第1レグ 納屋で見つけた赤い宝物と大きな夢 ③
そして、翌週の土曜日。
おじいちゃんが手配してくれた積載車によって、奥多摩の納屋から無事に引き揚げられたKP61は、瑞穂町の整備工場へと運ばれていった。
部活が終わった後、工場に車が到着したという連絡を受けた想与香は、「カプちゃんにまた会える!」と胸を甘酸っぱく躍らせながら、制服のまま愛用の自転車を全力で漕ぎ、教えられた住所へと急いだ。
『篠塚モータース』
学校から自転車でわずか五分ほど。国道から一本入った工業エリアにあるそのショップは、もともと大型トラックの車庫だった場所を居抜きで使っているらしく、個人経営のチューニングショップとしては不自然なほど敷地が広大だった。
周囲は高い万年塀とフェンスに囲まれ、敷地内には何台かの整備待ちと思われる車が並んでいる。
大きな金属製蛇腹ゲートをくぐると、工場奥の巨大な2柱リフトの前で、作業ツナギを着た背の高い一人の女性が立っていた。
肩のあたりで無造作に縛った黒髪、ガタイのしっかりした恵まれた体格、油でうっすら汚れた紺色の作業着姿。
男社会と言われる自動車整備業界でバリバリ叩き上げられてきた、凄腕プロメカニックの圧倒的な佇まいだった。
想与香は自転車を止めると、ペコリとお辞儀をした。
「初めまして! 片岡想与香です!
お姉さん、おじいちゃんがお世話になっています!」
女性は嵌めていた分厚い作業グローブを脱ぐと、サバサバとした気持ちのいい笑顔で手を振った。
「丁寧な挨拶ありがとね。葵でいいよ。
増岡のじいさんには昔、うちの親父が色々と世話になってるからね。
……それにしても」
篠塚葵は、リフトの上に載せられた真っ赤なKP61を見上げ、感心したように口笛を吹いた。
「丸目の初期型KP61か。
増岡のじいさん、まだ持ってたんだねぇ。
今となっちゃ、めったにお目にかかれないお宝だよ」
葵は壁のボタンを慣れた手つきで操作し、リフトでKP61をぐんぐんと高く持ち上げた。
「うわぁ……!」
車体全体が想与香の背丈よりも高く持ち上がり、普段は見ることのできない車体の裏側が露わになる。葵は手にLEDライトを持ち、手慣れた足取りで車の下へと潜り込んだ。
サスペンションを力強く揺らし、小さなハンマーでブレーキ周りや下回りのフレームをコツコツと叩いて異音やサビの進行具合を厳しくチェックしていく。
その鋭い眼差しは、プロの技術者そのものだった。
見上げながら、想与香は胸の前で両手を握りしめ、不安そうに尋ねた。
「あの……葵さん。……直るんですか?」
「ちょっと待ってな」
下回りのチェックを終え、リフトを元の高さまで下ろした葵は、手慣れた手つきでフロントのボンネットロックを外し、ババッと豪快に跳ね上げた。
その瞬間、古いエンジンオイルと埃、そして何とも言えないドロリとした強烈なガソリンの腐敗臭が周囲に漂い、想与香は思わず「うっ」と鼻を突く異臭に顔を顰めた。
「カプちゃん、直りそうですか……?」
「カプちゃん?」
「あ、見た目がカプセルみたいで可愛いから。
それと、KP61だから『カプちゃん』」
「ふん、可愛い名前だね」
葵はニヤリと可笑しそうに笑うと、汚れたタオルで手についた油分を拭き取りながら、想与香に向き直った。
「……よし、結論から言うよ」
葵はハッキリとしたハスキーな声で言い放った。
「ボディの程度は奇跡的だ。
納屋で分厚い防炎シートを被ってたおかげで、金属のサビや腐食も最小限で済んでる。
骨組みであるフレームもしっかりしてるよ。
……だがね」
葵は跳ね上がったボンネットの中、黒く汚れたエンジンルームを指差した。
「三十年の放置は伊達じゃない。
燃料タンクの中のガソリンは完全に腐ってタール状に固まってる。
燃料ラインもキャブレターも全バラしでオーバーホール──分解清掃が必要だ。
ブレーキはピストンがサビで完全に固着してて動かない。
タイヤはもちろん、ゴムホース類やブッシュ類も全部カチカチに劣化してて要交換。油脂類もフル全換えだ」
想与香はゴクリと固い唾を飲み込んだ。
「直せるよ。パーツさえ集めればね。
……でも、ウチみたいなプロの整備工場に全部丸投げして直すとなると、パーツ代に加えて膨大な『工賃』がかかる。
ざっと見積もって……最低でも150万から200万円ってところだね」
「ひゃ、150万――!?」
想与香の声がひっくり返った。
ひゃくごじゅうまん。
高校二年生でお小遣いが月三千円の想与香にとって、それは宇宙の彼方にあるような気が遠くなる天文学的数字だった。
「そんなの……絶対無理です……!」
想与香はがっくりと肩を落とした。アルバイトをしたって、高校生の身で150万円なんて貯まるわけがない。
やっぱり、おじいちゃんの言った通り「ただの思い出の粗大ゴミ」として諦めるしかないのだろうか。
せっかく出会えた、この真っ赤で可愛いカプちゃんが元気に走る姿を見られないまま……。
絶望に打ちひしがれて俯く想与香を見て、葵はふっと表情を和らげた。
首から下げた手ぬぐいで汗を拭うと、想与香の頭をポンポンと乱暴に、けれど温かく叩いた。
「なに絶望してんだよ、お嬢ちゃん」
「だって……
150万円なんて、出せるわけありません……」
「工賃が高いなら、話は簡単だろ」
葵は工場の一角、壁一面にズラリと美しく並んだ工具棚と、広大なヤードを親指で指し示した。
「人件費がかかるなら、自分の手と汗で補えばいい。
パーツ代と車検の諸費用だけなら、30万か40万円くらいの実費で済む。
……お嬢ちゃん、自分でレストアする気はないかい?」
「レストア……?」
聞き慣れないカタカナの言葉に、想与香が丸い目をさらに丸くして首をかしげる。
「自分の手で修理するってことだよ」
「えっ、そんなの無理ですよ!
私、車の知識なんて全然ないし、工具だってまともに触ったことないのに……!」
パタパタと両手を振って焦る想与香に、葵はニヤリと頼もしく力強い笑みを向けた。
「場所と工具は貸してやるよ。
私が手の空いた時に教えてやる。
……どうだい? 自分の手で、このカプちゃんを動かしてみるかい?」
「え……」
想与香はゆっくりと顔を上げた。葵の真っ直ぐで力強い瞳が、自分をじっと見つめている。
自分の手で? 車の知識なんて何ひとつない、ただの女子高生の私が?
戸惑う想与香の頭の中で、あの納屋でおじいちゃんの整備ノートに書かれていた、あの言葉が鮮やかによみがえった。
『KP61は710kgの羽を持つ』
あのかわいいカプちゃんを、自分の手で蘇らせる。自分の手で、もう一度あの赤い車体に羽を広げさせてあげる。
もしそれが出来たら――どんなにステキだろう!
想与香は手の甲でぎゅっと鼻を拭うと、油とガソリンの匂いが満ちるガレージの中で、葵に向かってハッキリと力強く頷いた。
「やります……!
私に、カプちゃんの整備を教えてください!!」
想与香のまっすぐな瞳と力強い言葉に、葵は「いい返事だ」と満足そうに口端を上げた。
「だが、甘く見るなよ、お嬢ちゃん。
手は真っ黒になるし、爪の中の油汚れは当分落ちない。
服には強烈なガソリンの臭いが染みつく。
……それでも、後悔しないかい?」
「はい!
カプちゃんをもう一度走らせることができるなら、なんだってやります!
それから……お嬢ちゃんじゃなくて、想与香でいいです!」
力強く宣言した想与香の白い頬には、葵のグローブから移った黒いオイルが一筋、勲章のようにすっと付いていた。
夕陽のオレンジ色が差し込むガレージの奥で、リフトの上に載った丸目の『カプちゃん』が、まるで新しい主人の誕生を静かに待っていたかのように、鈍く力強く輝いている。
針と糸しか握ったことのなかった女子高生の小さな手が、ギュッと力強く拳を握りしめた。
こうして、知識ゼロの女子高生による、油と汗にまみれたガレージDIYレストアの熱い日々が――今、幕を開けたのだった。
(続く)




