人間装備のゴブリン
光が——近づいている。
青白い、淡い光。
暗闘の奥で、確かに——何かが、光っている。
足を止めた。
息を殺す。心臓の音が、耳の奥で響いている。
——何だ。
魔物か。罠か。それとも——
目を凝らす。暗闭に慣れた目で、その光の正体を——見極めようとする。
光は、壁から漏れていた。
通路の先、左手の壁に——亀裂のような隙間がある。
そこから、青白い光が——染み出している。
苔だ。
発光する苔。
壁の亀裂を覆うように、びっしりと——生えている。
訓練ダンジョンでも、見たことがある。深層に生息する光苔。魔力を含んでいて、暗闢を照らすほどの光を放つ。
——危険ではない。
少なくとも、苔自体は。
でも——光があるということは。
周囲が、見える。
自分の手が、見える。足元の水が、見える。
そして——
◆
足音が、聞こえた。
違う。
足音ではない。
もっと——軽い。爪が石を引っ掻くような。
僕は、咄嗟に壁に身を寄せた。
光苔の明かりが、かえって——自分の姿を晒してしまう。
影に入る。息を止める。
音が、近づいてくる。
水を踏む音。低い唸り声。獣の匂い——いや、違う。
腐った肉と、泥と、汗の混じった——不快な臭気。
魔物だ。
通路の奥から、それは——現れた。
小さい。僕の腰ほどの背丈。
緑がかった肌。尖った耳。赤く光る目。
ゴブリン——だ。
でも、何かが——おかしい。
◆
ゴブリンは、武器を持っていた。
短剣。
粗末な短剣——ではない。
刃が、鈍く光っている。少し錆があるが、以前は手入れされたとわかる、きちんとした——人間の作った短剣。
そして——布。
体に巻き付けている。ぼろぼろだが、元は——上質な布だ。
紺色の、どこかで見たことのあるような——
徽章。
布の端に、小さな——徽章が、縫い付けられている。
光苔の明かりでは、はっきりとは——見えない。
——人間の、装備だ。
間違いない。
あのゴブリンが持っている短剣も、巻いている布も——元は、人間のものだ。
どこで手に入れた。
どうやって手に入れた。
その疑問が、頭を過ぎった瞬間——
ゴブリンの赤い目が、こちらを——見た。
◆
「ギィッ!」
甲高い叫び。
ゴブリンが、こちらに——駆けてきた。
短剣を振り上げて。赤い目を爛々と光らせて。
小さな体が、信じられない速さで——距離を詰めてくる。
——避けろ!
体が、動いた。
壁を蹴って、横に跳ぶ。
ゴブリンの短剣が、さっきまで僕がいた場所を——切り裂いた。
石の壁に、火花が散る。
刃が、石を削る音。金属の軋み。
——速い。
訓練ダンジョンで戦ったゴブリンとは、動きが違う。
深層の魔物は——強い。
当たり前だ。ここは、訓練用の場所ではない。本物のダンジョンの、深層なのだから。
ゴブリンが、すぐに体勢を立て直した。
赤い目が、僕を睨む。唾液が、口の端から垂れている。
また——来る。
◆
通路が、狭い。
壁と壁の間は、三メートルほど。
逃げ場が——ない。
後ろに下がっても、追いつかれる。
前に進むしか——ない。
ゴブリンが、二度目の突進を仕掛けてきた。
短剣を突き出して。体ごと——飛び込んでくる。
——見ろ。
《記録》が、動き始めていた。
ゴブリンの動き。足の運び。体重の移動。短剣の軌道。
すべてが——目に焼きつく。
一瞬が、引き伸ばされる。
でも——
見えても、体が追いつかない。
まだ、この動きを——記録していない。
再現できない。
僕にできるのは——
「っ——!」
体を捻った。
完全には避けられない。
短剣の刃が、腕を掠める。熱い痛みが、走った。
でも——致命傷ではない。
腕の表面を、切られただけだ。
◆
血が、流れている。
腕から。さっき斬られた場所から。
熱い。痛い。でも——動ける。
ゴブリンが、また——向き直った。
三度目の攻撃が、来る。
——覚えろ。
自分に、言い聞かせる。
——今度こそ、覚えろ。
ゴブリンが、突進してきた。
さっきと同じ。足の運び。体重の移動。短剣の軌道。
同じ動き。同じパターン。
《記録》が——働いた。
狭い通路での、突進。
壁際に追い詰められた時の、回避方法。
体を——どこに動かせば、刃が届かないか。
体が、勝手に——動いた。
膝を曲げる。重心を落とす。
左に体を傾けながら、右足を——壁に向けて踏み出す。
短剣が、頭上を通過する。風が、髪を撫でた。
避けた。
完全に、避けた。
今度は——傷ひとつ、なく。
◆
ゴブリンが、壁に激突した。
突進の勢いを殺せずに、頭から——ぶつかった。
一瞬、動きが止まる。
——今だ。
僕は、その隙に——背後に回り込んだ。
武器が——ない。
短剣も、剣も、何も持っていない。
落ちた時に、何もかも——失った。
でも——
足元に、石があった。
拳ほどの、尖った石。
拾い上げる。握りしめる。
ゴブリンが、振り返ろうとしている。
赤い目が、こちらを——
その前に。
僕は、石を——振り下ろした。
◆
鈍い音がした。
ゴブリンが、崩れ落ちた。
動かない。赤い目が、閉じている。
息が——荒い。
心臓が、破裂しそうなほど——打っている。
手が、震えている。石を握った手が。
——殺した。
違う。まだ、息があるかもしれない。
でも——動かない。
少なくとも、今は——動けない。
足元に、ゴブリンが倒れている。
血が——頭から、流れ出している。
光苔の明かりに照らされて、黒っぽく——見える。
僕は、壁にもたれかかった。
足の力が、抜けていく。
滑るように、座り込む。
——生きてる。
また——生き延びた。
◆
どれくらい、そうしていただろう。
呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。
心臓の鼓動が、ゆっくりになっていく。
腕を見た。
斬られた傷。血が、まだ滲んでいる。
深くはない。でも、放置はできない。
何か——止血できるものは。
視線が、倒れているゴブリンに——向いた。
その体に巻かれている、布に。
立ち上がった。
ゴブリンに近づく。まだ、動かない。呼吸も——感じられない。
死んでいる——のかもしれない。
布を、解いた。
思ったより——しっかりした生地だ。
汚れてはいるが、使えないことは——ない。
布を細く裂いて、腕に巻く。
きつく締める。血が、止まっていく。
——とりあえず、これでいい。
◆
短剣も、回収した。
握りやすい。重さも、ちょうどいい。
素人が使うにも、無理のない——バランスだ。
これは——
確信が、強まった。
この短剣は、訓練用の武器ではない。
実戦を想定した、きちんとした装備だ。
誰のものだったのか。
どうして、ゴブリンが——
その時、目に入った。
布の端。
さっきは、よく見えなかった——徽章。
光苔の明かりに、近づけてみる。
布を広げる。徽章を——見る。
——校章だ。
間違いない。
これは、学校の——校章だ。
でも——見慣れない。
僕の学校の校章とは、違う。
形も、デザインも——まったく、違う。
◆
僕は、その校章を——見つめていた。
別の学校の、校章。
日本の——いや、おそらく日本の——学校の。
どうして、こんなものが——
この深層に、どうして——
頭の中が、混乱する。
僕たちのクラス以外にも——召喚された人間がいた?
この世界に——僕たち以外の、日本人が?
聞いていない。
誰も——そんなことは、言っていなかった。
王女も、騎士団長も、教会の人間も。
——なぜ、言わなかった。
嫌な想像が、頭を過ぎった。
この布の持ち主は——どうなったのか。
なぜ、その装備が——ゴブリンの手に渡っているのか。
答えは——わからない。
でも、ひとつだけ——確かなことがある。
ここに、誰かがいた。
僕と同じように——この深層に、落ちた人間が。
あるいは——閉じ込められた人間が。
手の中の布が、重く——感じられた。
僕は、その布を——大事に、折りたたんだ。
懐に、しまい込む。
——見つけた。
何を見つけたのか、まだわからない。
でも——これは、手がかりだ。
王国が——何かを、隠している。その証拠だ。
立ち上がる。
短剣を握り直す。
先に進まなければ。
この校章の持ち主が——何者だったのか。
知りたければ、進むしかない。
水音が、まだ聞こえている。
その方向へ——僕は、歩き始めた。




