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胸騒ぎ

 入院三日目の午後。

 窓の外を、ぼんやりと眺めていた。

 青い空。白い雲。穏やかな風。この世界に来てから、こんなふうに何もしない時間は——初めてかもしれない。

 肩の傷は、だいぶ良くなっていた。もう包帯を外していい、と医師に言われている。明日か明後日には、退院できるだろう。


 病室は、静かだった。

 高嶺さんは、今日は来ていない。たぶん、訓練があるのだろう。英雄聖堂への遠征は——今日だったはずだ。

 ——みんな、大丈夫かな。

 少しだけ、不安がよぎる。でも、騎士団の人たちがついている。あの人たちがいれば、きっと——大丈夫だ。

 そう思いながら、目を閉じた。少しだけ、眠ろうと思った。







 ——胸騒ぎが、した。

 突然だった。理由もない。でも、胸の奥で何かが——ざわついた。

 目が、開く。心臓の鼓動が、速くなっている。

 ——何だ、これは。

 体が、勝手に警告を発している。訓練ダンジョンで感じたのと、似ている。ヴェリナが現れる直前の——あの感覚。


 ベッドから起き上がる。窓の外を見た。

 胸騒ぎが、止まらない。


 しばらくして——遠くで、音がした。

 鈍い、爆発音。地鳴りのような、低い音。遠い。とても遠いけど——確かに聞こえた。

 窓を開ける。外の空気が、流れ込んできた。

 そして——気づいた。

 街が、騒がしい。人々の声。走る足音。普段より——明らかに、ざわついている。

 何かが、起きている。


 心臓の鼓動が、さらに速くなった。高嶺さんたちは——今、どこにいる。

 英雄聖堂。教会区画にある、あの聖堂。

 ——今日、行くはずだった。


 その瞬間、空の色が変わった。

 遠くの空が、紫に染まった。禍々しい、紫色の光。

 魔力だ。あの光は、魔力だ。訓練ダンジョンで、ヴェリナが放っていたのと同じ——

 心臓が、一気に跳ね上がった。


 光が見える方向。教会区画。あれは——英雄聖堂の、方角だ。


「……まさか」

 声が、震えた。

 嫌な予感が、頭を駆け巡る。あの光。あの魔力。あれは——普通じゃない。

 高嶺さんたちが、今——あそこにいる。英雄聖堂に。あの光の、近くに。

 ——危ない。

 その確信が、胸を突き刺した。







 ベッドから飛び降りた。

 肩に、鈍い痛みが走る。でも、それどころじゃない。

 私服を掴んで、着替える。手が震えて、ボタンが上手く嵌らない。焦る。急げ。早く——


 廊下に出ると、周りが騒がしかった。

 看護師たちが走り回っている。医師たちの怒鳴り声。指示を出す声。窓の外を見て、顔を曇らせる人々。


「教会区画で、何かが……!」

「魔族の襲撃か!?」

「騎士団は出動してるのか!」


 ざわめきが、廊下に満ちている。僕は、その声を聞きながら——病院の出口へ向かって走り出した。


「おい、君! 患者は出歩いては——」

 医師の声が、背後から飛んできた。無視した。立ち止まっている暇は、ない。







 病院の外に出た瞬間——空気が変わった。

 魔力の圧。重い。息苦しい。空気そのものが、歪んでいる。


 街は、混乱していた。

 人々が、走っている。逃げている。避難している。店の扉が閉められ、窓に板が打ち付けられている。


「逃げろ! 早く!」

「魔族が聖堂を——!」

「騎士団はどこだ!」


 怒号。悲鳴。混乱。人の波が、あちこちに流れている。

 僕は、その流れに逆らって——聖堂の方へ、走った。







 傷が、痛む。

 肩だけじゃない。走るたびに、全身がきしむ。まだ完治していない体に、無理をさせている。

 でも、止まれない。

 高嶺さんが、いる。クラスメイトたちが、いる。あの光の下に——みんなが、いる。

 ——何かが、起きている。

 その確信だけが、僕を前に進ませていた。


 石畳の道を走る。人々が、横を駆け抜けていく。避難する人々の流れが、僕の進行を阻む。


「逃げろ、そっちは危ない!」

「何考えてるんだ、聖堂の方に向かうな!」


 声が、飛んでくる。でも、止まらない。体が、自然と——聖堂の方向へ、足を運んでいた。







 息が、上がってきた。

 肺が焼けるように痛い。汗が額を伝って、目に入る。視界が、滲む。

 でも、走る。


 聖堂が——見えてきた。遠くに、石造りの巨大な建物。その上空に——紫色の光が、脈動している。

 魔力の塊だ。あれは——大技の、準備段階。

 ヴェリナの、魔法。あの時と、同じ。


「くそ……!」

 足が、もつれた。石に躓いて、膝をつく。手のひらが、擦り剥ける。

 でも、すぐに立ち上がった。

 痛みなんて、後回しだ。今は——走らなきゃいけない。間に合わせなきゃ、いけない。


 ——何を、するつもりなんだ。

 自分でも、わからない。僕に何ができるのか、わからない。でも——行かなきゃいけない気がする。

 みんなが、危ない。だから——







 広場に、出た。

 聖堂の正面。そこに——戦闘の痕跡があった。


 地面が、抉れている。壁が、崩れている。焦げた跡。血の跡。破壊された石畳。

 騎士たちが、倒れている。動かない者もいる。苦しそうに呻く者もいる。

 聖堂の扉が、半分壊れていた。


 中から——魔力の波動が、溢れている。紫色の光が、扉の隙間から漏れてくる。

 ——戦っている。

 中で、まだ戦いが続いている。


 僕は、足を前に出した。震える足で、聖堂の入口に——近づいた。

 恐怖が、体を縛りつける。でも——止まれない。


 扉の隙間から、中を覗いた。

 広い空間。ステンドグラスが砕けている。祭壇が、崩れている。そして——

 ヴェリナが、いた。


 黒い翼を広げて、宙に浮いている。その周囲に——紫色の光球が、無数に浮かんでいる。

 クラスメイトたちが、地面に倒れている。騎士たちも、動けないでいる。誰も——立っていない。

 そして——ヴェリナの目の前に。

 高嶺さんが、いた。


 膝をついて、動けないでいる。顔が、恐怖に歪んでいる。


「……高嶺さん」

 声が、喉から漏れた。


 ヴェリナが、何か言っている。聞こえない。距離が遠すぎる。でも——その表情は、愉悦に満ちていた。

 光球が、集まっていく。一つの大きな塊に、凝縮されていく。魔力の密度が——異常だ。

 ——撃つ気だ。

 あれを放つつもりだ。高嶺さんたちに。全員に。


 僕は——考えるより先に、動いていた。







 扉を、蹴り開けた。

 痛みも、恐怖も、後回しだ。今は——


「高嶺さんっ!!」

 叫んだ。

 声が、聖堂に響く。


 ヴェリナの視線が、僕に向いた。深紅の瞳が、僕を捉える。口元が、歪んだ。


「小僧か。よく来たな」


 その声に、余裕があった。僕が来たことを——むしろ、喜んでいる。


 高嶺さんが、顔を上げた。目が、見開かれている。


「黒瀬、くん……?」

 信じられない、という表情。

「なんで……病院、じゃ……」

 その声が、震えていた。


 僕は——自分でも信じられなかった。

 なんでここにいるんだ。なんで、走ってきたんだ。何ができるわけでもないのに——

 でも。

 ——放っておけなかった。

 それだけが、真実だった。


 ヴェリナが、笑った。

「お前の所に行く手間が省けた——一緒に、消してやる」


 光球が、完成しようとしていた。巨大な魔力の塊が、脈動している。

 聖堂の空気が、震えている。魔力の圧で、息ができない。

 ——終わりだ。


 そう思った瞬間——

 頭の中で、何かが——響いた。


 『——そこにある鏡を使え』

 女性の声。聞いたことのない、凛々しく騎士のような、そんな声。


 鏡?

 僕は、反射的に——周囲を見渡した。

 祭壇の横。壊れた展示台の上に——それは、あった。


 大きな鏡。祭壇等で見かける神鏡に似ている。無傷のまま、そこにある。

 なぜ、それが目に入ったのか——わからない。


 僕は、躊躇わなかった。

 鏡に向かって、走った。ヴェリナの魔法が、完成する前に——

 手を伸ばす。鏡を、掴んだ。


 その瞬間——鏡が、淡く光った。


 ヴェリナが、何かに気づいた表情を見せた。

「——それは」

 でも、もう遅い。


 ヴェリナの魔法が、放たれた。

 紫色の光の奔流が、クラスメイトたちに向かって——迫る。

 僕は、鏡を——光の前に、掲げた。







 世界が、光に包まれた。

 轟音。衝撃。全てが、一瞬で吹き飛ばされる。


 鏡が——魔法を逸らした。

 光の奔流が、クラスメイトたちから——逸れていく。地面に、直撃する。


 聖堂の床が、砕けた。

 巨大な穴が、開く。石が、崩れ落ちる。地面が、陥没していく。


 衝撃波が、僕を吹き飛ばした。

 体が、宙を舞う。視界が、回転する。背中が、床に叩きつけられた。

 肺から、空気が抜ける。息ができない。


 耳が、キンキンと鳴っている。視界が、霞んでいる。

 煙が、聖堂を満たしていく。穴から、白い煙が立ち上っている。視界が——悪い。


 ヴェリナの声が、遠くで聞こえた。


「魔力が尽きた、増援もお出ましか…」

 苦々しい声。

 そして騎士団の増援の声が聞こえる


 翼の音。遠ざかっていく気配。

 ——逃げた。

 ヴェリナが、撤退したのか。


 僕は、朦朧とした意識のまま——周囲を見ようとした。

 でも、煙で——何も見えない。

 体が、動かない。衝撃の余波で、全身が痺れている。

 意識が——遠のいていく。


 ——みんなは、無事か。

 その思いを残したまま、僕の意識は——闇に沈んだ。


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