八篇目の魔女の塔 -6-
明らかに作者が疲れを感じてる
五度目の目覚めは、もはや機械的とも言って良かった。
目が覚めてすぐに、彼は足を下ろして、ただそこで『待っていた』。
ロッキングチェアの木の軋む音と、イーハイ=トーヴなるものの呼吸する音だけが、空間を支配している。
それがなければ、ここには何者もいないのではないかと思うほど、あまりにも静かで、耳鳴りすらこの静寂に耐えられないからしているのではないか、と思うほど、幻聴のように聞こえていた。
時計の音でなくて良かった、とイーハイはぼんやりと思う。
普段のときでさえ、例えば誰もいない、夜の暗い部屋のなかで寝ようとしたときに聞こえる時計の音ほどうっとおしくて、特段聞こうとも思わないのに耳に届いてくる音はない。
普通ならば、一定の間隔で聞こえてくる音を安心する音と考える場合が多いらしいのだが、時計はその音が時間の経過を表すとわかっているからか、そうもいかないのが煩わしいと思ってしまえるから、難儀だ。
だからといって、一定の間隔で聞こえてくるロッキングチェアの軋む音が心地よいかと言われると、少なくとも今の状況を鑑みてそう言えるほど、好意的には取れていなかった。
その音は、今やイーハイにとっては夜の時計の音と何らかわりはないのだ。
「──────私は、導くものではない。」
嗄れた老人の声が、ようやっと待ち人の耳に聞こえた。
待ち人たるイーハイはベッドに腰掛けたまま、耳を静かに傾ける。
「憧れ。目指すもの。輝くもの。夢。何でもよい。何でもよかったのだ。別に無かったのかと。当時の私にも無かったが。そうだ、なぜ、導かれたのか。それが分からない。私には分からない。分からない。分からなかった。」
そうしてまた、一定の音しか聞こえない静寂が訪れる。
イーハイは五分ほど、ベッドから動かないでいたが、やがて無言で立ち上がると、そのまま外へ出るべく扉に向かった。
◇◇◇◇◇
塔の窓から飛び出したイーハイは、精神を集中させると、その背から虹色の六枚羽を召喚した。
彼自身の精神力を糧として展開するそのこの灰の世界には鮮やかすぎる羽根は、展開と同時に宙に投げ出されて落下するしかないイーハイの身体を支え、空を駆ける力となって力強く広がる。
空中で体勢を立て直したイーハイは、改めて、同じく宙に留まる魔女の姿を見た。
相変わらず、彼女はけたけたと甲高い笑い声をあげている。
何が面白いのか、何が楽しいのか、それともその笑いと笑みには何の意味も意思もないのか。
片手を口元に当ててくすくすと笑い続ける魔女は、ただ眼下のイーハイを目深に被った三角帽の向こう側から見ながら、何をするでもなくそのまま笑い続けている。
徐ろに、魔女が笑いを止めないままに片手をゆるりと伸ばした。
ぱちん! という軽い音を立てて、指が鳴らされる。
イーハイが留まっている場所の遥か下の方から、光が溢れた。
イーハイがそちらに目を向けてみれば、そこには数えるのも嫌になるほどの数の魔法陣が展開されていた。
イーハイは剣を構え、魔法陣からの攻撃に備える───が、その魔法陣から展開されたのは、この世界に似つかわしくないほど色鮮やかな、無数の風船の群れだった。
次第にふわふわと彼の周囲を数え切れないほどの風船が舞う。
そのうちの一つが、イーハイの近くを通りがかる────イーハイは、なんとなく嫌な予感がして、その風船から距離を取った。
次の瞬間、イーハイのすぐ隣を通り過ぎようとしていた風船がけたたましい音を立てて弾ける。
その中から、あの林檎の中に入っていたものと同じ、緑色のドロドロとした液体が飛散した。
びちゃびちゃ、というよりびたびた、という擬音が正しいかと言うほどの粘度を持ったその飛散した液体は、他の風船に飛び散ると、風船の膜の一部を溶かして穴を空け、一つ、また一つと連鎖をするように破裂させていった。
イーハイは慌ててまだ割れていない風船の方へと飛行し、風船の間を掻い潜るようにして液体の散布の連鎖から逃げる。
風船に近づけば、またそこから連鎖が起こりかねないので、風船に近づかないで済む距離、風船同士の間の距離を瞬時に判断しながらの飛行になる。
切り抜けるために速度を上げた影響で身体を打つ追い風に対して煩わしさを隠さないままに、イーハイは飛ぶ。
だが、風船の合間を縫っていたのは、イーハイだけではなかった。
イーハイが一つの風船を通り過ぎた時、イーハイの視界の隅に、この世界でほとんど見ることのなかったもの───『光』を見た。
彼がそれをなんなのか確かめるために顔を向ける。
──────そこには、彼の体を飲み込まんばかりの大きさを持った、一つの火球があった。
「──────え、」
イーハイが声を漏らす。
彼の身体は、火球に飲み込まれたかと思うと、火球は轟音とともに爆発し、辺りの風船をその爆風で吹き散らした。
もうもうと立つ煙の中から、イーハイの身体が飛び出す。
彼の意識は朦朧としていたが、途中で彼は意識を取り戻すと、咄嗟に、目の前に浮いていた風船についている紐を空いている片手で掴んでいた。
─────掴んでしまった。
ぱぐしゃっ、という音が鳴った。
紐をつかむイーハイの手に、べとり…とした何かが絡みついた。いや、落ちてきた。
それは顔の一部や彼の袖口をも汚し、纏わりついた。
「……ぐッ……ぁあ……っ!!」
案の定、それは当然に、人体に優しいものではない。
やけどとも違う、まるで食い破るような、熱を持ったものがイーハイの手を襲い始めた。
溶けているのか、焼かれているのか、なんだかわからない感触。痛いのか、なんなのかすら、わからない。
擦過傷に消毒液を、という形容をするならばあまりに可愛らしすぎるほどの、むしろ、逃れられない火傷を負わされている方がまだましなのではないかと思う程の、形容しがたい、何か。
感じたことのないそれに、イーハイはパニックに陥りかけた。
その時、イーハイの手や顔に、水の波紋が現れた。揺れる水面の向こうで、たった今何らかの液体の浸食を受けている手に、治癒の力が働いている。
彼の受けている水の精霊の加護だ。
普段ならば彼が冒険者として名を上げるのにさらに一役買うほどの強力すぎる治癒を齎すその加護も、謎の液体の働きを完全に止めるまでに至らず、まるで喧嘩をするようにせめぎ合うばかり。
少なくとも、体を侵食するようなものの侵攻がかなり遅くなっただけでも、イーハイは冷静さを取り戻しつつあった。
イーハイは小さく呪文を唱えると、自分の手や身体に向かって水の魔法を展開する。
彼の『力ある言葉』に従って現れた水の一団は、彼に纏わりついていた謎の液体を勢いよく洗い流すと、そのまま虚空へと消えていった。
すぐさま、イーハイの顔や手に波紋が現れ、彼の爛れた肌を元通りにする力が働く。
彼は風船の紐を掴む手から完全に違和感が消えたのと、視覚的に見ても問題ないことを確認すると、もう一度、精神を集中して背中の羽根を展開する。
淡い虹色の光を取り戻した羽根が彼に飛翔の力を与え直した後、彼はゆっくりと掴んでいた風船を手放した。
彼から離れた風船は空に向かって浮かび上がっていく。
「───アハ、アハハ───アハ───アハ───」
浮かんでいく風船を観ながら、魔女が笑っている。
イーハイが落下したことにより、遠くなったはずの笑い声は、まるで何かの拡声器に徹したかのようにずっと、絶え間なく響いている。
………分からない。
分からなかった。
イーハイが風船に掴まっている間、謎の液体が彼の手に纏わりついている間、魔女は、何もしていなかった。
それどころではなかったイーハイにはある意味で聞こえていなかったのだが、その後ろでは実際に、魔女はあの甲高い笑い声をずっと、絶え間なく上げていたのだ。
いたずらの成功者の笑いなのか、それとも企みの上手く行った悪女の笑いであるのか、……または、そういった、加虐趣味的な何かを抱えたものなのか。
………なぜかイーハイには、そのどれもが合っていない気がした。
そんな笑いには聞こえていなかった。
理由は分からない。
だが、そう思うには、何故か、その笑い声が、あまりにも無邪気なものに聞こえるのだ。
壊れた蓄音機の無駄な繰り返し機能のように、彼女の口から漏れる笑いには、形容のしがたい無邪気さがずっとあった。
あんなにも、意味なく笑い続けていて、理由など飽和しそうなほどなのに。
遠くに見える、まるであどけない少女のような笑みが、イーハイの一時的な眉間の皺の原因になった。
無数の風船を背景に、箒の柄に腰掛けて、微笑んでいる魔女。
まるでそういう祭りや催し物の一角の飾りのような、端から見れば子どもが喜びそうな風景が、イーハイの視界を埋め尽くしている。
空が灰色なこと以外、パレードのような華やかさのある、眼下の地上の色の無さを際立たせるような、言葉にすれば頓珍漢と言ってもよいだろう光景である。
イーハイは自分の見ているものが分からなくなりかけていた。
自分を殺そうとしているのか、それとも遊びの道具としようとしているのか、魔女の笑いの中に見出すことができない。
悪意ではない何か。敵意でもない何か。
魔女といえば何かと、思う。
それこそ、本当に童話に出てくるような魔女を思い浮かべることもあれば、歴史の影に葬られた知識ある女たちの悲惨な末路を思い浮かべるほどに、魔女という物の形は根強く形骸的と言ってもよいだろう。
目の前の魔女は、何なのだろう?
魔女以外の形、そう、元は、魔女という仮面の下は、どのような人物であるのだろうか。
そんなものは余計なことだ、と考える頭と、どうにも納得を下ろしてくれない直感が、イーハイの頭の中を支配した。
人は誰しも、ただの子供、ただの青年、ただの老人という形の上に、何かを着込んで己と主張する。そして花のように己を表現するのだ、色とりどりの、自分の思うものを掻き集めて。
そのように、イーハイの仲間の一人が言っていたのを思い出す。
では、この魔女も、魔女たる外套を着たような、そんな何者かであるのだろうか。
イーハイは思う。
この魔女は、楽しくて笑っているのだろうか、悲しくて笑っているのだろうか、それとも、人ならざるものとして取り扱うべきなのだろうか。
イーハイは片手に構えた剣を握り直す。
両断するだけなら、それで話は終わりなのだ。
きっと、この戦いもそれでいい。あの魔女に何か、感情的なものが通じるとは思えない。
魔女は壊れているのだ、どうしようもなく。
それが根本からなのか、それとも外面ですら取り繕えない程なのか、それも分からない。
イーハイは何も知らない。
この世界のことも、外聞から想像した妄想じみた想像であって、本当のことは何一つ分からない。
ただ、根拠の一切ない確信はあった。
──────あの魔女は、オレの敵だ。
静かな自分の声が、彼の頭の中に木霊した。
アレは、何か理由があって、あるいは無くて、命を害そうとしている。
理由なんて、そんなものでいい。
誰かが手を下すということは、そういうことだ。目の前にいるもの、障害を取り除こうと手を振り上げるのに、躊躇う人間がどれだけいるだろうか?
そんなものは状況による、と言われるだろう。
では、それは自分の命が当に奪われようとしている場面でも同じことが言えるのか?
或いは、自分の命を投げ打っても構わないほど大切なものを害そうとしている相手を許してまで、黙って見ておけるのか? 自分がその後、どうなるのかも想像をせずに居られるほど、己はその場で冷静でいられるだろうか?
どうせ、魔女はおそらく正しくない。
だがそれは、イーハイの正しさを証明するものではない。むしろ、イーハイ自身も、正しくないのだ。
正しくない者同士が、ただお互いで正しくないことをするだけだ。
そういう戦いなのだろう。
だとしたら、イーハイは、魔女は自分と同じなのかもしれないと考えた。
彼女は、この世界の支配者ではないのではないのかもしれない、と。
自分と同じく、ただこの空間に閉じ込められている。もしくは、彼女はこの空間に自ら残り続けている。そのどちらかなんじゃないか。
世界が彼女にいる場所を与えたか、それとも与えてしまったか。どちらにせよ、彼女の居場所として、ここは成立されてしまっているのだ。何者かの手なのか、そうでないのかは別にして。
誰が望んだかは分からず、この世界はただ在る。誰かの都合で、存在している。
神のせいか、ストーリーテラーでもいるような都合の良さで。
だからこそ、分かる。
自分の存在は、この世界に現れた『変化』なのだろうと。
魔女は、初めて本物の敵を得たのだ。
この何も、誰も、動かない世界で。
誰からも認識されない世界で。
彼女は、イーハイを認識したのだ。
それを示唆するかのように、魔女はイーハイを見下ろしたままに、無邪気に笑っている。
イーハイは片手に握っていた剣を両手で構えた。
魔女は再び、手をゆるりと上げると、その指の先に火の玉を形成し始める。
じわりじわりとその火の玉が大きく膨れ上がり、また、魔女の周囲に同じような火の塊たちが現れ始めたのを見つめながら、イーハイは虹色の羽根の飛行力を遺憾無く発揮して、魔女に向かって前方へと飛び出した。
無数の風船が浮く灰の空に、一直線に伸びる虹色の軌跡が、灰と黒を浮かべる魔女に向かって、高速で駆け上がる。
魔女から放たれた火球がイーハイに向かって放たれ、風船にぶつかっては爆発と緑の液体の雨を降らせていたが、それらはすべて、彼が飛び去った後に起こったもので、意味はない。
普通ならば、イーハイに向かって放たれるべき火球は、そのどれもがイーハイを襲うことはなかった。
不自然なほどに。
だが、イーハイは確信を持って真っすぐに飛び続けた。
追い越していく景色の下で起こる爆発には当然一切の目もくれてやることはなく、意識すらもすることはなく、風の中の彼の目には魔女の微笑みだけが、映っている。
──────目は、合わなかった。
イーハイは、間近に迫った魔女の顔を見ていた。
長い前髪に隠され、どんな顔をしているのかは、鼻筋と口元くらいにしか分からない。
ただ、輪郭はあどけなく、口元の笑みは子供じみていた。体の発育と、関係なく。
「──────アハ」
魔女の口から、再び笑いが漏れる。
イーハイは、手に伝わる重さを感じていた。
イーハイが両手に構えていた刃は、今や、魔女の胸を、心臓を、的確に貫いていた。
寸分の、狂いもなく。
対して厚みのない魔女の身体の向こう───背中から白刃が生えている。
「─────────アハハ───」
ばきん、と、ガラスの割れるような音がした。
それは、魔女の顔から出た音だった。
あどけない輪郭を持った顔面が、割れている。
口元の笑みを残したままに。
ばきん───ばきん───と続けざまに、彼女の身体は音を立て始めた。
亀裂の中から何だか黒い破片をまき散らしながら、魔女の灰の輪郭が崩れていく。
真っ黒なドレスの下で、彼女の身体が崩壊を始めていた。
「──────セン……セイ……───」
ばきばきと音を立てていく中で、魔女は、ゆっくりと、初めて、笑い以外の音を紡いだ。
黒いひび割れを走らせる小さくも大きくもない手のひらが、イーハイの頬の近くまで伸ばされる。
「──────センセイ、ミテ、……ミテヨ、ワタシ、ホラ、───『マジョ』二、ナッタンダヨ──────」
魔女の指の先が、灰色の表面の欠片が落ちていき、黒い表面をさらしたかと思うと、黒い砂となって、灰色の欠片を追って落ちていく。
イーハイは、魔女を見つめたまま、剣を引き抜いた。
ぱらぱらと、刃に纏わりついた灰色の破片と黒い砂が落ちていく。
「──────ネェ、センセイ、ホメテヨ───」
魔女の履いていた靴が片方、支えを失って地上に落ちていく。
「──────ワタシ、ベンキョウ、ガンバッタンダヨ──────」
もう片方の靴も、程なくして落ちていく。
「──────キョウハ、ガッコウ、スゴク、タノシカッタヨ。トモダチ、タクサンデキタ───」
膨らみを見せていたスカートが、ハンガーに掛けられた時のようにだらり、と力をなくしてぶら下がる。箒の柄に半端に掛かるそれは、どちらかというと洗濯物のタオルのようですらある。
「──────オナジモノヲメザスヒトッテ、ウレシイネ、センセイ──────」
魔女は、まるで在りし日を語るだけの蓄音機のようだ。
それも、壊れかけの。
レコードをまともに読み込まず、音楽を流す順番が出鱈目になったような文言が、ひたすらにイーハイの耳に届く。
ぱきぱきという小さなひび割れの音と共に。
学校で友達と遊んだ。
どんな授業をしたか。
友達と魔法についての議論をした。
面白い授業をする先生の話。
つまらなかった授業の話。
うまくいかなかった勉強の話。
友達と喧嘩をした話。
悔しくて泣いた話。
難しくて読めなかった本の話。
卒業間際で寂しくなった話。
入学間際で興奮と緊張を抑えられなかった時の話──────。
魔女の手が、その形を亡くした。
彼女の乗っていた箒が、引っ掛けるところをなくして下へ、重い柄を下にして落ちていく。
袖が重力に従って、服の胴の両脇に並んだ。
腹部の膨らみすらも、無くなりつつある。
ただの空中に奇妙に、器用に引っかかった服に見える。
「──────ネエ、センセイ」
魔女の口元が、動く。顔に無数に走るひび割れと共に。
「──────ワタシ、イッパイガンバッタヨ。マジョニナロウトオモッテ、イッパイ、イッパイ、タクサン──────『ガマンシタヨ』。」
魔女の顔が灰色のひび割れから漏れた砂に隠れ始める。
「イタイノ、ガマンシタ。オトナニオコラレルノモ、ガマンシタ。カミヲヒッパラレルノモ、ガマンシタ。タベタクナイモノモ、ガンバッテタベタ。クチニナゲコマレテモ、タベタンダヨ。バカニサレテモ、ミンナデガンバッタ。リカイサレナクテモ、ナリタカッタカラ。ホメラレタカッタカラ。ズット、ズット、ズット──────」
ぱらぱらと砂が落ちていく。
「アノネ、トモダチノカワガハガレタノ。ハガレタ? チガウ、ハガサレタ。ソウ、ハガサレタ。アノコハムネヲモガレテ、ユカヲコロガッタノ、イタクテイタクテ、ドウシヨウモナイミタイダッタ! アハハハ! ソレデネ、ソレデネ、アルコハツレテカレテ、ミンナノマエデバラバラ二ナッチャッタノ、カタチガマトリョーシカミタイニナッチャッタ、ワタシノトモダチ!」
ケラケラと魔女は笑う。
黒い砂を撒き散らしながら。
「ガッコウノセンセイモ、ソウナッチャッタ。ドコカヘツレテイカレテ、キガツイタラネ、ガッコウノロウカニクギトイッショニカザッテアッタ! ウゴカナカッタ、ミンナデタスケタラ、アラビックリ! カベニカイテアルノ、『マジョナンカ、コノクニニイラナイ』!」
アッハッハ! と、魔女は笑う。
「──────ネェ、センセイ。ナンデ?」
ひらり、とついに魔女の服が風に乗って地上にその布の面積を広げながら、落ちていった。
「──────ホメテヨ、センセイ。ワタシ、ガンバッタンダヨ─────イチバンニ、センセイ二ホウコクシタクテ、ホウキデトンデキタノ──────」
長い髪と、あどけない輪郭が宙に溶け始めた。
「──────ホメテヨ、センセイ──────ドウシテ、」
魔女の三角帽子が、落ちて。
「──────カナシイカオシテルノ──────」
最後には、何もなくなった。
イーハイの横を、赤い風船がふわふわと浮かんで。
何処へ向かうのか、どこへ流れていくのか。
どこまでも空へ向かって、小さくなっていった。
イーハイは、静かに目を閉じた。
◇◇◇◇◇
──────ふと、目を開ける。
イーハイは、あの小屋の中にいた。
もう、八度は見た光景。
色をなくした、生活感の存在しない小屋の中。
一瞬、魔女を倒しても何も変わらなかったのかと息を吐きかけた時、イーハイは異変に気がついた。
ロッキングチェアの音がしない。
ハッとなってロッキングチェアの方を見ると、そこには誰もいなかった。
それ以外の変化は、ない────ように見えたが、イーハイはロッキングチェアの近くに、一冊の本が落ちているのを見つけた。
イーハイはベッドから足を下ろすと、その本に足早に駆け寄って、手に取った。
古い本だ。表紙は少し糸のようなものが解れている。
本を裏返したり、背表紙を見たりしてみたが、そこだけで中身が分かるようなものはなかった。
もしかしたら本ではなくて、ノートか何かなのかもしれない。
イーハイは少し震えの残る手で、表紙をめくった。
最初のページの一行目には、日付。
その次の行も、手書きの文字の羅列が並んでいた。
日記だ。
『─月─日 森で食料の調達をしていたら、迷子の子供に会った。怪我をして泣いていたので、仕方なく家まで連れてきて、手当てをした。子供は、どうやらその間に本棚に入れていた絵本に目をつけていたようで、また来ると言って帰ってしまった。人攫いの類に思われたら困る。いざという時のために、今日から日記を付けておこうと考えて、現在に至る。──────』
日記の冒頭は、そのような文章で始まっていた。
イーハイはその続きから、どんどん読み進めた。
途中は飛ばしたりしながら、気になる単語や表現があったらそこをじっくりと読み込んだり、前後の日付の内容を確認したりしながら、ダイニングテーブルに備え付けられた椅子に座ったり、ベッドに腰掛けたり寝転んだりしつつ、日記の中身を確認した。
その表情は、徐々に硬くなっていく。
おおよそ、彼の予想通りのことが、そこには記されていたからだ。
そして、この世界が成り立った理由も、推測ができてきていた。あくまで推測なので、イーハイはあまり考えないことにしたのだが。
イーハイは最後のページを読んで、本を閉じた。
『私は、間違っていた。
そうならば、償いをしなければならない。
最初から、私は突き放すべきだったのだ。
やり直しは出来ないのだから、あの時止めておくべきだったのだ。
この身を以って、罪を償わなければ。
ここに、償いの全てが書いてある。
願わくば、これを読んだものに、私の断罪を。
あの少女に、魔女に、永遠の償いを。
ハッペイ=マギウステルス』
日記の締め括りは、そうなっていた。
イーハイは、立ち上がる。
本を片手に持って、ロッキングチェアのところまで歩くと、イーハイは丁寧な動作で、ロッキングチェアの座る部分に本を置いた。
本の僅かな重さと、イーハイの動作につられて、ぎぃ、ぎぃ、と僅かにロッキングチェアが揺れる。
二、三度揺れたロッキングチェアは、動かすものがいない為に、そのまま動かなくなった。
イーハイはそれを見届けると、小屋の扉に向かった。
ドアノブに手をかけた時、一度だけ、部屋の中を振り返る。
主の消え失せた部屋は、生活感が元々無かったのも含めて、打ち捨てられた廃墟のようにしか見えなかった。
イーハイは静かにそれを見たあと、扉を空けて、外に出た。
あいも変わらず、色のない木々の群れが彼を出迎えたが、やはり、少し変化があった。
最初の頃に、イーハイが向かった場所の方から、光が差して、森に木漏れ日を作り出していた。
森の奥に続いている山の方からだった。
その先が濃霧に閉ざされて、向こう側が見えないはずの。
イーハイは自ずと、そちらに足を向けて歩き出した。
さすがに一回行ったきりだったので、記憶は曖昧だったが、イーハイは色のない世界ながらに、木々たちの間から漏れる木漏れ日の光に、何処となく安堵を感じ始めていた。
いや、どちらかといえば、その言葉自体に、イーハイは心を寄せていた。
『こもれび』は、いつも、今やイーハイの傍にあるものだった。
彼はやがて、濃霧の立ち込める山へ登る道の前に立った。
坂となっている場所から見えるのは、近くに広がる森と、さらにその向こうの、遠くに広がる森、その中央にある湖と、湖に浮かぶ、魔女の城。
イーハイはぼうっとそれを見つめてから、改めて濃霧の方に向き直る。
最初に見たときはただ立ち込めているだけだった霧の向こうから、光の筋が漏れている。
この世界でイーハイが見た中で、二つ目の大きな変化だった。
間違いなく、関係があるだろうが───もしも、事態がどうにもならなかったらどうするか───いや、その時は、また考えたらいい───。
イーハイの思考は、巡る。
しかし、結論はどの道、一つである。
イーハイは、ゆっくりと濃霧に向かって足を進める。
濃霧は、イーハイが近づくとその形を変えて、ぽっかりと、光の道のようなものを形成した。
急な変化に驚いたイーハイだったが、彼は躊躇いなく、足を止めることなく、その光の中へと歩いていくと──────光に包まれるようにして、彼はその向こうへと消えていった。
彼を飲み込んだ濃霧は、元通りに口を閉ざす。
光が消えて行き、誰もいない静寂だけが支配している。
──────そのまま辺りが暗くなっていく。
夜が訪れるように、暗く、暗く。
いつしか、この灰の世界は。
闇の中に包まれた。
誰に知られることもなく。
灰色の世界は、夢に堕ちていった。
(エピローグへ)




