偶然の一致か。

 それとも——


 考えたくない。

 でも、考えずにはいられない。


 僕たちの九条先生も——同じなのか?

 あの人も——王国側の人間なのか?


 手帳を握る手に、力が入った。


 僕たちが召喚された時、王は言っていた。

 『召喚には、膨大な魔力と触媒が必要だ。一度使えば、数十年は再び発動できない』


 嘘だ。


 三年前にも、召喚があった。

 僕たちが最初ではない。

 なのに——そのことを、誰も言わなかった。


 隠していたのだ。

 過去の召喚者が、どうなったのか。

 この深層で、誰かが——助けを求めながら死んでいったことを。







 手帳と写真とメモを——大事に、拾い上げた。


 水気を切って、懐にしまう。

 校章の縫い付けられた布と一緒に。


 ——持って帰る。


 もし、僕がここから出られたら。

 この手帳を、この写真を——届けたい。

 この人の家族に。この人の——妹に。


 『優花、七歳』


 あの写真の女の子は、今は——十歳だ。

 お兄ちゃんの帰りを、待っているかもしれない。

 まだ、帰ってくると——信じているかもしれない。


 それを思うと——胸が、痛かった。







 立ち上がった。


 足が、重い。

 体が、疲れている。

 でも——立ち止まるわけにはいかない。


 この人は、出口を見つけられなかった。

 でも、僕は——まだ、諦めていない。


 水場を離れて、通路を見回す。

 光苔の明かりが、いくつかの方向を——照らしている。


 どこへ行けばいい。

 どうすれば、ここから出られる。


 ——考えろ。


 この人の記録を、無駄にしないために。

 この人の思いを、届けるために。


 通路の壁を、手で触りながら進む。

 石の冷たさ。苔の湿り気。ところどころに、亀裂がある。


 そして——


 手が、止まった。







 壁の感触が——違う。


 他の場所は、自然の岩肌だ。

 凸凹があって、苔が生えていて、不規則な形をしている。


 でも、ここだけ——滑らかだ。

 平らで、冷たくて、まるで——人が削ったみたいに。


 目を凝らす。

 光苔の明かりを、近づける。


 ——継ぎ目だ。


 壁と壁の間に、細い線が——走っている。

 見落としそうなほど細い。でも、確かに——ある。


 人工物。

 この深層に、人が作った——何かがある。


 僕は、その継ぎ目に——指を這わせた。


 向こう側に、何があるのか。

 この壁の奥に、何が隠されているのか。


 手帳の持ち主は、ここまで——たどり着けなかったのかもしれない。

 水場で力尽きて、先に進めなかったのかもしれない。


 でも、僕は——まだ、動ける。


 懐の手帳が、重く——感じられた。

 この人の代わりに、先へ進む。

 この人が見られなかったものを、僕が見る。


 指先に力を込めて、継ぎ目を——なぞった。


 何かが——あるはずだ。

 この壁の、向こう側に。


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