胸騒ぎ
入院三日目の午後。
窓の外を、ぼんやりと眺めていた。
青い空。白い雲。穏やかな風。この世界に来てから、こんなふうに何もしない時間は——初めてかもしれない。
肩の傷は、だいぶ良くなっていた。もう包帯を外していい、と医師に言われている。明日か明後日には、退院できるだろう。
病室は、静かだった。
高嶺さんは、今日は来ていない。たぶん、訓練があるのだろう。英雄聖堂への遠征は——今日だったはずだ。
——みんな、大丈夫かな。
少しだけ、不安がよぎる。でも、騎士団の人たちがついている。あの人たちがいれば、きっと——大丈夫だ。
そう思いながら、目を閉じた。少しだけ、眠ろうと思った。
◆
——胸騒ぎが、した。
突然だった。理由もない。でも、胸の奥で何かが——ざわついた。
目が、開く。心臓の鼓動が、速くなっている。
——何だ、これは。
体が、勝手に警告を発している。訓練ダンジョンで感じたのと、似ている。ヴェリナが現れる直前の——あの感覚。
ベッドから起き上がる。窓の外を見た。
胸騒ぎが、止まらない。
しばらくして——遠くで、音がした。
鈍い、爆発音。地鳴りのような、低い音。遠い。とても遠いけど——確かに聞こえた。
窓を開ける。外の空気が、流れ込んできた。
そして——気づいた。
街が、騒がしい。人々の声。走る足音。普段より——明らかに、ざわついている。
何かが、起きている。
心臓の鼓動が、さらに速くなった。高嶺さんたちは——今、どこにいる。
英雄聖堂。教会区画にある、あの聖堂。
——今日、行くはずだった。
その瞬間、空の色が変わった。
遠くの空が、紫に染まった。禍々しい、紫色の光。
魔力だ。あの光は、魔力だ。訓練ダンジョンで、ヴェリナが放っていたのと同じ——
心臓が、一気に跳ね上がった。
光が見える方向。教会区画。あれは——英雄聖堂の、方角だ。
「……まさか」
声が、震えた。
嫌な予感が、頭を駆け巡る。あの光。あの魔力。あれは——普通じゃない。
高嶺さんたちが、今——あそこにいる。英雄聖堂に。あの光の、近くに。
——危ない。
その確信が、胸を突き刺した。
◆
ベッドから飛び降りた。
肩に、鈍い痛みが走る。でも、それどころじゃない。
私服を掴んで、着替える。手が震えて、ボタンが上手く嵌らない。焦る。急げ。早く——
廊下に出ると、周りが騒がしかった。
看護師たちが走り回っている。医師たちの怒鳴り声。指示を出す声。窓の外を見て、顔を曇らせる人々。
「教会区画で、何かが……!」
「魔族の襲撃か!?」
「騎士団は出動してるのか!」
ざわめきが、廊下に満ちている。僕は、その声を聞きながら——病院の出口へ向かって走り出した。
「おい、君! 患者は出歩いては——」
医師の声が、背後から飛んできた。無視した。立ち止まっている暇は、ない。
◆
病院の外に出た瞬間——空気が変わった。
魔力の圧。重い。息苦しい。空気そのものが、歪んでいる。
街は、混乱していた。
人々が、走っている。逃げている。避難している。店の扉が閉められ、窓に板が打ち付けられている。
「逃げろ! 早く!」
「魔族が聖堂を——!」
「騎士団はどこだ!」
怒号。悲鳴。混乱。人の波が、あちこちに流れている。
僕は、その流れに逆らって——聖堂の方へ、走った。
◆
傷が、痛む。
肩だけじゃない。走るたびに、全身がきしむ。まだ完治していない体に、無理をさせている。
でも、止まれない。
高嶺さんが、いる。クラスメイトたちが、いる。あの光の下に——みんなが、いる。
——何かが、起きている。
その確信だけが、僕を前に進ませていた。
石畳の道を走る。人々が、横を駆け抜けていく。避難する人々の流れが、僕の進行を阻む。
「逃げろ、そっちは危ない!」
「何考えてるんだ、聖堂の方に向かうな!」
声が、飛んでくる。でも、止まらない。体が、自然と——聖堂の方向へ、足を運んでいた。
◆
息が、上がってきた。
肺が焼けるように痛い。汗が額を伝って、目に入る。視界が、滲む。
でも、走る。
聖堂が——見えてきた。遠くに、石造りの巨大な建物。その上空に——紫色の光が、脈動している。
魔力の塊だ。あれは——大技の、準備段階。
ヴェリナの、魔法。あの時と、同じ。
「くそ……!」
足が、もつれた。石に躓いて、膝をつく。手のひらが、擦り剥ける。
でも、すぐに立ち上がった。
痛みなんて、後回しだ。今は——走らなきゃいけない。間に合わせなきゃ、いけない。
——何を、するつもりなんだ。
自分でも、わからない。僕に何ができるのか、わからない。でも——行かなきゃいけない気がする。
みんなが、危ない。だから——
◆
広場に、出た。
聖堂の正面。そこに——戦闘の痕跡があった。
地面が、抉れている。壁が、崩れている。焦げた跡。血の跡。破壊された石畳。
騎士たちが、倒れている。動かない者もいる。苦しそうに呻く者もいる。
聖堂の扉が、半分壊れていた。
中から——魔力の波動が、溢れている。紫色の光が、扉の隙間から漏れてくる。
——戦っている。
中で、まだ戦いが続いている。
僕は、足を前に出した。震える足で、聖堂の入口に——近づいた。
恐怖が、体を縛りつける。でも——止まれない。
扉の隙間から、中を覗いた。
広い空間。ステンドグラスが砕けている。祭壇が、崩れている。そして——
ヴェリナが、いた。
黒い翼を広げて、宙に浮いている。その周囲に——紫色の光球が、無数に浮かんでいる。
クラスメイトたちが、地面に倒れている。騎士たちも、動けないでいる。誰も——立っていない。
そして——ヴェリナの目の前に。
高嶺さんが、いた。
膝をついて、動けないでいる。顔が、恐怖に歪んでいる。
「……高嶺さん」
声が、喉から漏れた。
ヴェリナが、何か言っている。聞こえない。距離が遠すぎる。でも——その表情は、愉悦に満ちていた。
光球が、集まっていく。一つの大きな塊に、凝縮されていく。魔力の密度が——異常だ。
——撃つ気だ。
あれを放つつもりだ。高嶺さんたちに。全員に。
僕は——考えるより先に、動いていた。
◆
扉を、蹴り開けた。
痛みも、恐怖も、後回しだ。今は——
「高嶺さんっ!!」
叫んだ。
声が、聖堂に響く。
ヴェリナの視線が、僕に向いた。深紅の瞳が、僕を捉える。口元が、歪んだ。
「小僧か。よく来たな」
その声に、余裕があった。僕が来たことを——むしろ、喜んでいる。
高嶺さんが、顔を上げた。目が、見開かれている。
「黒瀬、くん……?」
信じられない、という表情。
「なんで……病院、じゃ……」
その声が、震えていた。
僕は——自分でも信じられなかった。
なんでここにいるんだ。なんで、走ってきたんだ。何ができるわけでもないのに——
でも。
——放っておけなかった。
それだけが、真実だった。
ヴェリナが、笑った。
「お前の所に行く手間が省けた——一緒に、消してやる」
光球が、完成しようとしていた。巨大な魔力の塊が、脈動している。
聖堂の空気が、震えている。魔力の圧で、息ができない。
——終わりだ。
そう思った瞬間——
頭の中で、何かが——響いた。
『——そこにある鏡を使え』
女性の声。聞いたことのない、凛々しく騎士のような、そんな声。
鏡?
僕は、反射的に——周囲を見渡した。
祭壇の横。壊れた展示台の上に——それは、あった。
大きな鏡。祭壇等で見かける神鏡に似ている。無傷のまま、そこにある。
なぜ、それが目に入ったのか——わからない。
僕は、躊躇わなかった。
鏡に向かって、走った。ヴェリナの魔法が、完成する前に——
手を伸ばす。鏡を、掴んだ。
その瞬間——鏡が、淡く光った。
ヴェリナが、何かに気づいた表情を見せた。
「——それは」
でも、もう遅い。
ヴェリナの魔法が、放たれた。
紫色の光の奔流が、クラスメイトたちに向かって——迫る。
僕は、鏡を——光の前に、掲げた。
◆
世界が、光に包まれた。
轟音。衝撃。全てが、一瞬で吹き飛ばされる。
鏡が——魔法を逸らした。
光の奔流が、クラスメイトたちから——逸れていく。地面に、直撃する。
聖堂の床が、砕けた。
巨大な穴が、開く。石が、崩れ落ちる。地面が、陥没していく。
衝撃波が、僕を吹き飛ばした。
体が、宙を舞う。視界が、回転する。背中が、床に叩きつけられた。
肺から、空気が抜ける。息ができない。
耳が、キンキンと鳴っている。視界が、霞んでいる。
煙が、聖堂を満たしていく。穴から、白い煙が立ち上っている。視界が——悪い。
ヴェリナの声が、遠くで聞こえた。
「魔力が尽きた、増援もお出ましか…」
苦々しい声。
そして騎士団の増援の声が聞こえる
翼の音。遠ざかっていく気配。
——逃げた。
ヴェリナが、撤退したのか。
僕は、朦朧とした意識のまま——周囲を見ようとした。
でも、煙で——何も見えない。
体が、動かない。衝撃の余波で、全身が痺れている。
意識が——遠のいていく。
——みんなは、無事か。
その思いを残したまま、僕の意識は——闇に沈んだ。




