第2レグ 真夏の油汚れと最初の仲間 ①
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六月の終わり。
ジメジメとした梅雨の長雨が瑞穂町の街道を濡らし、校庭の隅に咲く紫陽花の花弁を重たく湿らせていた頃、片岡想与香の放課後は劇的な変化を迎えていた。
「もしもし、おじいちゃん? 想与香だけど……あのね、びっくりしないで聞いてね!」
日曜日の夕方、自分の部屋のベッドに腰掛けた想与香は、スマートフォンのスピーカー越しにおじいちゃんへ声を弾ませていた。
窓の外からは、雨上がりの濡れたアスファルトが夕日に照らされる香ばしい匂いが漂っている。
『ん? どうしたんだい想与香。篠塚モータースの葵さんから連絡があって、カプちゃんを工場まで運んだと聞いているが……何か不具合でもあったかい?』
電話の向こうから聞こえるおじいちゃんの声は、どこか遠慮がちで、昔の愛車を引っ張り出してしまったことに少し気後れしているようだった。
想与香はベッドの上でグッと身を乗り出した。
「ううん、逆なの! 葵さんにカプちゃんを診てもらったらね、ボディもフレームもすごく綺麗で、ちゃんと直せば走れるって言ってもらえたの!」
『おお、そうか! そいつはよかった。
……だがな想与香、三十年も放置していた車だ。プロに頼んだら、直すのに相当な金額がかかるだろう? 俺には到底、払ってやれるような余裕は……』
「ううん! 頼まないの! 葵さんがね、『場所と工具は貸してあげるから、自分の手で直してみないか』って言ってくれたの。だからわたし、自分の手でカプちゃんをレストアすることにしたよ!」
電話の向こうで、ぴたりと静寂が流れた。
おじいちゃんが息を呑む気配が、スマートフォンのマイク越しにはっきりと伝わってくる。
『な……なにを言っているんだ想与香! レストアだと!? 車の整備なんて、大人の男だって怪我をするような大変な作業なんだぞ!
道具だってまともに握ったことがない女子高生が一人で車を直すなんて、そんな無茶なこと……!』
おじいちゃんの声には、孫を心から心配する焦りと驚きが色濃く滲み出ていた。
想与香はスマートフォンの画面をギュッと両手で握りしめ、胸を張って言葉を返した。
「無茶じゃないよ、おじいちゃん。葵さんがちゃんと横について教えてくれるし、安全第一でやるって約束したの。
それにね……わたし、納屋でおじいちゃんの整備ノートを見たでしょ?
『KP61は710kgの羽を持つ』って書かれたあのノート。
おじいちゃんが若い頃、大切にしてたあの真っ赤なカプちゃんが、もう一度元気に走るところを……おじいちゃんに見せてあげたいんだよ!」
想与香の言葉には、迷いや揺らぎが一切なかった。
針と糸で一針一針縫い進める時のように、まっすぐで揺るぎない情熱がそこにはあった。
『想与香……』
電話の奥で、おじいちゃんが深く息を吐く音が聞こえた。
長い沈黙のあと、どこか目頭を熱くさせたような、震える声が響いた。
『……参ったな。お前は昔から、一度言い出したら絶対に曲げない子だったが……まさか俺の古い車のために、そこまで言ってくれるとはな……。
分かったよ。そこまで覚悟があるなら、俺は何も言わん。だがな、想与香。絶対に無理だけはするなよ。怪我をしたら元も子もないんだからな。
困ったことがあったら、いつでも俺に相談するんだぞ』
「うん! ありがとう、おじいちゃん!
わたし、絶対にカプちゃんを走らせてみせるからね!」
おじいちゃんからの温かいエールを受け、想与香の心には力強い情熱の炎がポッと灯ったのだった。
◇
「いいかい、想与香。
工具を持つ前に、骨の髄まで叩き込んでおいてほしい鉄則がある」
『篠塚モータース』の広大なガレージの奥。
金属の冷たい匂いと古オイルの香ばしい香りが充満する空間で、紺色の作業ツナギを着た篠塚葵が、ずっしりと重いスチール製の三段工具箱をドンと作業台の上に置いた。重厚な金属音がガレージの天井に響き渡る。
「整備作業で一番やっちゃいけないのは怪我だ。
次はネジ山を舐めらせること。
その原因の九割は、体調管理を含めた集中力の欠如、工具のサイズ違い、それから作業環境の散らかりから来るんだよ」
葵は腕組みをし、鋭いプロの眼差しで想与香を見つめた。
「怪我を防ぐために何より大事なのは、自分の体のコンディションだ。
睡眠不足だったり、熱中症気味だったり、少しでも体調が悪い時は絶対工具を握っちゃいけない。
車は数百キロから一トンを超える鉄の塊だ。集中力が一瞬切れただけで、指を挟まれたり、重い部品の下敷きになって大事故になる」
「はいっ……! 体調が悪い時は絶対に無理して作業しません!」
「よし。それと作業中の『整理整頓』だ。
使った工具や外したボルトをそのへんにポイポイ転がしておく奴は、整備士失格だね。
足元に転がったスパナを踏んで滑ったり、ふっと手を伸ばした時に転がっていた鋭利なパーツで手を切ったりする。
何より、どこに何があるか把握できてないと、元通り組めなくなる。工具は使ったら指定のトレーに戻す。
パーツは順番に並べる。これができないなら、今すぐ帰ってもらうよ」
「整理整頓ですね! 手芸部でも生地やハサミ、針の管理は徹底してるので、任せてください!」
学校の制服から葵に借りたつなぎに着替え、長かった髪を頭の後ろで一つにきつく結び、軍手とプラスチック製の保護メガネを装着した想与香は、背筋をピンと伸ばして力強く頷いた。
髪の巻き込み防止、目の保護、手袋の着用。どれも自分の身を守るための大切なステップだ。
葵は満足そうに口端を上げると、工具箱の中からずっしりと冷たい金属の棒――ソケットレンチとラチェットハンドルを取り出し、想与香の手の上に載せた。
「これは『ラチェット』。ボルトを回すための基本中の基本工具だ。
カチカチと一方向にだけ空回りする構造になってるから、手を持ち替えずに連続で回せる。
そして、固着したボルトを緩めるときの黄金比は『押しが八で、回しが二』だ。
力任せに回そうとすると、ボルトの頭が丸く潰れて二度と回らなくなる。
しっかり奥までソケットを押し当てて、軸ブレしないように体重を乗せるんだ」
「押しが八、回しが二……!」
想与香は葵の手本を喰い入るように見つめながら、心の中で何度もその言葉を反芻した。
葵の整備講義は非常に実践的だった。
「さて、カプちゃんのレストアだが、まずは安全の確保と状況把握からだ。
いきなりエンジンをかけようとしたり、大きなパーツを外したりしちゃダメだ。
車いじりの第一歩は、電装系のショートや火災を防ぐために『バッテリーのマイナス端子を外すこと』。
これがすべての基本だ」
葵の指導のもと、想与香は10ミリのスパナを手に取り、真っ赤なカプちゃん(KP61スターレット)のボンネットを開けた。
三十年間眠り続けていたエンジンルームは、分厚い埃と乾いた泥、古びたオイルの皮膜で覆われている。
想与香は10ミリのスパナを慎重にバッテリーのマイナス端子のボルトに掛けた。
「押しが八……回しが二……っ!」
グッと体重をかけると、『パキン!』という小さく心地よい金属音が響き、固着していたボルトが緩んだ。
「できた……! 外れました、葵さん!」
「よし、上出来だ。端子が滑り落ちてバッテリーに再接触しないように、絶縁テープで巻いて脇に逃がしておきな。
次はエンジンルームの埃落としだ。ワイヤーブラシと柔らかいブラシを使って、長年の泥と埃を払っていくよ」
シュッシュッとブラシを動かすたびに、黒ずんでいた4K-Uエンジンのヘッドカバーやエアクリーナーケースの表面から埃が落ち、古い金属の地肌が覗く。
さらに、プラグレンチを使って点火プラグを一本ずつ抜き取り、プラグの焼け色やサビの状態をチェックする。
「プラグの先はサビてないね。エンジン内部の固着は最小限かもしれない。
オイルレベルゲージを抜いてごらん。……うん、真っ黒だけどオイルは残ってる。
最悪の焼き付きは免れてるな」
「よかったぁ……! カプちゃん、エンジンの中は無事なんだ!」
「甘く見るなよ。本番はここからだ。
ガソリンタンクと燃料ラインの腐敗ガソリン抜き、そしてキャブレターのオーバーホール、ブレーキの分解清掃……やることが山積みだ」
手芸で使う小さなハサミや刺繍針とは何もかも重みも手触りも違うけれど、ずっしりと重い金属工具の感触と、磨くほどにカプちゃんが応えてくれる手応えは、想与香にとって胸が踊るほどワクワクするものだった。
そして、もう一つ。カプちゃんを蘇らせるために想与香が始めた重要なミッションがあった。
資金稼ぎのアルバイトだ。
「いらっしゃいませー! お弁当温めますか?」




