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暗闇の底で

 ——冷たい。


 それが、最初に感じたことだった。


 体の下に、硬いものがある。石だ。湿った、冷たい石。

 背中が痛い。腰が痛い。肩が——特に、肩が。


 意識が、少しずつ——戻ってくる。


 目を開けた。

 でも——何も、見えない。


 暗い。

 真っ暗だ。

 目を開けているのか、閉じているのか——わからないほどの、闇。







 僕は——どこにいる。


 頭がぼんやりする。記憶が、断片的に戻ってくる。

 

 英雄聖堂。ヴェリナの襲撃。鏡を使って——魔法を逸らした。

 そこまでは——覚えている。


 その後——


 衝撃。腹部への衝撃。誰かに——蹴られた。

 落下。闇の中へ——落ちていく感覚。


 そして——


 「これで——邪魔者が、消える」


 あの声が——頭の中で、反響した。







 体を、動かそうとした。


 痛い。

 全身が、痛い。

 でも——動く。腕も、足も。首も。

 骨が折れている感覚は——ない。


 ゆっくりと、上半身を起こした。

 頭がぐらりと揺れる。眩暈。吐き気。

 でも——意識は、保てる。


 手で、体を確認する。

 肩——以前の傷が、また開いている。血の湿り気。痛み。

 背中——打撲だろう。鈍い痛みが広がっている。

 腹部——蹴られた場所。押すと、鋭く痛む。

 脚——大丈夫だ。立てそうだ。


 ——生きてる。


 その事実が、ゆっくりと——実感に変わっていく。

 あの高さから落ちて、何故ーー

 穴に落ちる前、夢で聞いた優し気な声、包み込まれつような感覚が体に残っている気がした。







 立ち上がろうとした。

 足が滑る。濡れた石。水が——流れている?

 膝をついて、体勢を整える。


 息を吐く。吸う。吐く。

 呼吸を意識する。パニックを、抑え込む。


 ——落ち着け。


 ——まず、状況を把握しろ。


 周囲を見回した。

 意味がなかった。何も、見えない。


 上を見上げた。

 かすかに——本当にかすかに——光の点が、見えた。

 豆粒のような。いや、砂粒のような。

 聖堂の穴——だろうか。


 どれだけの距離があるのか——見当もつかない。

 でも、あの小ささは——


 ——かなり、深い。


 声を出してみた。


「おーい! 誰か——!」


 声が、闇に吸い込まれていく。

 反響する。石の壁に当たって、跳ね返ってくる。

 でも——上からの返事は、ない。


 もう一度。


「誰か! ここだ! ここにいる——!」


 喉が痛い。声が掠れる。

 でも——返事は、ない。


 届いていない。

 この深さでは——声は、上まで届かない。







 僕は、その場に——座り込んだ。


 暗い。

 何も見えない。

 上の光は、届かないほど——遠い。


 ——登れない。


 壁を手で触った。

 湿った岩肌。苔のようなものが——ぬめっている。

 足場になりそうな凹凸は——ない。

 仮にあったとしても、この暗闇では——見えない。


 ——助けは、来るのか。


 高嶺さんたちは、僕が落ちたことを——知っているはずだ。

 穴の縁で、鏡を使っていたのだから。

 騎士団も、気づいているはずだ。


 でも——


 この深さ。

 この暗さ。

 降りてくる手段が、あるのか。

 探しに来てくれる余裕が、あるのか。


 ヴェリナの襲撃の直後だ。

 負傷者もいる。混乱もしている。

 僕一人のために——人員を割けるのか。


 ——わからない。


 ——でも、待っているだけでは——







 遠くで、音がした。


 水の音。

 さっきから聞こえていた。気のせいかと思っていた。

 でも——確かに、聞こえる。


 流れている。どこかで、水が流れている。


 ——水があるということは。


 生き物がいる可能性がある。

 通路がある可能性がある。

 ここが——どこかに繋がっている可能性がある。


 思考が、回り始めた。


 聖堂の地下。

 あの穴は——元々あったものではない。ヴェリナの魔法で、床が崩れて——

 いや。穴の形状、崩れ方。もしかしたら——


 ——ダンジョン。


 その可能性が、頭を過ぎった。


 訓練ダンジョンがあったように、この世界には——地下に広がる迷宮がある。

 聖堂の地下に——別のダンジョンが、存在していたとしたら。


 僕が落ちた場所は——ダンジョンの深層なのかもしれない。







 恐怖が、じわりと——胸に広がった。


 ダンジョンの深層。

 訓練用ではない。本物の。

 魔物がいる。罠がある。出口があるかどうかも——わからない。


 暗闘の圧が、体を押しつぶそうとしている。

 空気が、重い。冷たい。石の匂い。カビの匂い。

 そして——孤独。

 誰もいない。何も見えない。助けも——来ない。


 手が、震え始めた。

 呼吸が、浅くなる。

 心臓が、早鐘を打っている。


 ——怖い。


 認めた。

 怖い。

 死ぬかもしれない。ここで、誰にも知られずに——死ぬかもしれない。







 震える手を、握りしめた。


 ——だめだ。


 ——このままでは、だめだ。


 訓練を、思い出す。

 シュナイダーさんの言葉を。騎士たちの教えを。


 恐怖は——消せない。

 消そうとしても、消えない。

 それは、生き物として——正常な反応だ。


 だから——変換する。

 恐怖を、行動に。

 震える手を、何かをする手に。

 竦む足を、一歩を踏み出す足に。


 立ち上がった。

 足が震えている。でも、立てる。

 歩ける。動ける。


 ——何ができる。


 考えろ。

 今、僕に——何ができる。







 まず、周囲を確認する。


 目が——少しずつ、闇に慣れてきた。

 完全な暗闇ではない。どこかから、かすかな——本当にかすかな光が、漏れている。

 上の穴からだろうか。それとも——


 手探りで、壁を確認する。

 岩。石。苔。

 通路のような形状——かもしれない。

 少なくとも、広い空間ではない。

 壁と壁の間は——三メートルほど。通路だ。


 足元を確認する。

 石の床。濡れている。水が——薄く流れている。

 流れの方向——水音がする方へ、向かっている。


 二つの選択肢。

 水音の方へ——進む。

 水音と反対方向へ——進む。


 どちらが正解かは——わからない。

 でも、水がある方には——何かがある可能性が高い。

 生き物も。出口も。あるいは——危険も。







 僕は、水音の方へ——歩き始めた。


 壁に手を当てながら。

 足元を確かめながら。

 一歩ずつ。ゆっくりと。


 暗い。

 何も見えない。

 でも——前には進める。


 ——高嶺さん。


 その顔が、浮かんだ。


 あの笑顔。病室に見舞いに来てくれた時の。

 ペンダントを——握りしめていた手。

 「約束だよ」と言った、あの声。


 ——まだ、返してもらってない。


 ミレイユの顔が、浮かんだ。


 料理を持ってきてくれた時の。

 嬉しそうに笑っていた顔。

 「今度は私に教えてね」と言った、あの声。


 ——まだ、教えてない。


 相沢さん。シュナイダーさん。

 みんなの顔が——浮かんでは、消えていく。


 ——死ねない。


 ——ここで、死ぬわけには——いかない。







 どれくらい歩いただろう。


 時間の感覚が、ない。

 暗闇の中では——何もかもが、曖昧になる。


 水音が、少しずつ——大きくなっている気がする。

 近づいている。何かに。


 足元の水が、深くなった。

 くるぶしまで——水に浸かっている。

 冷たい。でも、歩ける。


 壁の感触が——変わった。

 岩肌ではない。滑らかな——加工された石。

 人の手が入った痕跡。


 ——昔何者かが作った、ダンジョンだ。


 確信が、強まった。

 ここは——ダンジョンの一部だ。

 誰かが、作った場所。

 入口があるなら——出口も、あるはずだ。







 その時——見えた。


 前方。

 暗闇の奥に——小さな光。


 目の錯覚かと思った。

 でも、違う。確かに、光っている。

 青白い、淡い光。

 何かが——光っている。


 足が、止まった。

 心臓が、跳ねた。


 何だ。

 何があるんだ。

 魔物か。罠か。それとも——


 でも——光がある。

 この暗闇で、光は——希望だ。

 

 僕は、一歩——前に踏み出した。


 光に向かって。

 暗闇の奥に見える、小さな光に向かって。


 ——生きて、帰る。


 その決意だけを、胸に抱いて。


 僕は——歩き続けた。


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