この豚の顔をお忘れですか?
「彼女がシンシア? まさか。そんな雑な悪戯を仕掛けるなよ、ミラベル」
ミラベルが何を言っても、ヒューバート様は首を横に振るだけ。こちらとしても困惑するばかりです。
わたくしは咳払いし、彼の前へ踏み出しました。
見とれている場合ではありません。結婚して、この方の領地を救う──そう決めたはずでしょう?
「わたくしの瞳の色をお忘れですか?」
よく褒めてくださった、淡い黄緑色の瞳を瞬かせます。
「あと、耳たぶにピアスのようなホクロがあると、おっしゃっていたでしょう?」
さらにサイドの髪を耳にかけ、耳たぶを見せました。
ヒューバート様は、ヘイゼルの瞳をこぼれ落ちそうなほどに見開き「そんな、でも、いや馬鹿な」とうわ言のようにブツブツ繰り返しておいででしたが、ミラベルに散々罵倒されて、ようやく信じてくれたようです。
後は顔を赤くして黙り込み、わたくしからずっと目を逸らしているので申し訳なくなりました。
ここまで動揺させるなんて……この結婚、やはり無理があるのかしら。
さらに厄介だったのは、晩餐の席での話し合いでした。
ステイプルトン家が結婚式の費用を負担すると申し出た途端、ヒューバート様はきっぱり辞退なさったのです。
けれど侯爵家当主の披露パーティーとなれば相当な規模になるはず。
金欠状態のヘビントン侯爵家には重荷でしかありません。
わたくしは、資金援助の面子を立てるために彼が結婚を受け入れたのだと思っていましたが……これでは、何のための結婚か分からなくなります。
プライドとは、本当に面倒なものです。
「侯爵邸で式を挙げるのは構わんが、王太子と第二王子が出席するんだろう? ケチったら何を言われるか分からんぞ。料理は、あのロレッタ殺しのコックに任せずに、五つ星レストランの料理長を呼ぼう。それくらいはこちらで出させてくれ」
クライヴ兄様はそう言って食い下がりました。
ちなみにロレッタとは、兄様が溺愛していたミニブタの名です。
兄様は猫好きのくせに猫は飼わず、なぜかミニブタを宝物のように扱っていました。
「媚びる猫は見たくない」との理由ですが……だったら犬にすれば良かったのです。ミニブタなど飼うから、あんな悲劇が起きたのだわ。
ロレッタは隣家に迷い込み、その家のコックに食材として調理されてしまったのです。兄様には重すぎる傷だったのでしょう。
ミラベルはコックを連れて謝罪に来ましたが、謝罪の品が豚の丸焼きだったせいで、逆効果どころではありませんでした。
ミラベルが「まだ根に持ってるの?」と呆れた顔で言う横で、ヒューバート様は渋々頷かれました。
「分かったよ、クライヴ。そこだけ頼めるだろうか? だが、他はヘビントン侯爵家でどうにかする。心配はいらないよ」
その言い方があまりにつらそうで、兄様も黙るしかありませんでした。
ところが、普段は影の薄いお父様が、代わりにはっきり申し上げたのです。
「我々が今あるのは、ヒューバート君のお父上のおかげだ。恩を返せないステイプルトン家にしないでくれ。滞っている債務の返済は、シンシアの持参金を使ってはもらえまいか」
その一言でようやくヒューバート様は援助を受け入れ、皆が安堵の息をつきました。
さらに彼は頬を赤らめ、もう一つだけお父様に頼んだのです。
「では……シンシアのウェディングドレスもよいでしょうか。遠慮させたくないんです。必ず、まとめてお返しいたしますから」
明日は教会の予約と、ドレスの採寸を始める予定でした。
俯く彼に、お母さまが柔らかく微笑みました。
「そんなこと、気にしなくていいのよ。それにしても、この子の性格をよく分かってらっしゃるわね。一年とはいえ、婚約していただけあるわ」
その言葉に、ドキリと胸元を押さえたわたくしです。黒歴史の掘り返しは勘弁してほしいですわ。
そっとヒューバート様の方を窺うと、彼も同じく気まずそうに顔を歪めていました。
「……必ずすべて、お返ししますので」
良かれと思った結婚の提案が、気高い彼に屈辱を与えている──その事実は、わたくしの胸を鋭く抉ったのです。




