豚の嫉妬
それは忘れもしない──わたくしがヒューバート様との仲を引き裂いた、ハートフィールド伯爵令嬢ナディーン様でした。
背筋に鉄板でも仕込んでいるかのような凛とした立ち姿は相変わらずで、かなりお年を召した男性の腕に手を添えておられます。
ナディーン様のお爺様かと思いましたが、そうではありませんでした。
「夫の、ジョシュアです。ストーンヒルズ家の」
ジョシュア・ストーンヒルズ!
……この方が、ナディーン様の結婚相手。
クライヴ兄様に転送させたミラベルのお見合い候補の中で、彼は一番の富豪でした。
それで貴族の血に固執していたはずのナディーン様も、ようやくヒューバート様を諦めてくださったのです。
罪悪感で胸がドキドキします。まさか、ここまでお年を召していたとは……。
お見合い写真は何十年も前のものだったのでしょう。
ジョシュア卿は最近になって、戦争で奪われた土地の一部を、エロスト王国から買い戻したほどの実業家。
その土地には手付かずの炭鉱が眠っており、エロストに気づかれる前に回収したのです。かなりのやり手ですわね。
けれど望んだ結婚ではないことは一目瞭然。今のわたくしとヒューバート様の関係に、なんと似ていることでしょう。
ナディーン様──いえ、ストーンヒルズ夫人は、ヒューバート様を食い入るように見つめていました。
そこでわたくしは気づいてしまったのです。彼女はまだ、ヒューバート様のことが好きなのだと。
「お久しぶりです、ナディ……ストーンヒルズ夫人。ジョシュア卿、初めてお目にかかります。我が国にとって価値ある鉱山を安値で買い戻したというご高名は、僕の領地にまで届いております」
初恋の人の夫を前にしても、ヒューバート様は穏やかな声でした。
遠くで筋肉を見せびらかすエロスト王族を一瞥してから、ジョシュア卿に囁きます。
「溜飲が下がりました。陛下から王国栄誉賞を戴いた話は、王都中の者が耳にしていることでしょう」
ジョシュア卿はもぐもぐと口を動かし、何事かおっしゃいました。
「はやふらは~びゃんじょくじゃから~ふぐへぐは~」
「失礼、歯が抜けてしまっているのです」
ナディーン様がそっけなく補足します。
「あやつらには宝の持ち腐れじゃった。脳筋ゆえに、土地を奪っても真の価値を分かりはしなかったのじゃ」
なるほど、とヒューバート様は見事な通訳をしてみせたナディーン様に微笑みました。
……胃がキリキリ痛みます。彼女には惜しみない笑顔を向けるのに、わたくしを見る時は違う……。
目が合ってもすぐに逸らし、苦痛をこらえるような顔をするのです。
その時ジョシュア卿がゲホゲホと咳き込み、謝罪してドリンクコーナーへ向かいました。
「ストーンヒルズ夫人、お元気そうでよかったです。あの時の僕は、なんの力にもなれなかったので……」
ヒューバート様の言葉に、ナディーン様の顔が歪みました。
「ですが夫は、ハートフィールド伯爵領を取り戻してはくださいませんでした」
ヒューバート様は、言葉を詰まらせました。今の彼には資金がなく、結局遠縁の彼女を助けられません。
思わずわたくしは口を挟みました。
「でも、奪われた伯爵領は痩せていて、実入りはよくないでしょう? 鉱山のある土地を取り戻した方が有益だとジョシュア卿も──」
キッ、と睨まれてしまいました。
「夫は貴族ではないから、分からないのです」
す、すみません。この豚めが余計なことを……。
「先祖代々守り続けてきた土地が敵国のものになるなんて! あなたに耐えられますか、ヒューバート様っ」
ナディーン様の詰問に、ヒューバート様の眉尻がシュンと下がります。
「気の毒だとは思いますが……」
その時、ジョシュア卿が杖を突きながら戻ってきました。
「わひゃ~ぐひゃいぎゃがるいでぇ~もうかへるでにょ~」
ナディーン様が頷きます。
「主人の気分が優れないようなので、わたくしたちはもう失礼いたしますわ」
ヒューバート様が目を見張りました。
「まだ始まったばかりではないですか。一曲くらい踊っていかれては?」
「主人が足を悪くしているので、踊れません」
ヒューバート様は躊躇った後、ストーンヒルズ夫妻におっしゃいました。
「もし……ジョシュア卿がお許しくださるなら、一曲ご夫人と踊ってもよろしいでしょうか」
ナディーン様の顔がパッと輝きます。
ああ、ほら……わたくしったら。
自分の中から込み上げてきた、黒くドロドロとしたあさましい感情に、息を呑みました。
わたくしはその瞬間嫉妬に苛まれ、気持ちが悪くなってしまったのです。
わたくしったら、何も変わってないわ。なんて醜い女なのでしょう!
さらにその時、ジョシュア卿も二人をじっと見つめていることに気づきました。
その狡猾そうな瞳には、わたくしと同じく嫉妬の色が浮かんでいるように思えました。
ナディーン様も気づいたのか、ダンスの返事を躊躇っております。
そこで初めてわたくしは、自分の役割を思いついたのです。
「ジョシュア卿のご高名は、わたくしもよく存じあげております」
怪訝そうに振り返られて、わたくしは精一杯の笑顔を彼に向けました。
「もしよろしければ、少しビジネスのお話をさせていただけませんか?」
王都に来る時に作った名刺を、彼に渡します。ナディーン様がわたくしを見て眉を顰めました。
「どなたかしら? 主人はわたくしの通訳が無いと──」
「ストーンヒルズ夫人、僕の婚約者のシンシアです」
ヒューバート様は紹介が遅れたことに気づき、慌てておっしゃいました。
「はっ!?」
目を剥いてわたくしを見たナディーン様です。
「夫人、ほんの少しだけ、ご主人に鉱山のお話を伺いたいのですが」
わたくしがそう切り出すと、ナディーン様は我に返り、ヒューバート様に目をやってもじもじしました。
「それでは仕方ございませんわね。お待ちしている間、ダンスのお誘いをお受けしますわ。いいわよね? ジョシュア」
わたくしは、何か言いたげな老人を隅に引っ張っていき、壁際のソファに座らせました。
「では、商談に入りましょう。鉱山の周囲の土地利用に関してですが。実はチンゴスマンというフルーツが寒冷地でも育ちそうだと──」
育つはずはないのですが、時間稼ぎです。ナディーン様への、せめてもの罪滅ぼしでした。
なぜならわたくしは、嫉妬した醜い自分を帳消しにしたかったのですから。




