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婚約者と乙女  作者: 千鶴
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婚約者と帰途

 意図せず漏れた溜息に、傍らのその人が顔を上げた。

 振り向いた拍子に、夜空のような深い藍の髪がさらりと揺れる。包み込むような深海の瞳が真っ直ぐにこちらを向いていた。

 燦々と照らす光が目映くて、木陰伝いに道沿いを歩いていたせいか。光の遠いこの場では、瞳の色がいつもより濃く見えた。射抜くほど強くはないが、簡単に視線を外せるほど柔らかくもない。


 夏の緑は青々と繁り、蒸すような香りを伝えてくる。

 その中に漂うサンダルウッドの上品な香りは、アルフレッド自身のものだ。穏やかで静かな水面のような、甘く優しい安穏とした匂い。

 鼻孔をくすぐる香りに、彼を強く感じて満たされる。

 繋いでいた手に僅かな力が籠り、彼の方へと微かに寄った。手の甲を撫でる親指は、きっと無意識なのだろう。


 ふわりと涼やかな風が吹いた。通り過ぎるかと思ったそれは、いつまでも傍から離れない。周囲を冷やす不思議な風に、彼の魔力が溶け込んでいた。

 上がっていた体温が緩やかに下がっていく。熱の籠った息をもう一度吐き出せば、体を巡る不快な熱気が薄れていった。

 眉を寄せられた瞳を見つめ返す。凪いだそれに浮かんでいるのは、心配と不安だろうか。

 思わず浮かぶリーデシアの笑みに、彼の瞳が物言いたげに揺れた。


「まだ暑いか?」

「いいえ。もう大丈夫。ありがとう、アル」

「気にするな。それと、あまり無理をするな」

「無理なんてしていないわ」


 ほのかに膨らませた頬をアルフレッドがつつく。弾力を楽しむようにくすぐった指が、乱れた髪を耳へとかけた。そのまま梳く指先が首筋をなぞる。

 こそばゆいような、背筋が粟立つ感覚にびくりと肩が跳ねた。

 リーデシアが潤む瞳に抗議を宿す。首筋からしぶしぶ離れた指先が、掌となって彼女の頬を包み込む。


「リディは我慢強いから、無理なら無理と、嫌なら嫌だと言ってくれ。言葉にしてくれないと、俺の都合が良いように受けとるぞ」

「あなたがそうしたいならどうぞ?」

「……君が嫌がると分かっているのに、そんなこと出来る訳がないだろう」

「ふふ、知ってる」


 琥珀の瞳がきゅうっと細まる。心底嬉しそうな笑みに悪意はなく、からかう気持ちは微塵も含まれていない。ただ純然たる事実を再確認しただけという自信に溢れていた。

 その事に気付いているアルフレッドも責める気持ちはなく、困ったように笑うだけだ。


 真昼の日差しがまだ強く照り付けている。

 いくらアルフレッドの魔力により過ごしやすい気温に包まれているとはいえ、一歩日の当たる場所に出るとじんわりと汗ばむ。


 学園からの帰り道。普段なら馬車を使う道を、彼女の可愛いわがままを聞いて、二人は徒歩で帰っていた。

 学園の周りには自然が多い。帰路の途中までは木々に囲まれており、木陰を選びながら進んでいた。しかしその後は特に陰になる場所はなく、ぎらぎらと太陽が輝いている。


 貴族の令嬢というのは白い肌を評価する。染み一つない雪のような肌が称賛され、望まれる。当然日差しが強い場所では日傘が必須。腕までを覆う手袋は令嬢の必需品だ。

 リーデシアも格式を求められるパーティーでは手袋を含めた正装をするが、基本的にはあまり手袋をつけない。アルフレッドと手を繋ぐときに邪魔だからだ。

 今も彼と手を繋ぐために手袋を外しており、白い肌が日に晒されている。これ以上外にいれば赤く腫れてしまうだろう。


 掌で包み込んだ頬はほんのり温かい。熱気を溜めている様子はないが、無理をさせる必要もない。

 アルフレッドが頬から手を離す。リーデシアの瞳が指先を追った。

 彼女の視線の意味に気付き、アルフレッドは一瞬だけ逡巡する。すぐに戻ってきた指が、甲側を向けて頬に触れた。ひんやりとした冷たさに、琥珀が気持ち良さそうに閉じられる。

 思う存分冷たさを堪能させてあげたいが、今いる場所に長く留めておくのも忍びない。


 十を数える前に離れていった手が、リーデシアの髪をくしゃりと乱す。ふわっとブーケのような花の香りが広がった。そのまま手櫛で整えれば、サンダルウッドと甘く優しい香りが混じり合う。

 瞑られた瞳に悪戯心が湧いたアルフレッドは、彼女が目を開ける前にキスをした。唇同士が軽く触れ合うだけのそれは、熱を溶け合わせることなく離れていく。


 驚いてぱっと目を開けたリーデシアがアルフレッドを見る。自分の唇に人差し指を当てれば、幾度かまばたきを繰り返した。

 まだ理解が追い付いていないらしい彼女に、アルフレッドが満足そうに笑う。その姿でようやく何をされたのか分かったのだろう。二度三度と腕を叩くが、彼は笑うだけだ。

 嫌がることは出来ないと言っていたが、嫌がられないと分かっていれば遠慮なくしてくるのだから質が悪い。


 何度か叩いて落ち着いたリーデシアは、そのまま腕に抱き着いた。しがみついて体重をかけてくる体を、アルフレッドはものともしない。

 次第にずるずると落ちてくる体。リーデシアは暫くぷるぷると耐えてみたが、やがて飽きたのか。離れて普通に歩き出した。

 アルフレッドが腕の温もりを失って物寂しく感じていれば、きょとんとした目が彼を見上げている。

 手を差し出せば、ごく自然に指先を絡ませた。

 薬指のひやりとした感触にアルフレッドの唇が弧を描く。

 彼女の指にはめられた指輪は、以前アルフレッドがリーデシアへと贈ったものだ。


 日差しはまだ弱まらず、二人を穏やかに照らしている。

 薬指に飾られた銀色の指輪が、きらきらと日を反射して眩しかった。


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