婚約者と見学 2
名前を呼ばれた気がして、リーデシアはきょろきょろと辺りを見回した。
目の前の青年から何かを言われているが、まったく耳に入らない。
低く落ち着いた、夜空のように包み込み、深海のように抱いてくれる愛しい声。聞き間違えるはずがない。
「アル、どこ?」
小さな呟きだったにも関わらず、それは赤紫髪の青年にもしっかり届いた。聞いた瞬間に青年の背中から、どっと冷や汗が吹き出した。
「ふ、ふふふ副団長殿のご婚約者様でいらっしゃいましたか!? 大変失礼致しました!」
条件反射でビシィッと敬礼する青年。
道理で見たこともないのに見覚えがあった訳だ。実際にあったことはないが、噂は何度も聞いたことがある。
アルフレッド=リグタード副団長。氷の騎士と名高い侯爵子息。常に冷静沈着で、何事にも関心を示さない凍てつく剣。そんな男が唯一執着している存在、婚約者のリーデシア=アルミア。
普段は真面目に訓練をしている副団長が、定時の鐘と共にさっさと帰ろうとする理由。団長からミーティングだと詰所に連れて行かれそうになれば、存在を求めて叫ばれる愛称。
本人の口から直接語られたことはないが、その存在は誰もが知っている。
優しく可憐で美しい、花の精霊のようなご令嬢。
何故気付かなかったと青年は震える。婚約者がいる相手にもしかしてもまさかもない。それどころかとんでもない庇護者がいる相手と二人で話すなんて。
いや、周りには同僚もその他もたくさんいる。大丈夫だきっとと思いながら青年は少女から視線を外した。しかし予想は裏切られる。
同僚も知り合いも遠巻きにするだけで、近くにはまったくいなかった。数百名がいる場所で、ここだけぽっかりと空間が空いているようだ。
終わった、と白い灰になる青年にリーデシアは気付かない。それよりももっと大事な存在を探すことに夢中だった。
中々見付けられずじわりと目が潤んできた少女は、温かな腕に抱き締められてぱっと顔をあげた。
「アル!」
「リディ、何してるんだ」
婚約者のアルフレッドがそこにいた。
潤んでいた瞳がとろりと蕩ける。涙は一瞬で引っ込み、代わりに笑みに彩られた。甘えるように首筋へと頬を擦り寄せれば、婚約者に柔く髪を撫でられる。
リーデシアの可愛い姿にきゅんきゅんするアルフレッド。人目も憚らず構い倒してあげたいが、周囲を牽制することも忘れない。
先程までリーデシアと会話をしていた歳上の部下をじろりと睨め付ける。深海よりもなお暗い瞳に光はなく、表情は消えていた。
すぐに視線を外して元に戻ったが、部下の震えは止まらない。むしろ酷くなった。
後の部下はこう語る。正気がごっそり削られた、と。
興味のない青年を視界から追い出し、アルフレッドはリーデシアに話し掛ける。
「何してたんだ? 今日見学に来るって言ってくれてたら、喜んで案内したのに」
「違うの、今日は見学じゃなくて……」
ちらりとハンナを見るリーデシア。
彼女の目線が他所に奪われてむっとするアルフレッド。
それに気付くことなく、少女は婚約者の耳へと唇を近付けた。内緒よ、と前置きをして。
「ハンナがね、騎士団に好きな人がいるんだって」
「へー」
「しかも複数! 最近の恋愛って凄いのね」
「そうかー」
一切興味がなさそうな返事だった。実際心底どうでもいいので仕方がない。
どうやら未知の体験に興奮しているらしいリーデシアを撫でながら、アルフレッドは投げやりにハンナがいる方向を眺めた。
そこにはほくほく笑顔で小袋を受け取るハンナと、にこにこ笑顔で木札を懐へしまう団員がいた。
アルフレッドはリーデシアへ視線を戻し、もう一度ハンナ達を見る。どう見ても商売の現場だが、リーデシアが恋愛だと思っているのならそれでいいかと黙ることにした。彼は誰が誤解されようが、婚約者に害がなければ流す男なのだ。
「リディ、どうやら向こうは忙しいみたいだから、俺と一緒にいようか」
「え? でも、あまり離れていては迷子になってしまうわ」
「周りに伝えておけば大丈夫。訓練の見学は初めてだっただろう? 案内は任せてくれ」
「そう……じゃあ、お願い」
控えめに繋がれた掌に、アルフレッドは内心でガッツポーズをする。勝った。
副団長の証であるマントを意気揚々とはためかせ、嬉々として見学に託つけたデートを開始した。
***
「つまり? あんたは? わたしが? 複数の男と? 爛れた関係を繰り広げる女だと? そう思ってた訳だ?」
「そうじゃないけどそうですごめんなさいぃ」
ぱっちりした猫目を半眼にしたハンナ。これでもかと口角を歪めて皮肉げに嘲笑う姿に、リーデシアは平謝りするしかない。
場所は変わって騎士団詰所の応接室。来客用の部屋には長いテーブルが中央に置かれ、向かい合うようにソファが配置されている。
シャンデリアは華美でこそないが、シンプルで上品に灯っている。陽光を採り入れる窓は大きく、枠組みには羽ばたく鳥と生き生きと咲く花が刻まれていた。
ハンナは大きく溜め息を吐いて、自分で用意した紅茶を飲み干す。風味も味も楽しまない飲み方だったが、楽しめるほどの心の余裕はなかった。
勝手知ったる様子でポットからどばどばと紅茶を注げば、二杯目をあっという間に空にした。
リーデシアはソファの端で縮こまっている。両手で挟んだカップには同じ紅茶が注がれているが、量が減った様子はない。
ふうふうと息を吹き掛けるだけの少女に、ハンナは幾分か落ち着いた声で喋り出す。
「ダイマと新規顧客開拓しに行くのに、一人だと警戒されるから、悩んで悩んで悩み抜いて、利用するようで気が引けるけど仕方なく貴方を誘って。付き合わせて申し訳ないって思ってたのに、とんだ誤解を受けたものね」
「ごめんなさいハンナ」
「別に? 貴方にとって、わたしはそんな存在だったってことですし? ぜーんぜん気にしてませんけど?」
「ごめんなさいぃ」
ひんひん泣いて謝るリーデシアに溜飲を下げる。
実際には怒りよりも悲しさが大きかったのだが、いつまでもねちねち責め立てるほどハンナは子どもではなかった。
友人よりも優先されたと内心でガッツポーズしていた婚約者とは大違いだ。
しかし一緒に来ておいて、途中で婚約者を優先するのは如何なものだろうか。どうせあの鬱陶しく面倒くさい男に言いくるめられたのだろうが、自分の存在が蔑ろにされたようでむかむかする。
どうやらどちらも子どもだった。割り切れたかと思ったが、やはりまだ落ち着けない。埋め合わせをしてもらわなくては気が済まない。
「明後日空いてるわよね?」
「はいっ、空いてます」
「ならその日も付き合ってもらうから、覚悟してて」
「まあ、また一緒にお出掛けできるの? それは嬉しいわ!」
償いの概念が抜け落ちているリーデシア。反省して小さくなっていた筈なのに、もう元気を取り戻していた。
友人とまた遊べるのだとにこにこ無邪気に笑う姿は、言葉通り幸せそうだ。
ハンナは完全に毒気を抜かれる。
昔からそうだった。
ハンナは商人の娘として、元々は顧客になってくれそうな相手に声をかけていたのだ。
無垢で無知なリーデシアは絶好のカモで、良い取引先にするために仲良くなっただけ。
それが今や自分にとっても相手にとっても、親友のポジションに収まっているとは考えもしなかった。人生何がどう転ぶか分からない。
どうせなら店の商品をがっつり売り付けようと思っていたが、リーデシアの態度にその考えは霧散する。
仕方がないので心の中で、売り付け先は彼女の婚約者である騎士団副団長に変更した。
彼はリーデシアに関することだけは、溶けきらないほど砂糖を入れた紅茶よりも甘い。
財布の紐を絞めるどころかひっくり返す勢いで使ってくれるので、湯水のごとく消費してもらおう。
自身も彼女に甘いことを棚にあげるハンナは、ほわほわと笑うリーデシアを見ながら目元を和ませた。




