第5レグ 咆哮する4Kエンジンと奇跡のファースト・ドライブ ③
想与香は右手に伝わる確かな手応えでシフトノブを左右に揺らし、ギアが確実にニュートラルに入っていることを確認した。
さらに左足でズッシリと重いクラッチペダルを床までぐっと深く踏み込み、セルモーターの負担を減らして安全を確保する。
そして、ダッシュボードの下からノブを手前に引き、手動チョーク弁を少しだけ開いて、冷え切ったキャブレターへ濃いガソリンを送り込む準備を整えた。
ステアリングコラムの鍵穴へ、カチリと澄んだ音を立てて鍵を差し込む。
「みんな……かけるよ……!」
想与香がフロントガラス越しに声をかけると、カプちゃんの周りに立つ乙花、莉子、陽葵、そして葵が、力強く固い眼差しで頷いた。
想与香は左手でステアリングをしっかりと握り締め、右手に祈りを込めて、キーを右へと強く捻り込んだ——!
ジジジ……キュキュキュキュキュキュキュ……!!
セルモーターが乾いた高い金属音を立てて勢いよく回転を開始し、三十年固まっていたクランクシャフトを強引に回し始めた。
しかし、エンジンはすぐにはかからない。
三十年分の眠りはあまりにも深く、乾燥しきっていたシリンダー内部や吸気ポートへガソリンが行き渡るまでに時間がかかるのだ。
「焦るな想与香! アクセルペダルをポンポンと二回踏んで、加速ポンプからキャブレターへガソリンを直接噴射してやりな!」
車外から葵が叫ぶ。
「はいっ……! アクセル、ポン、ポンっ……!」
想与香が右足でペダルを小刻みに踏み込む。キャブレターのノズルから、生のガソリンが燃焼室へと直接送り込まれた。
二度目のトライ。想与香はキーを再び『START』の位置へ強く捻り込む!
キュキュキュキュ……バボッ!……キュキュキュキュ……!
「火がついた! 初爆が来たぞ! そのままセルを回し続けろ!」
葵の叫び声に背中を押され、想与香は呼吸を止めたまま、祈るようにキーを捻り続けた。
キュキュキュ……バボボッ!……バボバボバボッ……!!
シリンダー内でピストンがガソリンと空気を吸い込み、莉子が完璧に時期を合わせたスパークプラグが鮮やかな青い火花を散らす。
4つのシリンダー内でガソリンの爆発が連続し始め、頑丈なキャストアイアンのエンジンブロック全体が、ブルブルと歓喜の振動を上げ始めた!
そして——次の瞬間!
「バボバボバボッ……フォオオオオーーーーーン!!!!!」
一際高く乾いた排気音とともに、真っ赤なカプちゃんが三十年の長い長い眠りを完全に破り、腹の底から炸裂するような力強い咆哮をガレージ全体に轟かせた!
その振動は、まるで何年も編みかけのまま放置されていたぶ厚いウールのセーターに、初めて温かい命が通ったときの鼓動のようだった。
「「「「きゃあああああーーーーーっっっ!!!???」」」」
少女たちの割れんばかりの歓鳴が、エンジンの爆音と吸気音にかき消された!
マフラーのステンレスパイプから、白く甘い排気ガスと未燃焼ガソリンの芳しい匂いがモクモクと立ち上り、ガレージの冷え切った空気を一瞬で「生きたモータースポーツの熱気」へと塗り替えていく。
想与香が足元のアクセルペダルをほんの少し戻すと、手動チョークの効いた4K-Uエンジンは、
「トトトトトトトトトトトトト……!」
という、寸分の狂いもない規則正しく力強いアイドリング音をガレージの中に刻み始めた。
「か……かかった……! エンジンがかかったよぉぉぉーーーっっ!!」
想与香は運転席でステアリングに突っ伏し、溢れ出す大粒の涙でシートを濡らしながら叫んだ。
「すごい……! 本当に動いた……!
息をしてるわ、カプちゃんが……私たちの手で息を吹き返したのよ……!」
乙花が両手で口元を覆い、膝を震わせながら感極まってボロボロと涙を流す。
「シリンダー内圧力正常……油圧警告灯の消灯を確認。
アイドリング回転数1200rpmで極めて安定……完璧な復元状態よ……!」
莉子がメガネのレンズを涙で濡らしながら、胸を激しく上下させて叫んだ。
「きゃーっ! カプちゃんカッコいいーーーっ!
お腹の底から歌ってるよ〜〜っ!」
陽葵が跳び上がって大はしゃぎし、想与香の開けた窓から車内へと飛びついて想与香の首に抱きついた。
葵は腕を組み、マフラーから上がる白い煙と、力強く脈打つエンジンの音と振動を愛おしそうに見つめながら、深々と、何度も深く頷いた。
「よくやった……よくやったよ、お前たち。
増岡のじいさんのスターレットが……お前たちの情熱で、見事に蘇ったよ」
ガソリンとオイルの匂いが立ち込める冬のガレージの中で、四人の少女と一人の指導者は、煤と油で黒く汚れた顔のまま、固く固く抱き合って歓声をあげ続けたのだった。
◇
「よし! エンジンの暖気も終わって、水温も油圧もバッチリ安定してる!」
葵がガレージの大型引き戸をガラガラと力いっぱい押し開けると、冬の澄み切った太陽の光と冷たい風がピット内に一気に流れ込んできた。
『篠塚モータース』のすぐ裏手には、かつて大型トラックの運送拠点駐車場として使われていた、広大な敷地の元トラックヤードが存在していた。
周囲は頑丈な高いフェンスと鍵付きのゲートで完全に外部と遮断されており、地面はフラットな砕石と砂利がギッシリと敷き詰められた完全な『私有地』だ。
不特定多数の人や車が出入りできない遮蔽された私有地であるため、ナンバープレートが付いていないレストア途中の車両であっても、ここでなら安全性を確保した上で走行性能のテストを行うことができる。
「さあみんな! ナンバーなし状態での初の『構内試走』に行くよ!」
葵の号令に、四人は「はいっ!!」と声を揃えて力強く応えた。
まずは全体の安全確認と各部作動チェックのため、元全日本ラリー選手である葵が運転席に乗り込み、助手席に乙花を乗せて試走へ向かった。
葵がクラッチをスムーズに繋ぐと、真っ赤なカプちゃんは力強く転がり出し、ヤードの砂利の上をザザッ、ザザッと力強く踏みしめながらゆっくりと周回した。
ステアリングのぶれ、ブレーキの利き、クラッチの繋がり具合、サスペンションのストロークを慎重にチェックした葵は、ヤードの中央で車をピタリと止めた。
葵はまず運転席のドアを開けて外へ降り、続いて助手席の乙花もドアを開けて外へと降り立った。
そして葵は車体をぐるりと回って助手席側のドアへと移動すると、外で息をのんで見守っていた想与香を大きな手で手招きした。
「想与香! 構内限定だ。お前が運転席に乗って、カプちゃんのハンドルを握ってごらん!」
「えっ……! わ、わたしが……!?
でも、わたし、まだ教習所でMTの練習中だし、正式な免許だってまだなのに……!」
想与香は目を丸くして戸惑った。
そんな想与香に、葵は助手席のドアを開けたままニッコリと温かい笑顔を向けた。
「大丈夫だ。ここは外部と完全にフェンスで仕切られた無人の私有地だ。
不特定多数が往来する『道路』じゃないから、法律的にも無免許運転には一切当たらない合法な敷地内テストだ。
半年以上かけて、自分の手で組み立てて直した車の本当の感触を、お前の手と足で直接確かめてみな!」
「はいっ……! やりますっ!!」
想与香は胸を激しく高鳴らせ、作業ツナギの袖をギュッとまくり上げた。
そして、ヤードの中央でエンジンを軽やかに響かせている真っ赤なカプちゃんのもとへ一目散に駆け寄ると、開け放たれたドアから運転席へと吸い込まれるように滑り込んだ。
教習車のコンフォートとはまったく違う、ズッシリと手応えのある重ステ。
そして、右足で確かめたブレーキの固い踏み応えと、左足に伝わるクラッチペダルの重い反発力。
助手席に乗り込んだ葵が、優しく語りかけた。
「慌てなくていい。アクセルをほんの少し踏んで回転数を1500回転くらいに保ちながら、左足のクラッチをゆっくり解放していくだけだ」
「はい……っ!」
想与香は右手でしっかりと重厚なステアリングを握り、左手をシフトノブへ添えた。
左足で重いクラッチペダルを床まで踏み込み、吸い込まれるような確かな手応えとともにギアを1速へと滑り込ませる。
続いてサイドブレーキレバーを少し持ち上げた。
もともとおじいちゃんがラリーで走らせていた頃のスピンターンノブが組み込まれているため、ボタンを押さずともロックはスッと外れ、レバーが滑らかに下へと落ちてパーキングブレーキが解除された。
右足のつま先でアクセルペダルをわずかに踏み込み、回転数を1500回転ほどに保つと、フロントの4Kエンジンがフォーン!と澄んだ心地よい吸気音を響かせる。
想与香は耳を澄まし、足の裏の感覚を研ぎ澄ませながら、左足のクラッチペダルをミリ単位で慎重に緩めていく——。
(繋がる……! カプちゃんが……今、わたしとひとつに繋がる……!)
半クラッチのポイントに差し掛かった瞬間、リアのふたつのタイヤがしっかりと砂利を噛み締め、軽量な車体全体がぐっと力強く前に押し出された!
「動いた……っ! 走ったぁぁぁーーーっ!」
クラシカルなキャブレターの鋭いレスポンスとともに、真っ赤なKP61が力強く前進を開始した!
「よし! そのままアクセルを踏み込んで、2速に入れてごらん!」
葵の指示に従い、想与香は1速でフォーン!と回転を上げたところで素早く2速へシフトアップ! クラッチを繋ぐとエンジンの回転音が一瞬グッと落ち着き、そこから太いトルクに乗って車体がさらに軽快な加速を見せる!
想与香は夢中でステアリングをじわりと切り込んだ。
パワステのない重厚なステアリングからは、前輪タイヤが砂利の粒ひとつひとつを捉えて転がるリアルな路面情報が、ダイレクトに想与香の両手のひらへと伝わってくる。
「すごい……! すごいよ! 車が生きているみたい!
私たちが磨いて直したパーツが、全部かみ合って動いてるんだ……!」
想与香の顔に、弾けるような笑顔が咲き誇った。
アクセルをさらに強く踏み込むと、直列4気筒エンジンが歓喜のサウンドを奏で、リアタイヤが砂利煙をパッと豪快に巻き上げてヤードを爽快に駆け抜ける!
「想与香先輩ーーーっ! すごいーっ! 走ってるーっ! カプちゃんが走ってるよーーーーっ!」
ヤードの端で見守っていた陽葵が、跳び上がりながら両手をぶんぶんと振って叫んだ。
「想与香っ! 最高にカッコいいわよーっ!」
乙花がタオルを振って大声で叫び、莉子もメガネをキラリと光らせながら、胸がいっぱいになったように静かに熱い拍手を送っていた。
砂利煙を上げて元気にヤードを二周した想与香は、みんなの待つ中央へ戻ると、ブレーキを踏んで車を静かにピタリと止めた。
想与香は息を整えながら、シフトレバーを中央のニュートラルの位置に戻し、ノブが左右にスムーズに動くことを確認した。
そして、右手でサイドブレーキレバーをグッと引き上げると同時に、先端のスピンターンノブを指先でスッと押し込んで、カチッとパーキングロックをかけた。
安全を確認し、エンジンをアイドリング状態にしたままドアを開けて外へ飛び出した。
「みんなーーーっ! 走ったよ! カプちゃん、めちゃくちゃ軽くて、力強くて、最高に気持ちいいよーーーっ!」
「想与香っ!!」
乙花と陽葵が真っ先に駆け寄り、想与香と三人で固く固く抱き合った。
続いてゆっくりと歩み寄ってきた莉子も、照れくさそうにしながらも二人の背中にそっと優しく手を重ねた。
冷たい冬の北風が吹き抜ける中、立ち込めるガソリンの匂いと排気ガスの温もり。
油と煤で顔を黒く汚した四人の少女たちは、自分たちの情熱と手芸の技で蘇らせた真っ赤な愛車を囲み、弾けたような大歓声を冬の空高くへと響かせ続けたのだった。
春は、もうすぐそこまで来ていた。
(続く)
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