八篇目の魔女の塔 -5-
カクヨムで描いてたものの続きを持ってきました。
相変わらず意味不明です。
イーハイの四度目の記憶は、もはや思い出したくないものになっていた。
自分でもなぜそうしたのか、……否、本当に実行したわけではないのだが、気が狂っていたように思う。
ふと思ったのだ。
ここは自分のいた世界ではないのだから、もしかしたら、『自分がこの世界のことを諦めれば、この世界の自分が終わり、この世界も消えてなくなるかもしれない』、なんてことが頭を過ったのだ。
無い話ではない。
イーハイが居た世界では自殺願望以上の何物でもないその考えは、『魔法』の世界では特段珍しい話ではない。
『魔法』を解くには、魔法の盲点を突くことは定石で、それらは発想の転換、すなわち『物事の逆を突く』ことで成立する場合があるのだ。
この世界で今、イーハイの考えていること、『諦めずに生きてこの世界を脱出すること』を逆転させる。
それを逆にすると、『諦めてこの世界で死を選び脱出しない』になる。
………普通に考えれば、脱出自体を諦めているような発想であるが、『脱出』とは己の行動そのもので成立することであり、『目的』そのものではない。ただの結果である。
言い換えれば、脱出という『行動をする』、ということ自体が目的になるのだ。
もしも自分を閉じ込めるための魔法や特殊な力だとするなら、この『行動をする』こと自体が引っかかっている可能性があり、その条件に引っかかる自分は脱出することができない。
………と、考える。
なら、とイーハイは徐に、自分の剣を横たえて、殆ど無意識に、自分の首に充てがっていた。
ひやり、とした薄い一筋の金属の冷たさを感じた所で、はっ、と我に返る。
数ミリほど剣を離したところで、イーハイはゆっくりと自分の手が剣の柄を掴み、それが震えてすらもいないのを見て、そのまま何かを考えるように静止した。
たった、四度。
イーハイは無機質なベッドの上で──────物音もろくにしない空間で──────自分の鼓動と息づかいしか感じていない空間で──────ただ四度の己が死ぬ感覚を覚えて、それから起床しただけで、そうなっていた。
悲しくもない、怯えもない。
ただただ、淡々とした事務処理の仕事のような感覚が、イーハイの胸の内を探るように塗りつぶしを始めたような、ざわざわとしたものが残っている。
それだけだった。
イーハイは途端に、剣を床に緩く放り投げた。
ベッドの縁に腰を掛けて、叱られた子供のように、肩を落として床を見た。
視界の端で、床と同じ色をした、銀光りする刃がその存在を主張したが、イーハイにとってそれは今、自分の命を預けてきた相棒としての得物ではなかった。
彼は戦士だ。闘うものだ。
彼は剣士だ。振るうものだ。
それ以上の生き方を、彼は知らない。
今の彼の立場である『冒険者』とは所詮、その自認に付随した副産物でしかないのだ。
彼の、『生き方そのもの』とは言い難いものなのだ。
答えろ、イーハイ=トーヴ。
お前は、なにものになりたかったのだ?
そもそも、誰からも名を呼ばれないお前は、イーハイ=トーヴなのか?
異常者は誰かから異常者と呼ばれて初めて異常者と定義される。
ヒトという生物分類においても同じだ。
それは誰かが相手を定義付けるために作った名前でしかないのだから、そもそもヒトという生物はヒトという呼ばれ方が適切かどうかを誰も保証しない、ただの集団的な共通認識でしかない。
全てのモノにおいてそうなのだ。
例えばヒトで無かったとして、それもヒトで無いものとして後付けされた分類名が存在する。
それは、『他』からの認識でしかないのだ。
自分が『他』からそう思われなければ、……いや、もっと言うなら、例えばたった一人の人間に、『ヒト』という言葉を周囲が一切使わずにいたら、一体その人間は自分やその他を何と呼ぶのだろう?
哺乳類? 真核生物? そういう話にならざるを得ない気すらする。
それくらい、『名』というものは『意味が最大級にあり、最大級に存在しない』のだ。
あってもなくても困らないが、それを口に出すときに何を言えば良いかと言うのが困るから、名詞というものが生まれたのだろう……と、思ってしまうことを否定しきれるだろうか。
だったら、彼はイーハイ=トーヴなどという名前ではないかもしれない。
そう言い切れてはしまうのだ。
否、この誰も彼の名前を呼ばない世界で彼は、イーハイ=トーヴではないのだ。
イーハイ=トーヴでなくて良い。
なくて良いけど、困らない。
彼を呼ぶものなど、誰もいないのだから。
そんな彼が、生きて何か意味があるとでも?
イーハイの胸の内が、ざわりと揺らめく。
否応なしに動く心臓が、彼の生をどうしようもなく主張する。
心臓ではないかもしれない。
己を律しようと動くこの、他を認識しようとする何かこそが、彼を生に繋ぎ止めている。
皮肉である。
誰にも呼ばれない彼は、この世界に他者として定義をもたらさなければ生きていく術がないのだ。
「──────私は、間違っている。」
嗄れた声が、イーハイの耳に届く。
彼は声の方へ、目を向ける。
ロッキングチェアの住人、老人が揺れている。
「私は間違っている。私は間違っている。私は間違っている。私は間違っている。私は間違っている。私は間違っている。私は間違っている…………」
呪文のように、老人が同じ言葉を繰り返す。
相変わらず、イーハイにはその言葉の真意が全く分からない。
ただ漠然と感じ取っているものはあった。
「………私は間違っていた………。」
一文字だけが違う、最後のその言葉が、イーハイの中に小さな確信を告げていた。
意味そのものは、分かっていない。
◇◇◇◇◇
扉の向こうの空間。
罠だらけの床の部屋と対峙をしながら、イーハイは呼吸を整えていた。
すでに八度目、七度の挑戦をして、攻略法は頭に入っている。あとは、自分の体の動きが脳に付いてくれば良いだけだ。
………と言っても、階段の向こう側に行き切るのは四度目から以降なので、実質三回しかまだ成功していない。何度も成功しているわけではない、次も必ず上手くいくという確信もほぼ持てないような回数だ。
さりとて何百何千と回数をこなしたところで、人的なエラーは存在するのだから、手放しで信用することでも無いのだが。
だが、考えても物事が先には進まない、と考えがちな彼は、すぅっと呼吸を整えると躊躇いなくその場から跳躍した。
罠の作動をする小さな突起の並ぶ床の、一つ目の少しの安全地帯へ、片足をつけた瞬間に次の安全地帯へと身体を捻りながら跳躍する。
タイルとタイルの境目のほとんど数センチ横、人間が思うタイルの四角形そのものが安全地帯ではないという設計者の意地が悪く、また防衛としては心理トリックを突いたお粗末なようでそうでないものたちを一瞬だけ視界に収めたイーハイはさらに次の安全地帯へと身を躍らせる。
彼の頭のすぐ後ろを、風切り音が通り過ぎた。
階段上からのボウガンによる狙撃。
だがイーハイはそのボウガンが床に弾かれて金属音を立てているのが聞こえていないままに、次の安全地帯に足を付く寸前に剣を構えていた。
彼の目の前には、一体のリビングアーマーが空虚な金属の擦れる音を立てながら、その小手にはロングソードを構えていた。
イーハイが着地をすれば、すぐにでもその刃を横薙ぎに払って彼を両断するか、バランスを崩させて罠の方へ体や脚を倒させようとするような思惑があるらしいそのリビングアーマーは、鈍い金属音を頭から響かせたかと思うとイーハイの脚が地面についた瞬間に身体を後ろによろめかせた。
イーハイは階段前の安全地帯を目指してさらに跳躍する。その時、リビングアーマーに向かって投げた自分の得物を勢いよく引き抜いて回収する。
多少跳躍の勢いこそ削がれたが、次の安全地帯まではそこまで遠くなかったために、問題なく彼は階段の前まで到着することができた。
しかし、息を吐く暇を作らずに彼はそのまま階段を駆け上がり始めた。
階段の上、斜め方向から何度も黒く細長いものが跳んできていた。
階段上の廊下となる部分から、ボウガンの矢が放たれて、イーハイの目の前や後ろを通過しては小さな音を立てて壁に当たって小さく跳ね返ってそのまま落ちる。
イーハイは前に飛んでくる可能性のある矢だけに気を配りながら、ほぼ段飛ばしをする勢いで階段を登る。
階段を登りきったイーハイがすぐさま左に身体を向けると、彼の視界にもう一体のリビングアーマーが映った。
ボウガンを構えるリビングアーマーはイーハイにその矢の先を向けると、容赦なく撃つ。
矢の装填などは魔法による機構により行われているようで、ボウガンとは思えない連射速度で何本もの矢がイーハイに迫る。
イーハイは走り出しながら、自分に当たりそうな矢だけを自分の手に持つ得物で叩き落としつつ、リビングアーマーに迫った。
汗で滑りそうになる得物を強く握りしめた彼は、力任せにリビングアーマーに得物を突き刺すと、小さく呪文を唱え始める。
イーハイを振りほどこうとしたのか、それとも力で彼の腕を握りつぶそうとしたのか、リビングアーマーは武器を放棄するとイーハイの腕や肩に掴み掛かる。
「『我が主に願い奉る』───」
イーハイの纏う衣服の擦れる音と、金属音の小さなカチャカチャという震える音と、自分の腕や肩が軋む感覚をイーハイは感じながら、喉の奥から『力ある言葉』を紡ぐ。
「『我が前に立ち塞がりし、試練与える全てのものへ』………『我が星の導きの先を示せ』!!」
イーハイの持つ得物───『聖剣』が蒼い光を帯びたかと思うと、リビングアーマーの内側から白い光が溢れ出した。
「【星光】!!」
イーハイの唱えた『力ある言葉』に応え、リビングアーマーの中から漏れる光が一層強くなると、リビングアーマーは音を立ててカタカタと全身を震わせ始め、やがて、大きな金属音を立てながらその身を崩しはじめた。
留め具等を弾けさせて、解体される機械のように、支えの無くなった一つ一つのパーツを床に零しながら、金属の残骸となって完全に動かなくなった。
………ようやく、その場が他に何の音もしない空間になった。
イーハイの荒い息遣いだけが空間のなかで一つだけ生きており、彼は二、三度踏鞴を踏んだが、なんとか持ちこたえた。
こめかみや首筋を流れる汗も拭わないまま、彼は呼吸だけを乱暴に整えると、そのまま剣を鞘に戻した。
大きく息を吐く。
脚は少し震えていたが、武者震いなのか、それとも階段を無理やり登ったことによる筋肉の緊張なのか、分からない。
険しい山道だろうがそれなりに歩くことのできる脚だとイーハイは自負していたのだが、自惚れだったかもしれない、と思い始めていた。
もう一度、数を数えるように呼吸を整える。
喉だけが冷えていて、足の先が妙に汗ばんでいて滑るような感覚を覚えながら、イーハイは前を見た。
火照る額が煩わしくも、一瞬揺らいでぼやけた視界の向こうに、石造りのアーチが鎮座していた。その向こうには曲がりくねる階段の始まりが見える。
イーハイは自分の手を見た。
少し汗ばんで、少しきらきらと光る己の掌をじっと見つめたあと、乱暴に服の裾でそれを拭う。
己の呼吸音しか聞こえてこないような静寂の中、イーハイはもう一度、石造りのアーチの向こうを見た。
一歩を踏み出し始める。
二歩、三歩と踏み出して歩みとした時、イーハイは階段の先にあるものを思い出しながら、石造りのアーチへと近づいていく。
やがて、アーチの下へ辿り着けば、イーハイの足元の近くには階段の始まりがある。イーハイはそれを見たまま、小さく短く息を吐く。
次の瞬間、彼は弾かれるように階段を先ほどと同じように駆け上がり始めた。
ちょうど、イーハイの靴底が八段目を踏もうとした時、螺旋状に組まれているらしい階段の、螺旋の中央となっている柱の壁から、淡く光る魔法陣が一つ、二つとその姿を現した。
彼の靴底が八段目を蹴って離れたころ、彼の身体───胴体に向かって槍の形をした光が飛び出した。
彼はそれを身を屈めて避け、次に体勢を低くした彼の頭を狙うように光の槍が襲いかかったが、彼はそれを体勢を低くした勢いで身体をバネのように弾いて跳んで回避した。
一瞬でも気を抜けば、段を踏み外して転落しかねない所を、彼は水の魔法を展開して自分の下半身を包み込み、着地の勢いを殺してそのまま降り立つ。
そのままもう一度階段を駆け上がり始めたが、今度は彼がこれから踏まなければならない段が一部を残して、淡い光と共に消えた。
彼はかろうじて残った段だけを視界に収めると、走る勢いを殺すことなくそのまま跳ぶ。
彼には考えている暇など己に作るつもりはなかった。
足を止めようが、どのみちこの塔に殺されるだけであるし、失敗を恐れたところでどうにかなるわけでもないのだ。
もはや自暴自棄にも近い気持ちだけが彼の足を動かしていた。自分自身の身体能力に自信がなくとも、賭けるしかなく。
彼の顔のすぐ横を、光の矢が掠める。
彼の跳躍の瞬間を狙って、後ろから続けざまに幾つもの矢が飛来した。
当然、空中では方向転換をすることが難しい───やりようによっては出来なくもないが、如何せん場所が悪すぎる。矢を避けながら勢いを殺さずに着地して、そのまま跳躍などはさすがに出来る気がしなかった───ので、彼は記憶だけを頼りに、階段の端から端を狙って飛ぶようにして、なんとか避けていた。
そもそも、普段の冒険ですら、咄嗟の判断やちょっとした勘が生死を分けることも少なくないのだから────と、イーハイはやけに冷静な感想が頭を過ぎるのを感じ取りながら、先へと進む。
何度かちらりと視界の端に見えた窓枠の向こうの地上の景色が下へと追いやられ、小さくなっていくのに少しばかりの心の荷の緩和を覚えたものの、それでも、この先にあるもののほうが重要だ。
ここを超えて──────そういえば、何が、あるのだろう。
いや、分かっている。
一度も遇っていないが、恐らく、『魔女』。
しかし、本当にそれは『魔女』であるのだろうか?
『魔女』とは何か? 魔法に精通した女である、女ではあるのだろう、それは、何を以って?
見たこともないものは定義をできない。形のないものは名前が付けられない。本来は。
だとしたら、イーハイが魔女と聞かされただけで、実は男の性を持つものかもしれない。男が魔女と呼ばれても良いか悪いかで言えば、どっちだっていいだろう。
そう呼ばれているのなら、そういうものなのだろう……と、聞くこちら側が納得か理解をすればいい話だ。
それ以上でもそれ以下でも、イーハイの欲しい事実は『魔女が何者か』であるよりも、『この世界を脱却する方法』であるのだから、そんなことにはそもそも興味がない、と言ってしまえばそうなのだ。
彼にとって、『魔女』とは『脱却の糸口か、手がかり』。そのどちらかでしかない。
それが彼にとっての答えであり、それ以上の何物でもなく、もしも関係がないのなら、あなたの住処を荒らしてすまなかった、と彼は魔女に謝罪をするしかないだろう。
それで敵対をするならそれまでだし、いなくなるだけでことが解決するならばそれに越したことはない。
どれだけ人の命に一ミリの情のないトラップだったとして、悪いのは屋根のある場の持ち主の住処に無断で土足で踏み込み、荒らしたり、無遠慮にその場を暴こうと躍起になるものたちには仕掛けられて当然の代物である。
罠を悪と感じるのは、いつだって物語の蚊帳の外で、主人公が苦難を乗り越えて突破するシーンを見たいだけの観客しかいないのだ。
その立場のなんと楽なことか!
イーハイとて、冒険者になってからそのように考えることは割としばしばあった。同時に、幼い頃にちらと読んだことのある、古い童話を純粋な目で見られなくなったことをほんの少しだけもったいなく思ったものだ。
観客と当事者はいつだって違うもの。
観客は見たままの時の心を信じ、当事者は体験した時のままの心を信じる。どっちも特別だと思ってしまうのは、自分の心だからだ。
それを「人はそういうものだ」と言いたい時もあるし、そうでないときもある。むしろ、イーハイ=トーヴという人間は、普段は後者である。
なぜそうなのかまで、彼は自覚的に考えたことはない。
強いて言うならば、彼は黙って状況を受け入れるような男では、あんまりなかった。そういうヒトなのだと、自認している。ある程度。
自分が自分であるために、自己を称賛する気はない。己は特別でなくていいのだ、そこまで賢く生きられる人間でなければ、賢く生きようとする人間でもないのだから、今あることに、向き合わなければいけないことがわかれば、それでいい。
それができない人は、どうするのだろう。
あるいは、できなくなった人とは。
イーハイは己の髪のほんの一部を掠める光の矢が階段の段の角に当たって弾けて消え失せるのを見送りながら、そんな事を考えていた。
そんな事を考えている場合なのかと言われたら、気を抜けば彼は死ぬのだろう。
だが、摩訶不思議な事に、今の思考の揺り籠の中にいた無防備な彼を襲う死は存在しなかったのである。
先ほどの矢についても、そうだ。
イーハイを一度だけでも貫いたことがあるその矢は、どこか自分を弄ぶような飛び方をしている。
────命を奪うことが目的じゃない?
イーハイは矢を避けながら、何を馬鹿なことを……と、自分を叱咤するが、しかしその考えが消えることはなかった。
あり得るからだ。
いくつかの世界では、『心の在り様』が形となって存在する世界というものが存在する。
特に、『灰色の世界』はそういった、何かしらの『心の概念』に基づいて作られていることはロウから聞いている。
ただ、だからといってそれはイーハイ自身には起因しない。
イーハイ自身がどれだけ願ったところで、イーハイがこの世界からの脱出ができないのだから、主導権は別にあるのだから。
ならば、この攻撃の要になっているのは『魔女』自身の悪戯なのかもしれない、と考えることが自然、ではある。
そう、そう考えるなら、二つ、引っ掛かる。
『もしも、自分が塔を登ることを魔女が拒否しているのなら、魔女はどんな手を使ってでも自分を殺そうとしてくるはず』。
『そして、心の在り様がこの世界の姿を変えるならば、魔女の思惑で自分は必ず死ぬ』。
なのに、死に戻りの回数を重ねるごとに、イーハイは塔の先に進んでいるのだ。
なら、魔女はこの世界の要ではなく、他に意思がある? あの老人? それとも全く別の第三者? ………それとも、主導が自分に移ってきている………?
一番考えたくないことは、もはやこの世界に自分が溶け込み始めているかもしれないこと。
この世界に溶け込んでしまえば、己も『進まない時間』の中に閉じ込められてしまう。
そうなった時、自分はどうなるのだろうか?
何も考えない、この塔を目指すだけの何者かになってしまうのだろうか?
誰にも認識されず、目的はあるのに目的を達成するための存在になり、永遠に同じことを繰り返し、何も感じない存在になっていく、疑問に思うこともしなくなっていく、そんな存在になるのだろうか?
そういうものを、ある意味幸せかもしれないと考えてしまうのは、人間の都合のよい楽観視でしかないのではないか?
……いいや、それは、生きていき、いつか寿命で死ぬときに、『いい人生だった』と言って死にたい人と変わらないかもしれない。
誰しもが、自分の人生がどう終わろうと、どんな結末を辿ろうと、それが望んだことであれば良い、幸せだった、満足だったと言いたいのは変わらないだろう。
周りの人間が、死した人に「そうであった」と思いたいのも、そういうものだからだ。
それは、思い返せば傲慢でしかない。
終わりがその人の思う幸せであってほしい、と誰かが思うこと自体、他者の思い込みへの熱情でしかなく、思い上がり以上のことは何もないのだ。
自分は恐らくそんな熱情が下火のように燻っていて、いつもそれが邪魔をする。最低で自分勝手で独りよがりで、難儀な人間だ。
そんな自分を誇らしく思えないことも憎らしい。そんなふうにしか生きれない自分を誰が覚えていたいなどと思うのか、と。
人は思っている以上に利己的なのだ、それはそうだ、自分以外のことをどうして知れようか、と思うから。
結局は、自分の物差しに測れるか測れないか。自分の物差しにいなかったら、誰かが判断するだろう、という楽観と責任転嫁で生きるしか出来ないのが、人間という何かなのだ。
己が万能でないと分かった時、ヒトは初めて他が齎すものを価値と素直に受け取るものだ。
イーハイの信ずるところは、結局の所はそこである。己は、足りることのない人間だ。
それは、一生ものである。
それが、イーハイ=トーヴという男である。定義はできなくとも。少なくとも。自認の上であっても。
そんな事を考えた瞬間、彼の前から段が消えた。
イーハイが驚きで足を止めた瞬間、彼は何が起こったのかを認識できなくなり、頭が真っ白になった。
留めた足が階段の先を踏む。
目を見開いたまま自分の踏んだものを見ようと、下を見れば、平らな地面である。
古びた大理石の床が濁り光る地面。
階段ではなく、ただの地面。
彼は顔を上げた。
その視線の前には、両開きの扉が、一つ。
彼は疲れでも安堵でもない息を吐く。
じわじわと怠さと、汗のじったりした感触から来る少しの熱気が体の感覚をよじ登り始めたところで、彼は漸く、己の目の前に現れた事態を認識した。
彼は、登りきったのだ。
少なくとも、あの階段を。
これまでの挑戦で、たどり着くことができなかった、階段の先を。
この先がどうなっているのかは、彼も知らない。更に上に上がるための何かがあるのかもしれないし、最上階かもしれない。
もしかしたら、何も得られないかもしれないし、物凄く気楽に考えるなら、これが出口かもしれない。
いや、魔女の塔なのだ。魔女の部屋だろう。
イーハイの思考は混乱なのか考察なのかわからない言葉でひっちゃかめっちゃかになった。
イーハイは少しずつ冷えていく身体を動かして、扉に近づく。
ここまで身体に力を込めていた影響だろうか、爪の跡の痛みと、痺れの残る手でドアノブを握った。
ぐっ、と力を込める。
大した重さもない扉はカチャリ、というその身に相応しい軽い音を立てながら、あまりにあっけなく開いた。
蝶番の音がイーハイの耳に届く。
徐々に開いていく扉の向こうには、何の変哲もない部屋があった。
ガラスの張っていない大窓が特徴的だが、それ以外に普遍的なものはほとんどない。
ベッド、ベットサイドのテーブル、書き物机、クローゼット、整えられた本棚、その本棚の前を埋め尽くす、本の山。
強いて言うなら、その横に使い古された釜が一つ。下の部分に焦げたような跡の残った、年季のあるものだ。それくらいが、何の変哲もない部屋のなかで少し異様なくらいで、それ以外は何もなかった。
イーハイはなんとなしに、窓の近くの書き物机に近寄った。
書き物机の上には、一冊の本が置かれている。
中身をのぞいてみれば、小さく描かれた魔法陣に注釈がつけられていたり、長々とした説明文が理路整然と並べられている。
その説明文のいくつかには、手書きで線が引かれ、誰かが書いたメモのようなものが小さく書かれている。
内容をざっと確認したイーハイは、それが何十年か前に使われていた魔術の教科書であることに気がついた。
魔女の教科書、と形容すれば良いのだろうか──────と、イーハイが考えた瞬間、彼の身体に影が差した。
イーハイは咄嗟に顔を上げる。
「──────アハハハ───……」
それは、不気味な、甲高い笑い声を発した。
けらけらと笑い続けるそれは、深く被ったとんがり帽子に、少し露出のある黒いローブを身に纏い、身を預ける箒の浮遊感に長い髪を揺らして、そこにいた。
「……、魔女……」
お伽噺の挿絵に描かれるような、そんな姿をした『魔女』が、そこにいた。
大人であるのか、子供であるのか、分からない程度の甲高い笑い声、それに背丈。
青年期とも取れない。何とも言い難い。
それが逆に、急に現れたその存在をより『魔女』らしく思わせてきていた。
「──────ッ!」
笑い続ける魔女は自身の周囲に、魔法陣を展開したかと思うと、謎の林檎の群れを召喚した。
イーハイは嫌な予感がして、咄嗟に窓の横の壁に身を隠す。
次の瞬間、べしゃり! という音を立てて窓から飛び込んできたいくつもの林檎が床にぶつかって弾けた。
液体を撒き散らして形を失ったリンゴから、緑色のベタベタした液体が妙な音を立てて広がるのを見て、イーハイは思わず唾を飲み込んで、変なむず痒さを訴える喉を落ち着けようとした。
「───アハハハハハ、アハハハ、アハ、アハ、アハハ──────!」
魔女の、まるで遊んでいる子供を思わせる笑い声が、辺りに響く。
イーハイはしばらく待機して、第二撃がとんでこないことを確認すると、構えられていることを覚悟しながら、窓の前の書き物机に飛び乗った。
もう一度、彼の視界には魔女が宿る。
イーハイはその姿をしっかり見ることなく、そして躊躇いもしないまま、窓から身を躍らせた。
どうしようもない浮遊感と風が、彼を襲った。
(続く)




