僕は貴公子じゃないのに【ヒューバート視点】
──僕が正式に領主として独り立ちする二十二の年、遺言状が残されていたことを知った。
僕とシンシアの結婚についてだ。
だが意味はないと思えた。これほど嫌われてしまえば、遺言に縛られるはずがない。拘束力はない。
まずシンシアが嫌がる結婚を、娘を溺愛するステイプルトン一家が認めるはずがない。いくら恩人の遺言でも。
もちろん僕も遺言など興味はなかった。なぜなら、シンシアを妻にしたいわけではないからだ。
彼女は僕にとって、俗世間に染まらない天使であり、可愛い子羊、守るべき存在だった。
妻──女性として見る対象ではなかった。
僕は当主で、後継者を考えねばならない立場にある。
それは有り体にいえば、女性に対し醜い男の欲望をぶつけるという行為だ。
だが清らかなシンシアにそんな邪な感情を持つことはできない。
しかし、突き詰めれば、それは僕以外でも同じことだった。
クライヴと「いつか最高の夫を見つけてやろう」と誓った時、自分で言っておきながら胸がむかついたのを覚えている。
誰であろうと、シンシアを汚すことは許さない。
彼女は誰とも結婚しなくていい。僕たちで一生溺愛すれば、寂しくないはずだから。
ところがだ。
なんと、ステイプルトン家は遺言どおりの結婚を勧めてきた。
資金援助を辞退し続けていたから、苦肉の策だったのだろう。
彼らが亡き父に恩返しをしたがっているのは分かる。だがヘビントン侯爵家は高位貴族。ノブレス・オブリージュを貫いた父の行いに対し、負い目など感じてほしくなかった。
おそらくクライヴが持参金を押し付けるために仕組んだのだろう。あいつはプライドが高いから、とにかく借りを返したがっていた。
ただ、少なくとも妹を僕に会わせる気になったのは確かだ。
クライヴの腹に一物も二物もあろうと、シンシアに会えるならそれでいい。
父上、母上、地母神ギャイア、そしてついでにクライヴ──感謝します。彼女に謝る機会を与えてくれたのだから。
三年ぶりに再会した時、彼女の姿に衝撃を受けた。 何がって、最初はシンシアだと気づかなかったことだ。
知らない女性──親族か使用人──だと思い、いつものように防御の壁を張り巡らせたほど、別人だった。
彼女だと知った瞬間のショックは、髪が抜け落ちるのではないかと思うほど大きかった。
天使だと思っていた幼なじみが、大人の艶かしい女性の姿に成長していた。
まともに見られなかった。視線を向ければ、その扇情的な体つきを凝視してしまう。
そして……あろうことか、その夜僕は思春期の少年のように眠りの中で暴走し、シーツを汚してしまったのだ。墓まで持っていく秘密ができた日だった。
汚れなき天使に、醜い欲を抱いてしまうなんて……情けなさで、自分に嫌悪感を抱いた。
僕は、美しいか醜いか──そんな主観で変わる低俗な理由で人を判断はしないし、シンシアの見た目を醜いと思ったことは一度もない。
彼女は小さな頃から優しく素直で、不器用さが愛おしかった。
だが今となっては、それを言い出せなくなっている。痩せて変わった彼女に強く惹かれてしまったからだ。
僕のせいで容姿にコンプレックスを持ってしまった彼女が、そんな僕を知ればますます以前の自分を醜いと思ってしまうだろう。
世の中の女性が僕を好きになる理由は、爵位、財力、そして見た目だ。つまり僕は空っぽの人間ってこと。
だが空っぽだからこそ、妹のようなシンシアが妄信的に好きになってくれたことは、承認欲求を満たし、自己肯定感を与えてくれた。本物の妹は厳しいから、救われていたのだ。
つまり僕は昔から、シンシアが思うような貴公子などではなかったということだ。
「…………シンシア、僕はね」
君の好意を都合よく利用していたんだよ。
彼女の短い髪を撫で、耳にかけられた耳たぶを見つめる。本当はその耳たぶに口づけして、首筋まで辿って、胸元に僕の印を付けたい。
──そんなこと、言えるわけがない。嫌われたくない。
シンシアの目を見て、彼女の苦しみを感じながら謝った。
「僕は、自分が臆病で懐疑的で、小さな男だと知っているんだ。本当にごめん」
「やめて、謝らないでください。ご存じでしょう? わたくしがナディーン様を唆したんです。振られて当然だったんですっ」
大粒の涙をぽろぽろ零すシンシアを見て、もう耐えられなかった。
「泣かないで、ほら、ここにおいで。抱っこするから」
膝をポンポン叩くと、ふぇぇええと号泣しながら抱き着いてきた。
──なにこれ、きゃわゆぅううう。
唇を噛んで目を伏せる。なんてことをしたのだろう。ふわふわの天使を、これほどまでに傷つけてしまったなんて。
「あのね、違うんだよ。誰が何を言おうと、ストーンヒルズ夫人──ナディーン嬢の決めたことだ。君のせいじゃない。あの時の彼女の選択が全てだった。泣かないで。僕が悪いんだ。振られることに慣れていなくて、君のせいにしたんだよ」
「ででも、うぐうう……ひゅーばーとしゃま、かわいそうでしたもの……うぇぇぇえん、ごめんなしゃい」
この子は、あれだけ僕に傷つけられたのに、僕に同情し、ずっと罪悪感を抱いてきたのか。




