第2レグ 真夏の油汚れと最初の仲間 ③
七月の終わり、学校はいよいよ待望の夏休みに突入した。
瑞穂町のカンカン照りの太陽の下、篠塚モータースの広大なアスファルトヤードは、まるで巨大なフライパンのように熱を帯びていた。
ジリジリと蝉の声が降り注ぐ中、ガレージの中だけが日陰を作っている。
「ふぅ……ふぅ……っ! か、硬い……っ! 動かないよぉ……っ!」
ガレージの奥で、つなぎ姿の想与香は額から大粒の汗をダラダラと流しながら、長めのメガネレンチに両手で全身の体重をかけていた。
作業は、レストアの第一の難関
――『腐敗ガソリンの抜き取りと、燃料タンクの取り外し』に入っていた。
ガソリンタンクの中身は、まずタンク底部のドレンボルト(抜き取り口)を緩め、下に置いた受け皿へと長年の腐敗ガソリンを排出する作業から始まる。
しかし、ドレンボルトを外した瞬間、ガレージ内に充満したのは想像を絶する「悪臭」だった。
「うっ……ごほっ! く、臭い……! 鼻が曲がりそう……!」
ガソリンスタンドで嗅ぐような爽やかなガソリンの匂いとは根底から異なる。
例えるならば、腐った銀杏とドブの泥と強烈な化学薬品を混ぜ合わせて数年間熟成させたような、鼻奥にねっとりとこびりつく吐き気を催す悪臭。
ドロドロとした黒いタール状の液体を抜き切った後も、内部にこびりついた残留物とガム質のせいで、金属タンク自体は依然としてずっしりと重い。
「がんばれ想与香、あと二本だ。ボルトの頭、舐めさせるなよ〜」
事務所の扇風機の前で、冷たい缶コーヒーを飲んでいた葵が、のんびりと声をかける。
車体裏のサビついたガソリンタンク固定ボルトは、まるで金属同士が溶着してしまったかのようにカチカチに固着している。
潤滑スプレーを吹きかけ、ハンマーで軽く叩いて振動を与え、慎重にレンチに体重を乗せる。
カチン!
「ぬ、抜けた……! 緩んだ……!」
一本ボルトが緩むたびに、手のひらにじわりと達成感が走る。
けれど、一人での作業には物理的な限界があった。
ガソリンを排出し終わったとはいえ、厚い鉄板で作られたタンク本体は10キロ以上の重量がある。
車体の下側から二本の金属バンドで吊り下げられているため、最後の固定ボルトを緩めながら、重い金属タンクを一人で下から支えつつ引き抜くのは、小柄な想与香にはあまりにも無理があったのだ。
「うう……重い……誰か下から支えてくれたら……っ!」
汗が目に入って激しく沁みる。
強烈な腐敗ガソリンの悪臭に頭がクラクラしながら、想与香が必死にタンクの端を肩と片手で支えて耐えていた、その時だった。
「――ちょっと! 何やってるのよ想与香! 危ないわよ!?」
ガレージの入口から、聞き覚えのある甲高い悲鳴が響き渡った。
白い日傘を差し、冷たい麦茶の入った大きな水筒を抱えた藤本乙花が、私服のサマーブラウスと涼しげなスカート姿で、目を丸くして立ち尽くしていたのだった。
◇
「ちょっと待ってなさい! 私がそこを持てばいいの!?」
乙花は持っていた日傘と水筒を床に放り投げると、お気に入りのサマースカートの裾も気にせず、ガレージの油臭い床に膝をついてKP61の下へと潜り込んできた。
「乙花ちゃん!? なんでここに……!?」
「約束したでしょ!
見張りに行くって! それにしてもこの臭い、一体何なの!?
ドブの中に落ちた生ゴミみたいな臭いがするんだけど!?」
「あはは……
これが三十年熟成された腐敗ガソリンの匂いなんだって……!
おとはちゃん、そっちの金属バンドの端の方、持ち上げててくれる!?」
「きゃーっ! なんか黒い液体が垂れてくる!
分かったわよ、せーのっ!」
二人の女子高生が声を合わせ、必死に腕と肩で重い金属タンクを持ち上げる。想与香が最後のボルトを手早く緩め抜いた。
カチャン! ゴトン!
重厚な金属音とともに、三十年の眠りから覚めた真っ黒なガソリンタンクが、ついに車体から外れて床のダンボールへと転がり落ちた。
「はぁ……! はぁ……! や、外れたぁぁぁーーっ!!」
想与香は床に仰向けにひっくり返り、ガレージの天井に向かって両手を突き出して万歳をした。顔もつなぎも、黒い油と埃でドロドロだ。
隣で一緒にへたり込んだ乙花も、私服のサマーブラウスの袖口に黒いオイルがついているのを見て「きゃーっ! 私のブラウスがー!」と悲鳴を上げていた。
乙花は立ち上がると、事務所から笑顔で歩いてきた葵に向かって深々とお辞儀をした。
「あ、初めまして!
私、想与香のクラスメイトで、手芸部で一緒に部活をやっている藤本乙花と申します! お邪魔しています!」
「丁寧なご挨拶ありがとね。
篠塚葵だ。よろしくな、乙花ちゃん。
……で、ツナギ着るかい?」
葵が奥から出してきたのは、昔使っていた小柄な整備用の赤いツナギだった。
「お部屋お借りして着替えてきます!」
乙花は赤いツナギを抱えると、葵に案内されて事務所の更衣スペースへと向かっていった。
数分後、髪を頭の後ろできゅっと束ね、赤いツナギに身を包んだ乙花がガレージに戻ってきた。
その姿は、まるで新人メカニックのようにキュートで様になっていた。
「よし! 想与香を一人にしておいたら、絶対に途中で熱中症で運ばれるか、ネジをなくして泣くことになるわ。
……しょうがないわね! 私も手伝うわよ!」
「えっ……! 乙花ちゃん、本当!?」
想与香が跳びはねて歓声をあげる。
「勘違いしないでよね!
私は想与香の手が油だらけで手芸部の作業に支障が出るのを防ぐためと、安全管理の監視役なんだから!
あと、この可愛いカプちゃんのパーツが分解されてバラバラになるのが気になるだけ!」
それを聞いた想与香は、目を丸くしたあと、いたずらっぽくくすっと笑った。
「おとはちゃん……
もしかしてツンデレだけじゃなくて、ちょっとSも入ってる……?」
「ちーがーうーわーよ! 友情と安全管理!」
乙花が顔を真っ赤にして叫ぶと、真夏のガレージに二人の弾けるような笑い声が響いた。
ツナギを着た乙花は、手芸部仕込みの圧倒的な「几帳面さ」を即座に発揮し始めた。
ガソリンタンクの取り外しが無事に完了したため、作業は次の重要工程
――エンジンルーム側の『キャブレターの取り外しと分解清掃』へと移行した。
キャブレターとは、ガソリンと空気を混ぜ合わせてエンジン内に適切な混合気を作り出す、精密な機械式燃料供給装置(気化器)だ。
ボンネットを開け、エアクリーナーケースを外し、古くなった燃料ホースとアクセルワイヤーを慎重に切り離す。取り付けボルトを緩めて想与香がキャブレター本体をエンジンマニホールドから取り外し、作業台の上にポンと置いた。
キャブレターのトップカバーを固定している小さなネジ群を、ネジ山を舐めないようドライバーで慎重に緩めて外すと、カチリと蓋が開き、本体内部から小さなスプリングやフロート(浮き)、真鍮製の細かいジェット(ノズル)といった精密なパーツ群が現れた。
(なんだかこれ……ビーズ刺繍の裏側の始末に似てるかも……)
想与香はふとそんなことを思った。
布に一針一針縫い付ける代わりに、金属のネジ山とパッキンで緻密に組み上げられた小さなパーツの群れ。
一つでも位置を違えれば「作品」全体が息を止めてしまうという意味では、手芸もキャブレターも本質は全く同じだった。
想与香がそれらを適当に作業台の上に置こうとすると、乙花が即座に「ストップ!」と声を張り上げた。
「ちょっと想与香! 適当にパーツを作業台の上に置いちゃダメでしょ!
どれがどの位置のネジか分からなくなるじゃない!」
乙花はガレージの隅にあったパーツトレイと油性ペン、マスキングテープ、チャック付きポリ袋を取り出すと、パーツを部位ごとに整理し始めた。
「こっちは一番上の蓋のネジ、こっちは中にあった黄金色の細いチューブみたいな部品!
マスキングテープに『上の蓋用』って書いて袋に分けるの!
写真もスマホで分解する順番に細かく撮っておきなさい!」
乙花は、パーツの形やついていた場所を彼女なりの直感的な言葉でラベルに書き込み、完璧に小分けにしていった。
「す、すごい……! 乙花ちゃん、まるでプロの整備士さんみたい……!」
「手芸の型紙起こしとパーツ管理と同じよ! 基本は整理整頓と記録でしょ!」
作業を見守っていた葵が、感心したように深く頷いた。
「ほう……大したものだ。
その黄金色の部品はメインジェット、蓋のネジはフロート室のボルトだね。
整備で一番大事なのは『分解した通りに元通り復元できること』だからね。
乙花ちゃん、ものすごく筋がいいよ」
「ふふん、当然です!」
葵に褒められて誇らしげに胸を張る乙花と、嬉しそうにキャブレターパーツの洗浄準備をする想与香。
シュゴーッ! という強力なキャブクリーナーのスプレー音とともに、三十年分の黒いタールとガム質が泡となって溶け落ち、その下から美しい銀色の真鍮とアルミの金属肌が少しずつ姿を現していく。
「見ておとはちゃん! 綺麗な銀色が出てきたよ!」
「本当だ……! なんか、汚れたアンティークの銀食器を磨いてるみたいで快感ね……!」
真夏のガレージに、二人の女子高生の爽やかな笑い声が響き渡る。
灼熱の太陽の下、油とガソリンの匂いに包まれながら。
こうして、知識ゼロの女子高生レストアに、頼もしすぎる最初の仲間が加わったのだった。
(続く)




