第3レグ 手芸自動車部と恐怖の看板事件 ②
二学期が始まって一週間。夏休みの静けさはどこへやら、校舎内はすっかりいつもの活気に溢れていた。
しかし、その三階廊下の奥——手芸部の部室前だけは、不穏で冷たい緊張感が漂い始めていた。
放課後。茜色の夕陽が窓枠越しに長い影を落とす廊下を、カツカツと硬質で毅然としたヒールの音を響かせて歩いてくる一人の女性教師がいた。
二年生の学年主任であり、想与香と乙花の担任を務める数学教師であり、また手芸部の顧問を務める——富川真紀先生だった。
寸分の狂いもなく整えられた黒髪のボブヘアに、スクエア型の銀縁眼鏡。規律と校則を何より重んじる富川先生は、生徒たちから親しみと恐怖を込めて「歩く校則」と噂されている。
富川先生は手に抱えた厚い出席簿と授業計画書に視線を落とし、眼鏡の奥の鋭い目を厳しく細めながら歩を進めていた。
「片岡さん……藤本さん……。
また今日も部活の途中で部室を留守にしているのかしら……?」
富川先生が凛とした足取りで手芸部の部室前に差し掛かり、引き戸の手前で足を止めた……その時だった。
「……ん? なにかしら……これは……?」
富川先生の歩みがぴたりと止まった。
ドアの横の柱に下がっている、手芸部伝統の手刺繍による木枠看板。あたたかみのある生成りの麻布に、カラフルな刺繍糸で『手芸部』と上品に書かれていたはずのその看板。
その『手芸』と『部』のちょうど真ん中に、鮮やかな真っ赤な刺繍糸で『 ⏞ 』という上向きの波括弧が刺繍され、その下に向かってこれまた一針一針並々ならぬ熱意を込めて刺された『自動車』の三文字が付け足されていたのだ。
生成りの麻布に、堂々と自己主張を繰り広げる鮮烈な赤い刺繍
——『手芸自動車部』。
「し、手芸……じ、自動車部……!??」
富川先生の悲鳴に近い叫び声が、放課後の廊下に鋭く響き渡った。
「なんなのこのふざけた表記はー! 手芸部がいつから自動車部になったの!?」
怒りを露わにした富川先生は、ガラリと音を立てて部室の引き戸を力任せに開けた。
室内には大きな作業台を囲み、ミシンや刺しゅう枠を手にして黙々と作業を進めていた一年生の部員たちが数名残っていたが、そこに二年生の想与香と乙花の姿は影も形もなかった。
「と、富川先生……? どうされたんですか……?」
作業台で針を止めた一年生部員たちが、富川先生の青筋の浮かんだ額と鬼の形相に怯え、身体を縮こまらせた。
富川先生は表の看板を指差しながら、室内へと一歩踏み込んだ。
「あなたたち、あれはなんですか? この表のふざけた刺繍は?」
「えっ……あ、あの、知らないです! 二学期が始まったら、いつの間にかああなっていて……」
一年生部員が慌てて両手を振って否定すると、隣でフェルトのパーツを切っていた別の部員が恐る恐る手を挙げた。
「あの……わたし、昨日のお昼休みの時、片岡先輩があの看板を嬉しそうに掛け直しているところを見ました……」
「片岡さんね……! 片岡さんはどこですか? あと藤本さんも見当たらないけれど!」
「お二人とも、放課後になった瞬間に『お先です!』ってカバンを抱えて猛ダッシュで走っていかれました……」
「またあの二人……部活をすっぽかしてどこへ行ったのよ……!
後輩を置いてけぼりにして放課後逃亡なんて、絶対に許しませんよ!」
富川先生がきつく唇を噛み締め、引き戸をピシャリと閉めた音が、静まり返った廊下に虚しく響き渡ったのだった。
◇
翌日の放課後。
「――というわけで、教務室へ呼び出しです!!」
手芸部の部室前で手ぐすねを引いて待ち構えていた富川先生によって、想与香と乙花は教務室の指導机へと連行されていた。
「片岡さん! 藤本さん! あなたたち、二学期に入ってからというもの、部活の終了時間を待たずに毎日どこへ通っているの!
秋には文化祭だって控えているというのに、幽霊部員どころか放課後逃亡ですか!?
一年生のお手本に、あなたたちがならないでどうするんですか!
しかもあの看板の『手芸自動車部』とは一体何事ですか!」
教務室のパイプ椅子に座らされた想与香は、頭を抱えて小さく縮こまった。
隣の乙花も、「だから言ったじゃないの想与香……」と恨めしそうな視線を横から送ってくる。
実はキャブレターやガソリンタンクのレストア作業が順調に進んでテンションが上がりきった想与香が、「私たちの部活はもう手芸自動車部だよ!」と、夜な夜な自宅の部屋で看板に一針一針、心を込めて刺繍を付け足していたのだった。
「先生、言い訳させてください!」
想与香はパイプ椅子から立ち上がると、直立不動で胸を張った。
「言い訳を聞こうじゃないですか!」
「私たちは遊んでるんじゃありません!
おじいちゃんの古い車……KP61スターレットを自分の手で修理して、走らせるために篠塚モータースさんに通っているんです!」
「車を修理!? 高校生が車をいじるなんて危険すぎます!
実績も根拠もないそんな怪しい活動、校則違反です!
即刻やめなさい! 事故でも起きたらどうするんですか!」
富川先生が眼鏡をクイッと押し上げて一蹴する。
しかし、想与香の瞳は燃え上がるような熱を帯びていた。
一度決めたら絶対に曲げない、根真面目な頑固さが爆発する。
「やめません!
私たちは安全第一で、プロの葵さんの指導のもとで真剣にやってます!」
「実績も根拠もない活動を部活として認めるわけにはいかないと言っているんです!」
「じゃあ……じゃあ、実績を作ります!」
想与香は教務室中に響き渡る声で叫んだ。
中にいた教務部の先生たちが驚いて振り返る。
「実績……?」
「はい!
私たちはカプちゃんを自分たちの手で完璧に完成させて、本物のラリーの大会に出て、完走してみせます!
完走すれば、ちゃんとした実績ですよね!?」
「……は?……だ、だいたいあなたは車の免許だって持っていないでしょう!」
富川先生の鋭い指摘に、想与香は自信満々に自分の胸を叩いた。
「私、四月生まれだから春になったら十八歳で免許取れます!」
「冗談じゃありません!
高校生が暴走行為など断じて許可できません!
その篠塚モータースとやら……学校から近くのあの整備工場ね!?
責任者に直接会ってお話してきます!」
富川先生はカンカンに怒りながら、デスクのカバンから愛車のキーを引っ張り出すと、教務室を飛び出していった。
「あ、待ってください先生ー! 車で行っちゃった!」
職員駐車場から富川先生の白いコンパクトカーがエンジンを唸らせて急発進していくのを見た想与香と乙花は、「追いつかないと大変なことになる!」と叫び、教務室を飛び出して階段を駆け下り、学校の正門を抜けて全力疾走で追いかけたのだった。
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