煙の中の悪意
白い煙が、視界を覆っていた。
何も見えない。
耳鳴りがする。頭の芯が、ぐらぐらと揺れている。
体が——動かない。
僕は、床に倒れていた。
冷たい石の感触。背中に当たる瓦礫の角。肩の傷が、また開いたのか——熱い痛みが、走っている。
でも、それより——体全体が、痺れている。
衝撃の余波だ。鏡を掲げた瞬間、光の奔流が——
——鏡。
そうだ。鏡を使った。
誰かの声に導かれて。
あの光を——逸らした。
みんなは——
首を動かそうとした。でも、重い。視界が、霞んでいる。
煙の向こうに、何か——影が見える。人の形。動いている。
——生きている。
誰かが、生きている。
それだけで、少しだけ——安心した。
◆
意識が、途切れそうになる。
瞼が重い。体が冷たい。このまま眠ってしまいそうだ。
でも——眠ってはいけない気がする。
ここは、危険な場所だ。まだ、戦闘が終わったばかりで——
遠くで、声が聞こえた。
「——撤退した! 魔族が撤退したぞ!」
「負傷者の確認を! 早く!」
「増援だ! 騎士団の増援が来た!」
騎士たちの声。怒号。指示を出す声。
助かったのか。みんな、助かったのか。
体の力が、抜けていく。
安堵が、全身に広がっていく。
——よかった。
高嶺さんも、クラスメイトたちも。
みんな、無事なら——それで、いい。
意識が、薄れていく。
煙の匂いが、鼻の奥に染みついている。石の焦げた匂い。魔力の残滓。
視界が、白く——
◆
足音が、聞こえた。
近づいてくる。誰かが、こちらに——
助けが来たのか。
騎士か、クラスメイトか。
声を出そうとした。でも、喉が動かない。息を吸うだけで、精一杯だ。
足音が、止まった。
すぐ近くに、誰かがいる。
煙の向こうに、人影が——立っている。
誰だ。
目を開けようとする。瞼が重い。視界が、ぼやけている。
でも——その影の輪郭が、少しだけ見えた。
制服。
見覚えのある、制服。
クラスメイト——?
◆
榊太一は、煙の中に立っていた。
目の前に——黒瀬ユウが、倒れている。
穴の縁。崩れた床の、すぐ際に。
動いていない。目を閉じている。気を失っているのか——それとも。
榊は、周囲を見回した。
煙が、あたりを覆っている。視界は、数メートルも効かない。
騎士たちの声は、遠い。負傷者の救護に追われている。
クラスメイトたちは——もっと向こうだ。高嶺も、神崎も。みんな、反対側にいる。
誰も、見ていない。
誰も、ここにいることを知らない。
榊の心臓が、早鐘を打っていた。
◆
また——こいつだ。
榊は、倒れている黒瀬を見下ろした。
また、こいつが活躍した。
病院にいたはずなのに。傷が治っていないはずなのに。
なのに——こいつは、ここに来た。
あの鏡。あの光。
魔族の魔法を逸らしたのは、黒瀬だった。
神崎でも、風間でも、坂下でもない。
《記録》なんていうハズレスキルの——こいつが。
胸の奥で、何かが——煮えたぎっていた。
——なんで。
なんで、こいつばかり。
なんで、こいつがいつも——
◆
訓練ダンジョンでも、そうだった。
あの女魔族——ヴェリナとの戦い。
みんなが動けない中、弱点を見つけたのは黒瀬だった。
騎士団長に情報を伝えて——撤退を成功させた。
その後、高嶺は——黒瀬のことばかり心配していた。
病院に通っていたのを、知っている。
毎日のように見舞いに行っていたのを。
あの料理女——ミレイユとかいう奴も、黒瀬の病室に入っていくのを見た。
高嶺は、俺には——あんな顔をしない。
心配そうな顔。柔らかい笑顔。声のトーン。
全部、違う。
俺と話す時とは、全然——違う。
——黒瀬のせいだ。
こいつがいるから。
こいつが、いつも——邪魔をする。
◆
榊は、黒瀬の顔を見下ろした。
目を閉じている。息はある——かすかに、胸が上下している。
意識は、ないようだ。
こちらに、気づいていない。
そして——黒瀬の体は、穴の縁にある。
魔法が地面に直撃して、開いた穴ーー魔法だけじゃない、もともと地下に大きな空洞があったのか…。
深い。どこまで続いているか、わからない。
煙が、その奥から立ち上っている。
榊の視線が、穴と黒瀬の間を——往復した。
心臓が、さらに速く打つ。
手のひらに、汗が滲む。
頭の中で、何かが——囁いている。
——今なら。
誰も、見ていない。
誰も、気づかない。
煙で視界が悪い。騎士たちは、向こうで救護に追われている。
クラスメイトたちも——高嶺も——反対側だ。
今なら——
◆
頭の中で、声が響いた。
——殺すんじゃない。
——ただ、ちょっと——押すだけだ。
——事故だ。混乱の中の、事故。
——誰も、見ていない。
——誰にも、わからない。
榊の足が、一歩——前に出た。
◆
高嶺の顔が、浮かんだ。
笑っている高嶺。
でも——その視線は、俺を見ていない。
いつも、どこか別の方向を——黒瀬の方を、見ている。
教室で。廊下で。食堂で。
高嶺は、黒瀬を気にしていた。
目立たない奴。空気みたいな奴。
なのに——高嶺だけは、いつも——
俺は、上位グループにいる。神崎とだって並んべるはずなんだ。
スキルだって——《隠密》。悪くない。使い方次第では、便利なスキルだ。
なのに——高嶺は、俺を見ない。
——こいつがいるから。
——こいつさえいなければ——
榊の足が、もう一歩——前に出た。
◆
黒瀬の体は、穴の縁——ぎりぎりのところにあった。
押せば、落ちる。
蹴れば、落ちる。
それだけで——こいつは、消える。
榊の呼吸が、荒くなっていた。
——やるのか。
——本当に、やるのか。
手が、震えている。
足が、震えている。
でも——止まれない。
頭の中が、真っ白になっていく。
善悪の区別が、曖昧になっていく。
今ここで、何をしようとしているのか——わからなくなっていく。
——事故だ。
——混乱の中の、事故。
——俺は、何もしていない。
——こいつが、勝手に——落ちたんだ。
榊の足が——振り上げられた。
◆
僕は——夢を見ていた。
白い光の中。
誰かの声が、聞こえた気がした。
女性の声。さっき僕に鏡の事を教えてくれた、助けてくれた声。
『——はじまるよ、どうか気をつけて…』
しかし先ほどとは違い、聖母のような温かい声。
全てを包みこむような、聞いているだけで癒されるような…
その声が、遠くで——
そして——
衝撃が、走った。
腹部に。
何かが——蹴り込まれた。
体が、浮いた。
視界が、回転する。
煙。天井。崩れた瓦礫。そして——穴の縁が、遠ざかっていく。
落ちている。
僕は——落ちている。
◆
「これで——邪魔者が、消える」
榊の声が——遠くで、聞こえた。
震えた声。
怯えた声。
でも——その中に、確かな悪意が、込められていた。
僕は——理解した。
蹴られた。
誰かに——蹴り落とされた。
クラスメイトに。
同じ教室で、同じ時間を過ごした——誰かに。
視界が、暗くなっていく。
穴の縁が、どんどん——遠くなっていく。
上から見下ろす影が——小さくなっていく。
——なんで。
その疑問が、頭を過ぎった。
——なんで、こんなことを。
でも——答えは、返ってこない。
声も、出ない。
体が、落ちていく。
暗闘の中へ——沈んでいく。
◆
風が、体を包んでいた。
落下の風。
冷たい。速い。
どこまで落ちるのか——わからない。
意識が、途切れそうになる。
視界が、狭くなっていく。
暗い。何も見えない。上の光が——どんどん、小さくなっていく。
——死ぬのか。
その思考が、頭を過ぎった。
——ここで、終わるのか。
高嶺さんの顔が、浮かんだ。
ミレイユの笑顔が、浮かんだ。
相沢さん。シュナイダーさん。
みんなの顔が——走馬灯のように。
——まだ、何も——
——何も、できていないのに——
意識が、遠のいていく。
体が、闇の中に——沈んでいく。
最後に見えたのは——上の、小さな光だった。
聖堂の穴から漏れる、白い光。
それが——どんどん、小さくなって。
やがて——点になって。
消えた。
◆
榊太一は、穴の縁に立っていた。
黒瀬が——落ちていった。
闇の中に。
どこまでも深い、闘の奥に。
足が、震えていた。
手が、震えていた。
全身が——震えていた。
——やった。
——やってしまった。
心臓が、破裂しそうなほど——打っている。
息が、荒い。視界が、ぐらぐらする。
でも——誰も、見ていない。
煙は、まだ——あたりを覆っている。
騎士たちの声は、遠い。
クラスメイトたちは——まだ、反対側だ。
——大丈夫だ。
——誰も、見ていない。
——誰にも、わからない。
榊は、一歩——後ずさった。
穴から、離れる。
そして——煙の中へ、姿を消した。
◆
数分後。
煙が、少しずつ——晴れてきた。
「黒瀬くん! 黒瀬くんっ!」
高嶺澪の声が、聖堂に響いた。
彼女は、あたりを見回していた。
さっきまで、黒瀬がいたはずの場所。
でも——そこには、誰もいない。
「黒瀬くん、どこ……!?」
瓦礫の山。崩れた祭壇。砕けたステンドグラス。
そして——床に開いた、大きな穴。
高嶺は、穴の縁に——駆け寄った。
「まさか——」
覗き込む。
でも——何も見えない。
深い。暗い。底が、見えない。
「黒瀬くん……!」
声が、震えていた。
目に、涙が滲んでいた。
でも——返事は、ない。
闇の底から——何の音も、聞こえない。
ただ——沈黙だけが、そこにあった。
◆
榊太一は、クラスメイトたちの輪の中にいた。
何食わぬ顔で。
他の皆と同じように——混乱した表情で。
「黒瀬が、いない——?」
神崎が、眉を顰めた。
「さっき、ここにいたはずだろう。鏡を——」
「煙で、見えなかったんだ」
榊は、言った。
「混乱してて——気づいたら、いなくなってた」
嘘が、自然と——口から出てきた。
震えそうになる声を、必死に——押さえつけた。
「穴に——落ちたのか……?」
風間が、顔を青くした。
「なんだこの穴、元々地下があったのか?—かなり深いぞ。あれに落ちたら——」
言葉が、途切れた。
誰も——その先を、言えなかった。
高嶺が、穴の縁で——膝をついていた。
肩が、震えている。
声を殺して——泣いているのか。
榊は、その背中を——見ていた。
胸の奥で、何かが——軋んでいた。
罪悪感か。恐怖か。それとも——
——これで、よかったんだ。
——こいつがいなくなれば——高嶺は——
悪意に満ちた思考が彼の心を黒く染めたーー
◆
聖堂の地下。
深い、深い——闇の底。
黒瀬ユウは、落ちていた。
意識もなく。声もなく。
ただ——闘の中へ、沈んでいった。
上の光は、もう——見えない。
音も、聞こえない。
冷たい空気だけが、体を包んでいる。
そして——
どこか遠くで、水の音がした。




