暗闇の底で
——冷たい。
それが、最初に感じたことだった。
体の下に、硬いものがある。石だ。湿った、冷たい石。
背中が痛い。腰が痛い。肩が——特に、肩が。
意識が、少しずつ——戻ってくる。
目を開けた。
でも——何も、見えない。
暗い。
真っ暗だ。
目を開けているのか、閉じているのか——わからないほどの、闇。
◆
僕は——どこにいる。
頭がぼんやりする。記憶が、断片的に戻ってくる。
英雄聖堂。ヴェリナの襲撃。鏡を使って——魔法を逸らした。
そこまでは——覚えている。
その後——
衝撃。腹部への衝撃。誰かに——蹴られた。
落下。闇の中へ——落ちていく感覚。
そして——
「これで——邪魔者が、消える」
あの声が——頭の中で、反響した。
◆
体を、動かそうとした。
痛い。
全身が、痛い。
でも——動く。腕も、足も。首も。
骨が折れている感覚は——ない。
ゆっくりと、上半身を起こした。
頭がぐらりと揺れる。眩暈。吐き気。
でも——意識は、保てる。
手で、体を確認する。
肩——以前の傷が、また開いている。血の湿り気。痛み。
背中——打撲だろう。鈍い痛みが広がっている。
腹部——蹴られた場所。押すと、鋭く痛む。
脚——大丈夫だ。立てそうだ。
——生きてる。
その事実が、ゆっくりと——実感に変わっていく。
あの高さから落ちて、何故ーー
穴に落ちる前、夢で聞いた優し気な声、包み込まれつような感覚が体に残っている気がした。
◆
立ち上がろうとした。
足が滑る。濡れた石。水が——流れている?
膝をついて、体勢を整える。
息を吐く。吸う。吐く。
呼吸を意識する。パニックを、抑え込む。
——落ち着け。
——まず、状況を把握しろ。
周囲を見回した。
意味がなかった。何も、見えない。
上を見上げた。
かすかに——本当にかすかに——光の点が、見えた。
豆粒のような。いや、砂粒のような。
聖堂の穴——だろうか。
どれだけの距離があるのか——見当もつかない。
でも、あの小ささは——
——かなり、深い。
声を出してみた。
「おーい! 誰か——!」
声が、闇に吸い込まれていく。
反響する。石の壁に当たって、跳ね返ってくる。
でも——上からの返事は、ない。
もう一度。
「誰か! ここだ! ここにいる——!」
喉が痛い。声が掠れる。
でも——返事は、ない。
届いていない。
この深さでは——声は、上まで届かない。
◆
僕は、その場に——座り込んだ。
暗い。
何も見えない。
上の光は、届かないほど——遠い。
——登れない。
壁を手で触った。
湿った岩肌。苔のようなものが——ぬめっている。
足場になりそうな凹凸は——ない。
仮にあったとしても、この暗闇では——見えない。
——助けは、来るのか。
高嶺さんたちは、僕が落ちたことを——知っているはずだ。
穴の縁で、鏡を使っていたのだから。
騎士団も、気づいているはずだ。
でも——
この深さ。
この暗さ。
降りてくる手段が、あるのか。
探しに来てくれる余裕が、あるのか。
ヴェリナの襲撃の直後だ。
負傷者もいる。混乱もしている。
僕一人のために——人員を割けるのか。
——わからない。
——でも、待っているだけでは——
◆
遠くで、音がした。
水の音。
さっきから聞こえていた。気のせいかと思っていた。
でも——確かに、聞こえる。
流れている。どこかで、水が流れている。
——水があるということは。
生き物がいる可能性がある。
通路がある可能性がある。
ここが——どこかに繋がっている可能性がある。
思考が、回り始めた。
聖堂の地下。
あの穴は——元々あったものではない。ヴェリナの魔法で、床が崩れて——
いや。穴の形状、崩れ方。もしかしたら——
——ダンジョン。
その可能性が、頭を過ぎった。
訓練ダンジョンがあったように、この世界には——地下に広がる迷宮がある。
聖堂の地下に——別のダンジョンが、存在していたとしたら。
僕が落ちた場所は——ダンジョンの深層なのかもしれない。
◆
恐怖が、じわりと——胸に広がった。
ダンジョンの深層。
訓練用ではない。本物の。
魔物がいる。罠がある。出口があるかどうかも——わからない。
暗闘の圧が、体を押しつぶそうとしている。
空気が、重い。冷たい。石の匂い。カビの匂い。
そして——孤独。
誰もいない。何も見えない。助けも——来ない。
手が、震え始めた。
呼吸が、浅くなる。
心臓が、早鐘を打っている。
——怖い。
認めた。
怖い。
死ぬかもしれない。ここで、誰にも知られずに——死ぬかもしれない。
◆
震える手を、握りしめた。
——だめだ。
——このままでは、だめだ。
訓練を、思い出す。
シュナイダーさんの言葉を。騎士たちの教えを。
恐怖は——消せない。
消そうとしても、消えない。
それは、生き物として——正常な反応だ。
だから——変換する。
恐怖を、行動に。
震える手を、何かをする手に。
竦む足を、一歩を踏み出す足に。
立ち上がった。
足が震えている。でも、立てる。
歩ける。動ける。
——何ができる。
考えろ。
今、僕に——何ができる。
◆
まず、周囲を確認する。
目が——少しずつ、闇に慣れてきた。
完全な暗闇ではない。どこかから、かすかな——本当にかすかな光が、漏れている。
上の穴からだろうか。それとも——
手探りで、壁を確認する。
岩。石。苔。
通路のような形状——かもしれない。
少なくとも、広い空間ではない。
壁と壁の間は——三メートルほど。通路だ。
足元を確認する。
石の床。濡れている。水が——薄く流れている。
流れの方向——水音がする方へ、向かっている。
二つの選択肢。
水音の方へ——進む。
水音と反対方向へ——進む。
どちらが正解かは——わからない。
でも、水がある方には——何かがある可能性が高い。
生き物も。出口も。あるいは——危険も。
◆
僕は、水音の方へ——歩き始めた。
壁に手を当てながら。
足元を確かめながら。
一歩ずつ。ゆっくりと。
暗い。
何も見えない。
でも——前には進める。
——高嶺さん。
その顔が、浮かんだ。
あの笑顔。病室に見舞いに来てくれた時の。
ペンダントを——握りしめていた手。
「約束だよ」と言った、あの声。
——まだ、返してもらってない。
ミレイユの顔が、浮かんだ。
料理を持ってきてくれた時の。
嬉しそうに笑っていた顔。
「今度は私に教えてね」と言った、あの声。
——まだ、教えてない。
相沢さん。シュナイダーさん。
みんなの顔が——浮かんでは、消えていく。
——死ねない。
——ここで、死ぬわけには——いかない。
◆
どれくらい歩いただろう。
時間の感覚が、ない。
暗闇の中では——何もかもが、曖昧になる。
水音が、少しずつ——大きくなっている気がする。
近づいている。何かに。
足元の水が、深くなった。
くるぶしまで——水に浸かっている。
冷たい。でも、歩ける。
壁の感触が——変わった。
岩肌ではない。滑らかな——加工された石。
人の手が入った痕跡。
——昔何者かが作った、ダンジョンだ。
確信が、強まった。
ここは——ダンジョンの一部だ。
誰かが、作った場所。
入口があるなら——出口も、あるはずだ。
◆
その時——見えた。
前方。
暗闇の奥に——小さな光。
目の錯覚かと思った。
でも、違う。確かに、光っている。
青白い、淡い光。
何かが——光っている。
足が、止まった。
心臓が、跳ねた。
何だ。
何があるんだ。
魔物か。罠か。それとも——
でも——光がある。
この暗闇で、光は——希望だ。
僕は、一歩——前に踏み出した。
光に向かって。
暗闇の奥に見える、小さな光に向かって。
——生きて、帰る。
その決意だけを、胸に抱いて。
僕は——歩き続けた。




