第6レグ 桜舞う公道と710kgの翼 ①
四月四日。
瑞穂町の街並みをやわらかな春の光がつつみ込み、満開の桜並木からは風が吹くたびに淡いピンクの花びらが雪のように舞い踊っていた。
冬の厳しい寒さは完全に去り、萌え出る新緑の匂いと温かな春風が、これから始まる新しい季節の喜びを全身に感じさせる素晴らしい朝だった。
そしてこの日、片岡想与香がついに十八歳の誕生日を迎えた。
十八歳——それは、彼女にとって単なる年齢の節目ではなかった。
車を愛し、古びた一台のKP61スターレットに半年以上の青春を捧げてきた想与香にとって、法的に自分の手でステアリングを握り、本物の道路へと躍り出ることを許される絶対的な『解禁日』に他ならなかった。
瑞穂自動車教習所での路上市街地教習と卒業検定を一切の減点なしのストレートでパスしていた想与香は、誕生日当日の朝一番で小金井市にある府中運転免許試験場へと向かった。
早朝の武蔵野線を乗り継ぎ、武蔵小金井駅からバスに揺られて到着した試験場の大ホールには、朝早くから詰めかけた大勢の受験生たちの独特な緊張感が漂っていた。
受付を済ませ、指定された8番のパイプ椅子に腰掛ける。
手垢のついた道路交通法の問題集を膝の上で握り締めながら、想与香は何度も深く息を吸い込み、吐き出した。
実技教習では教官たちから「瑞穂自動車教習所の開校以来の超天才」「異次元の車体感覚」とまで絶賛された彼女だったが、文字と数字がギッシリ詰まった学科問題に対しては、最後まで一抹の不安を抱いていたからだ。
「受付番号1番から50番までの方、第3試験室へお進みください」
館内アナウンスが静かに響き、緊張で指先を少し震わせながら試験室へ入る。
指定された席に着き、マークシートと鉛筆を握り締め、試験開始の合図とともに問題用紙を開いた。
しかし、そこに並んでいた問題を見た瞬間、想与香の脳裏にはこの数ヶ月間、篠塚モータースの事務所で放課後遅くまで付き合ってくれた手芸自動車部の仲間たちの顔が鮮明に浮かび上がった。
莉子が論理的に整理してくれたひっかけ問題のパターン、陽葵が持ち前の明るさと手作りスケッチブックで教えてくれた『幅員減少』と『車線数減少』の標識の違い、優先関係や事故防止に関する複雑な交差点ルール、マナーの基礎、そして乙花が毎日繰り返し出題してくれた模擬テストの記憶——。
仲間たちの温かいサポートのおかげで、解き進めるペン先に迷いはなかった。
そして、運命の合格発表。試験室前の大型電光掲示板に、パッと明かりが灯る。
そこに表示された合格者の受験番号一覧の中に、想与香の番号「0008」がはっきりと、誇らしげに光り輝いていた。
「……あった! 私の番号……合格だ……!」
受付窓口で真新しいプラスチック製のカード——『普通自動車運転免許証(マニュアル限定解除)』を受け取ったとき、想与香の視界は溢れ出す涙で少し潤んでいた。
自分の写真と名前、そして『普通』の文字。
それは彼女が自分の手で勝ち取った、カプちゃんとともに世界へ飛び出すための最高のパスポートだった。
さらに試験場のロビーのベンチに腰掛けた想与香は、震える指先でスマホを操作し、JAF(日本自動車連盟)のWebサイトを開いた。
現在ではスマホからいつでも受講できる『JAFモータースポーツ・ライセンスオンライン講習』が導入されている。
普通免許さえ所持していれば、モータースポーツの基礎知識や競技規則、フラッグの意味や安全基準に関する約2時間の動画講座を視聴し、各章ごとの理解度チェックをパスするだけで、即座に国内Bライセンスの発給申請が完了するのだ。
スマホの画面上で動画を集中して視聴し、イエローフラッグやレッドフラッグの意味、タイムスケジュール、リエゾン区間でのマナーに関する設問をひとつずつ確実にクリアしていく。
最後の設問を解答し、『送信』ボタンをタップした直後——画面に鮮やかなライセンスカードのグラフィックとともに、ひとつの画面が表示された。
『国内Bライセンス発給手続きが完了しました。申請番号:JAF-B-202X-XXXXX』
画面に表示されたその文字を見つめ、想与香の胸は高鳴りで破裂しそうだった。
「取れた……! 本当に取れたよ……! 普通免許も、国内Bライセンスも……!!」
試験場の重い自動ドアを押し開けて飛び出した想与香は、春風に乗って舞う桜吹雪の中を夢中で駆け抜け、胸に真新しいライセンスと誇りを抱いて、待望の地——『篠塚モータース』へと一直線に向かった。
◇
その頃、『篠塚モータース』の暖かな事務所の中では、葵と手芸自動車部の仲間たちがソファーやパイプ椅子に腰掛け、ソワソワと壁の掛け時計を気にしていた。
電気ポットから立ち上る湯気とともに、室内にはどこか甘く香ばしいお茶の匂いが漂っている。
「そろそろ試験が終わって、合格発表が出る頃かしら……」
乙花が温かいお茶の入った湯呑みを両手で包み込み、窓の外の春の街道を見つめてぽつりとつぶやいた。
「学科試験の開始時刻と所要時間から逆算すると、すでに発表は終わっているはずよ。
手続きに手間取っていなければ、そろそろ想与香の乗ったバスが到着する時間ね」
莉子がノートPCのキーボードを打つ手を止め、メガネのブリッジをくいっと上げながら冷静に時間を弾き出す。
「想与香先輩、大丈夫ですよね……!?
わたしが作ったひっかけ標識クイズ、完璧に暗記してましたから! 幅員減少と車線数減少、間違えてないかなぁ……!」
陽葵がパイプ椅子の上の座布団をギュッと握り締めて身を乗り出すと、壁に背をあずけて腕を組んでいた葵がガハハと豪快に笑った。
「安心しな。あいつの実技と車体感覚は本物だ。
学科だってあれだけお前たちに扱き上げられたんだ、落ちる要素なんてひとつもないさ」
「でも葵さん、想与香って土壇場になると妙なところで緊張してパニックになるじゃないですか。マークシートの記入欄が1行ズレてたとか……」
乙花が心配そうに言うと、「あり得るわね、そのシナリオも計算に入れておくべきだったわ」と莉子が真顔で頷く。
そんな会話が交わされていた、まさにその直後——。
ガラガラガラッ!!と事務所の引き戸が破れんばかりの勢いで激しく押し開けられた!
「みんなーーーっ! 免許取れたよーーーっ! 学科も一発合格で、国内Bライセンスも無事にゲットしたよーーーっ!」
息を激しく切らせた想与香が、弾けるような大笑顔でピョンピョンと跳びはねながら、ピカピカの免許証とスマホの画面を高く掲げて飛び込んできた。
事務所内の四人の顔が、一瞬でパッと輝いた。
「想与香、おめでとうーーーっ!」
「免許も一発合格なんて凄いわ!」
「おめでとうございます、想与香先輩〜〜っ!」
「「「きゃあぁぁーーーっっ!!」」」
乙花、莉子、陽葵の三人が一斉に駆け寄り、想与香を揉みくしゃにするように力いっぱい抱きしめた。
「ふにゃ〜っ!? み、みんな、すっごく嬉しいけど……く、苦しいよ〜〜っ!」
想与香が目を回しながら叫ぶと、みんなで顔を見合わせてワッと笑い声をあげた。
半年間、油にまみれながらともに汗を流してきた仲間たちの温もりが、想与香の全身を包み込んでいく。
ひとしきり抱き合った後、乙花が制服のポケットから、可愛らしくピンクのリボンでラッピングされた小さな箱を取り出し、想与香の手の上にそっと載せた。
「これ、私と莉子ちゃんと陽葵ちゃんの三人から。
誕生日と免許取得のお祝いプレゼントよ。開けてみて!」
「えっ、プレゼント……!? 開けていいの!?」
想与香は胸を躍らせながら、慎重にリボンをほどいて箱の蓋を開けた。
中から出てきたのは、上質な本革で丁寧に縫い上げられた手のひらサイズのキーケースだった。
その革の色は、自分たちが塗装し直したカプちゃんの車体とまったく同じ、鮮やかで深みのある『真っ赤な本革』。
そしてその表面には、乙花たちが夜遅くまで針を握り、金糸と銀糸を使って繊細に縫い上げた、KP61スターレットの象徴であるレトロで可愛らしい『Starletの星マーク』の手刺繍が誇らしげに輝いていた。
「わぁぁぁ……! 可愛いっ!
カプちゃんと同じ赤色と、星マークの刺繍……!
これ、みんなの手縫い……!?」
「ええ。手芸部のプライドにかけて、耐久性のある防水仕様の革用糸でしっかりと縫い込んだわ。
これからカプちゃんと一緒にたくさんの場所へ行くんだもの、大切な鍵を傷や打痕からもしっかり保護してくれるはずよ」
莉子が誇らしげに胸を張り、陽葵も八重歯をのぞかせて笑った。
「みんな、本当に本当にありがとうっ!! 一生大切にするね!!」
想与香が感激で胸にキーケースをぎゅっと抱きしめていると、後ろで腕を組んでいた葵がニヤリと悪戯っぽく笑った。
「ふふ、仲間の素晴らしい絆だねぇ。
……よし! じゃあ私からも、とびっきりの誕生日プレゼントを贈るとするか。
想与香、ガレージの前まで来てみな」
「え……? ガレージ……?」
想与香たちは葵の後に続いて事務所を出ると、ピットの前に向かった。
春の陽光が注ぐガレージの前で、葵が「そーらよっと!」と掛け声をかけ、ガレージの大きな引き戸をガラガラと音を立てて豪快に押し開けた。
ガレージの中に差し込んだ明るい太陽光が、ピットの中央に佇む一台の車両を鮮やかに照らし出す。
昨日までジャッキの上に乗っていた真っ赤なカプちゃん——KP61スターレットだ。
だが、想与香が前へ足を踏み出した瞬間、その瞳が大きく見開かれた。
前向きに停められたカプちゃんのフロントバンパー中央——そこに、陸運局で発行されたばかりのピカピカと光り輝く緑の文字の『ナンバープレート』がしっかりと装着されていたのだ。
「え……!? ナンバー……がついている……!?」
「想与香、後ろも見てごらん」
葵に促され、想与香は吸い寄せられるようにカプちゃんの横を通り抜け、車体のリアへと回り込んだ。リアのナンバーフレームにも、封印がしっかりと打たれた真新しいナンバープレートが誇らしげに固定されていた。
「あ……後ろにもちゃんとついてる……! 本物のナンバーだ……!」
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