第2レグ 真夏の油汚れと最初の仲間 ②
夕方六時。
瑞穂町駅の改札を出てすぐの場所にあるコンビニエンスストアのレジで、想与香は甲高い元気な声を張っていた。
葵の見積もりでは、プロの整備工場に頼む場合、パーツ代と技術料(工賃)を合わせて150万から200万円ほどかかるという。
DIYで自分の手と汗を使って作業すれば工賃は大幅に浮かせられるが、それでも新品の交換パーツ代(ブレーキオーバーホールキット、ゴムホース類、タイヤ、ブッシュ類、油脂類)や、車検を通すための諸費用などで、最低でも三十万円から四十万円の実費がかかる。
「高校生のわたしにできること……まずは自分の足で立って、パーツ代を稼ぐこと!」
篠塚モータースでバイト代を出してもらう案も一瞬頭をよぎったが、危険な作業が多い自動車整備工場で、未経験の女子高生を給料を出して雇うゆとりはショップにはない。
葵からも「場所と工具と技術はタダで貸してやる。だがパーツ代の実費は自分で稼ぎな」と言われていた。
そのため想与香は、放課後のガレージ整備の後に夕方から夜までのシフトを入れ、休日も早朝からレジに立った。
時給千円強。コツコツとレジを打ち、商品を陳列し、バイト仲間とシフトの合間に声を掛け合いながら休憩をとり、自分名義の銀行口座にパーツ資金を貯めていった。
手芸部の活動、放課後のガレージ作業、そして夜のコンビニバイト。
十七歳の夏。想与香の毎日は、まるで高回転で回るタコメーターのように、目まぐるしい勢いで回転し始めていた。
◇
七月中旬。
期末テストが終わり、梅雨が明けると同時に真夏の太陽がギラギラと照りつけるようになった、ある日の放課後。
手芸部の部室には、窓から差し込む苛烈な日差しとクーラーの冷気が混ざり合い、布地を裁断するハサミの音と、校庭の桜の木から響く蝉時雨が満ちていた。
「想与香、その生地の端、ロックミシンかけ終わった?」
作業台の向かい側で、淡いブルーの生地にアイロンをかけていた二年生の藤本乙花が、手を止めて想与香に声をかけた。
「あ、うん! もう少しで終わるよ〜!」
想与香は額の汗を拭いながら、手際よく白い綿布をミシンのガイドに合わせて滑らせていく。
しかし、その指先の動きを見ていた乙花が、ふと整った眉をひそめた。
「……ちょっと、想与香。ミシン止めて。手を見せて」
「え? 手?」
想与香が首をかしげながら両手を差し出すと、乙花は作業台を回って想与香のそばへ歩み寄り、その小さな手首をキュッと掴んだ。
指先を真剣な眼差しで覗き込む。
「やっぱり……
ねえ想与香。この爪の間と、指のシワに入り込んでる真っ黒な汚れは、なんなの?
体育のあとの泥汚れじゃないわよね? 泥遊びでもしてきたの?」
「うっ……!」
想与香は思わず手を引っ込めようとしたが、乙花の手首を握る力は強かった。
指先、特に爪の隙間や指の関節の細かいシワにこびりついた、落ちない黒い汚れ。
家の固形石鹸で何度ゴシゴシ洗っても、爪ブラシで皮がむけるほど擦っても落ちない、頑固な機械オイルと金属粉の染みだった。
「あのね、想与香。
手芸部にとって『手』は作品を作る命でしょ?
そんな油汚れがついた手で、繊細な白や淡い刺繍生地を触ったら、油染みがついて台無しになっちゃうじゃない。
それに最近、部活が終わると挨拶もそこそこにどこかへ猛ダッシュで走っていっちゃうし……何か隠してるでしょ?」
乙花の鋭い眼差しに射抜かれ、想与香は観念したように肩を落とした。
「……ごめんなさい、乙花ちゃん。実はね……」
想与香は意を決して、ここ数週間の出来事をすべて白状することにした。
奥多摩のおじいちゃんの納屋で真っ赤なKP61『カプちゃん』を見つけたこと。
その車がおじいちゃんの若い頃のラリーカーだったこと。
プロに見積もってもらったら150万円もかかると言われて絶望したこと。
だけど篠塚モータースの葵さんの協力で自分の手でレストアすることを決めたこと。
そしてパーツ代を稼ぐために駅前のコンビニでバイトを始めたこと――。
「――だから、放課後は篠塚モータースに通って、車の下に潜ったりエンジンの周りをブラッシングしたりしてて
……気をつけて洗ってるんだけど、爪の中の黒い油がどうしても落ちなくて」
想与香が小さくなって申し訳なさそうに説明すると、乙花はしばらく口をポカンと開けたまま、固まっていた。
「……車? レストア……? 高2の女子高生が……自分ひとりで……!?」
「うん……! カプちゃん、すっごく可愛いの。
丸目で、真っ赤で……おじいちゃんの思い出が詰まったあの子が走るところ、どうしても見たいんだよ!」
想与香の目が、一点の曇りもなくまっすぐに輝いている。
乙花は大きなため息をつくと、額に手を当ててあきれたように頭を振った。
「はあー……
想与香が一度言い出したら聞かない猪突猛進な性格なのは知ってたけど、まさか車まで自分で直しちゃうなんて……
相変わらず突飛すぎるわよ」
「うう……ごめんなさい。部活の布、絶対に汚さないように気をつけるから……」
「謝るポイントがズレてるわよ」
乙花はちょっぴり怒ったような顔をしながらも、デスクの上の自分のカバンへ向かうと、中からお昼のお弁当の残りの小さなタッパーを取り出した。
「ほら、立って。洗面台へ行くわよ」
「え? タッパー? 洗面台?」
「いいから来なさい」
乙花に腕を引かれ、想与香は部室を出て廊下の突き当りにある学校の洗面台へと向かった。
乙花がタッパーのフタを開けると、甘酸っぱく爽やかな柑橘類の香りが洗面所にふわりと広がった。
中に入っていたのは、お昼に乙花が食べたみかんの皮だった。
「おとはちゃん、これなぁに?」
「みかんの皮よ。お母さんが教えてくれた手芸の知恵袋。
柑橘類の皮に含まれてる『リモネン』っていう成分はね、油脂を溶かす天然のクレンジングオイルになるの。
刺繍糸についちゃった機械油や、ミシンの油汚れを落とすときにも使うんだから」
乙花は蛇口をひねって想与香の手を水で濡らすと、みかんの皮を小さくちぎり、オレンジ色の皮の表面を想与香の指先に擦り付けた。
ぎゅっと揉み込むと、みかんの皮から甘酸っぱい果汁とオイルが滲み出し、想与香の爪の隙間に浸透していく。
「あ……! すごい! 黒い油が浮いてきた……!」
「そうでしょ。柑橘のオイルで油分を浮かせてから、固形石鹸で洗うの。爪ブラシで皮膚を傷つけるよりずっと綺麗に落ちるわよ」
泡立てた石鹸で洗い流すと、あんなに頑固だった爪の隙間の黒ずみが嘘のように消え去り、綺麗なピンク色の爪が現れた。
「乙花ちゃん……すごい! さすが手芸部のお姉さん……!」
感動して目を輝かせる想与香に、乙花は少し照れたようにツンと横を向いた。
「べ、別に想与香のためじゃないわよ。部活の貴重な生地が汚れると困るからなんだからね。
……それにしても、そんなに夢中になる車って、一体どんな車なのよ」
「本当に可愛いの! カプセルみたいで、ジャングルジムみたいな骨組みが入ってて
……あ、今度見にくる?」
「……まあ、想与香が暑さで倒れてないか見張りついでなら、行ってあげなくもないけど」
乙花のツンデレな言葉に、想与香は「やったー!」と弾けるような笑顔を見せたのだった。




