第3レグ 手芸自動車部と恐怖の看板事件 ①
九月の声を聴いてもなお、瑞穂町の街並みには真夏の残り香のような苛烈な日差しが降り注いでいた。
校庭の桜の葉は少しずつ黄色く色づき始めていたが、濡れたアスファルトから立ち上る熱気は、とても秋の訪れを感じさせるものではない。
都立瑞穂高校の二学期がスタートして数日。
夏休み中の静寂が嘘のように、木造混じりの校舎には生徒たちの賑やかな声援や足音が満ちあふれていた。
グラウンドからはサッカー部がスパイクで土を蹴る激しい音と野球部の打球音が響き、体育館からはバスケットボールのバッシュが滑るスキール音、そして三階の校舎からは吹奏楽部が奏でるトロンボーンやクラリネットの音色が響いていた。
放課後を告げるキーンコーンカーンコーンというチャイムが校舎全体に鳴り響くと同時に、片岡想与香と藤本乙花は手芸部の部室で手早く日々の割り当て作業を済ませ、通学カバンを抱えて『篠塚モータース』へと駆け込むのが日課となっていた。
油と金属、そしてパーツクリーナーのツンとした匂いが充満するガレージの奥。
作業しやすい高さまでリフトで下げられた真っ赤なKP61スターレット——通称『カプちゃん』の跳ね上げられたボンネットの下で、ツナギ姿の想与香と乙花がフェンダー越しに並び、エンジンルームを上から覗き込むようにして作業に没頭していた。
「想与香、インテークマニホールドのガスケット、ちゃんと新品に交換した?
古いガスケットの削り残しがコンマ数ミリでも残ってると、そこから二次エアを吸い込んじゃってエンジンの回転が不調になるって葵さんが言ってたわよ」
作業灯の眩しい光に照らされながら、乙花が眉をひそめてエンジンブロックの吸気ポートを覗き込んだ。
「うん! スクレーパーでキレイに削り落として、パーツクリーナーでピカピカに拭き取ったよ!
ほら見ておとはちゃん、鏡みたいにツルツル!」
想与香は自慢げに胸を張り、ウエスで磨き上げたアルミ鋳造の接合面を乙花に見せた。
古い紙ガスケットの固着は、真夏のガレージでスクレーパーの刃先を慎重に滑らせ、幾度も手を滑らせそうになりながら根気強く落とした成果だった。
「よし、合格。じゃあ、オーバーホールが終わったキャブレター、慎重に載せるわよ。せっかく組んだ真鍮のジェットやフロート室を傷つけないように……せーのっ」
二人の息の合った連携で、灯油とキャブクリーナーで磨き上げられて銀色にピカピカと輝く4K-Uエンジン用の純正キャブレター本体が、シリンダーヘッドに取り付けられた吸気マニホールドへと合体された。
「ネジ山を舐めさせないように、まずは手でナットを掛けて……」
想与香は葵から口酸っぱく教え込まれた基本手順を心の中で反唱しながら、指先の感触を確かめるようにボルトへナットをかみ合わせた。
スルスルと滑らかに回る手応えを確認してから、トルクレンチを手にする。
「押しが八で、回しが二……対角線上に、均等に締め込んでいく……っ」
カチン、カチンというトルクレンチの規則正しいクリック音が、静かなガレージに心地よく響く。
夏休み中、連日のように猛暑のガレージへ通い詰め、爪の隙間を黒く染めながら作業を重ねた二人の自動車整備の知識と技術は、一か月前とは比べものにならないほど格段に向上していた。
単にネジを回すだけでなく、「なぜこの順番で締めるのか」「この部品がどういう役割を果たしているのか」を構造から理解した上で、工具を体の一部のように扱えるようになっていたのだ。
「よしっ! キャブレターの復元と装着、完了ーーっ!」
30年分のカチカチに固まったガソリンのガム質を専用のドブ漬け洗浄液に何日も浸けて溶かし、燃料タンクの洗浄やサビ取り、インマニの頑固な古いガスケット剥がしまで並行して進めていたため、気づけば一ヶ月以上の月日が流れていた。
想与香が作業グローブをはめた両手をパンと叩いて歓声をあげると、作業台の向こうでオイルとサビにまみれたエンジンの周辺部品を灯油槽で洗浄していた篠塚葵が、手を止めてクックと喉を鳴らして笑った。
「いい手際になったじゃないか、想与香、乙花。
二学期が始まって放課後の短時間作業になっても、これなら安心して任せられそうだね」
「へへ、葵さんの指導が良いからです!」
想与香が誇らしげにえへへと胸を張ると、作業の手を止めた乙花が「ちょっと手を洗って飲み物取ってきますね」とガレージ奥の事務所へ向かった。
事務所の水道で念入りに手に着いた油を洗い流した乙花は、しばらくしてトレーを抱えて戻ってきた。
その手には、大きなピッチャーに入った冷たい麦茶と、カラコロと涼しげな音を立てる氷の入ったグラスが三つ載っていた。
「麦茶冷えてますよ。はい、葵さん、想与香」
乙花が手際よくトレーからグラスを配り、みんなに手渡す。
作業台の脇にある木製の丸椅子に腰掛け、三人で乾杯するように麦茶を口に含んだ。
ガソリンやパーツクリーナーのツンとした匂いが漂うガレージの中で、パーツを磨き上げたあとにあおる冷たい麦茶の喉越しは格別で、火照った体全体に沁み渡っていく。
「ふぅーっ! パーツをピカピカに拭き上げたあとの麦茶は最高……!」
想与香が頬を緩めて息を吐くと、葵は首から下げた汗拭きタオルで首筋を拭いながら、リフトの脇で静かに佇む真っ赤なカプちゃんをしみじみと見上げた。
「それにしてもさ……こうしてKP61をいじってると、昔を思い出すよ。
増岡のじいさんには昔、本当にお世話になってね。
私がまだ駆け出しのメカニックだった頃、よくラリーの走り方や車のセッティングについて教えてもらったもんだ」
「えっ、おじいちゃんが葵さんに教える側だったんですか!?」
想与香が驚いて目を丸くすると、葵はどこか遠くを見るような眼差しで目を細めた。
「そうだよ。
増岡のじいさんはね、地元じゃ知る人ぞ知る凄腕ラリードライバーだったんだ。
道幅の狭い奥多摩や秩父の峠道で、710キロの軽い車重を活かしてくるくる向きを変える走りは圧巻だった。
親父と一緒に、じいさんの走りを追っかけたもんさ」
「へぇ……! おじいちゃん、やっぱりすごかったんだぁ……」
想与香がおじいちゃんの若い頃の凛々しい走り姿を思い描いていると、隣で麦茶を飲んでいた乙花が、ふとした疑問を口にした。
「あの……葵さん。
そこまでお詳しいってことは、もしかして葵さん自身もラリーに出ていらっしゃったんですか?」
想与香もハッとして葵を見つめた。葵は照れくさそうにあごをさすると、手元のグラスを軽く揺らし、一口あおってからニヤリと笑った。
「ああ。私も10年くらい前まで、全日本ラリーの地区選手権に出てたんだよ。
コ・ドライバーと組んで、インプレッサで全国の山を駆け回ってたのさ」
「ええっ!? 葵さん、現役のラリードライバーだったんですか!?」
「すごーい! 本物のレーサーだったんだ!」
目を輝かせる二人を見て、葵は手をひらひらと振った。
「まあ、過去形だけどね。
結婚した時に、危険を伴うモータースポーツだからって旦那と親父に説得されて、競技からは足を洗ったのさ。今はこうしてショップの整備と指導専門だよ」
「「えっ……! け、結婚……!?」」
想与香と乙花の声が完璧にハモった。
二人はポカンと口を開けたまま、男勝りなツナギ姿でハスキーボイスの格好いい葵をまじまじと見つめた。
「え、葵さん、ご結婚されてたんですか……!?
全然そんな雰囲気がないから、独身だとばかり……!」
葵は可笑しそうにくすっと声を立てて笑うと、目尻を和らげた。
「失礼だね、二人とも。
これでもちゃんと旦那がいるよ。
単身赴任で普段は家にいないけどね。
まあ、ラリーをやめたおかげで、こうしてお前たちみたいな突飛な女子高生の面倒を見る余裕ができたんだから、人生分からないもんさ」
葵はくすくすと笑いながらグラスの麦茶をあおった。想与香は首をかしげ、不思議そうに尋ねた。
「ラリーかぁ……。あの、ラリーって今でも開催されてるんですか?」
想与香が身を乗り出して尋ねると、葵は頼もしく頷いた。
「そりゃあ今でもやってるよ。
愛知の『新城ラリー』とか、群馬の『モントレー』とかね。
国内最高峰の全日本ラリーから、ビギナー向けの地区選手権やデイラリーまで、年間通して全国のどこかでバンバン開催されてるさ。
……なんだ想与香、興味あるのか?」
葵にニヤリと覗き込まれ、想与香は慌てて両手をぶんぶんと振った。
「いえいえ! ちょっと気になっただけで……!
わたし、まだ高校生だから車の免許だって持ってないですし!」
「ハハッ、そりゃそうだ」
葵は愉快そうに声を上げて笑うと、手元のグラスをカトンと作業台のトレーへ置き、パンと手を打ち鳴らした。
「さあ、雑談はおしまい!
新学期が始まって放課後の時間は限られてるんだから、今日のうちにキャブのリンケージ調整まで終わらせるよ!」
「「はいっ!!」」
頼もしすぎる師匠の過去を知り、想与香と乙花はさらに気合を入れてガレージの作業へと戻っていったのだった。
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