第5レグ 咆哮する4Kエンジンと奇跡のファースト・ドライブ ②
——だがしかし。
「うああああん!
道路交通法の第39条ってなにーーーっ!?
制動距離の計算問題、速度の2乗に比例するとか言われても、数字を見た瞬間に頭がウニになるよ〜〜〜っ!!」
放課後。
『篠塚モータース』の暖かな事務所で、想与香は頭を抱えてソファーにのたうち回っていた。
「想与香、静かに暴れないの。
学科試験をパスしなきゃ、いくら実技が教官を驚かせる百点満点でも仮免すらもらえないのよ」
テーブルの向こうで、乙花が赤い透明シートと暗記ペンを手に、半ば呆れたような顔で大きな溜息をついた。
実技教習では「瑞穂自動車教習所の伝説」とまで称賛される異次元の操縦センスを見せつける想与香だったが、座学である「学科」となると、一転して壊滅的な大苦戦を強いられていたのだ。
文字がギッシリ詰まった複雑な交通法規、意地悪な言い回しのひっかけ問題、そして車速と制動距離の計算公式の前に、直感と感覚だけで生きている想与香の脳味噌は、連日見事に討ち死にを遂げていた。
「想与香さん。
法規の文章や公式を丸暗記しようとするから脳が拒絶反応を起こすのよ」
ソファーの反対側で、ノートPCのキーボードを軽快に叩いていた莉子が、静かに銀縁メガネのブリッジを指先でクイッと押し上げた。
「道路交通法というのは、路上における危険因子を排除し、全体の交通流を円滑にするための論理的な仕組みに過ぎないわ。
たとえば制動距離の計算にしても、車が持つ運動エネルギーがタイヤと路面の摩擦力によってブレーキの熱に変換されるという、純粋な物理法則そのもの。
時速が2倍になれば運動エネルギーは4倍になる。だから制動距離も2の2乗で4倍に伸びるの。
とても素直な論理でしょう?」
「り、莉子ちゃん……その親切な解説文自体が、わたしには古代の呪文にしか聞こえないよぉ……っ!」
涙目になってソファーのクッションに顔をうずめる想与香に、事務所のパイプ椅子にちょこんと座っていた手芸部一年生の陽葵が、にこにこと可愛らしい笑顔で助け船を出した。
「想与香先輩! 大丈夫ですよ!
わたしが実家の『勝田電気』の配達車で、お父さんから叩き込まれた『学科試験ひっかけ標識・絶対暗記クイズ』を作ってきたんですから!」
陽葵は通学カバンから手作りのスケッチブックを取り出すと、カラフルなサインペンで描かれた標識のイラストページをパッと開いて見せた。
「じゃん! この『黄色の地に、黒い線で道路がキュッと狭くなっているイラスト』の警戒標識!
これと、こっちの『道路の線が1本消えて狭くなっているイラスト』の標識!
この2つの違い、な〜んだ!?」
想与香は目をしばたたかせ、スケッチブックを食い入るように覗き込んだ。
「えっ、ええと……どっちも『道が狭くなるから気をつけてね』っていう標識じゃないの!?」
「甘いです想与香先輩! そこが学科試験の最大の罠なんです!」
陽葵は八重歯をのぞかせてドヤ顔で胸を張った。
「両側からキュッと狭くなっている黄色い標識は『幅員減少』!
道路の幅そのものが狭くなる標識です!
そして、片方の線が消えて合流している標識は『車線数減少』!
片側2車線が1車線に減る標識なんです!
『幅が狭まるのは幅員! 車線が減るのは車線数!』って覚えるんですよ!」
「な、なるほどーーっ! ひまりちゃんの解説、めちゃくちゃ分かりやすいっ!」
「ふふん、街の電気屋さんの娘を舐めてもらっちゃ困ります〜!
配達で毎日お父さんの横に乗って鍛えられましたからね!」
「よし、じゃあ次は私が問題出すわね。
想与香、仮免学科対策クイズ大会、本格的に始めるわよ!」
乙花が身を乗り出し、莉子もノートPCの画面にまとめたノウハウシートを表示させた。
こうして、想与香を何としてでも一発合格させるための「手芸自動車部・仮免学科絶対合格プロジェクト」が結成されたのだった。
莉子が論理的に問題を整理した特製のひっかけ問題対策ノートを作成し、陽葵が持ち前の明るさとイラストで標識や交通マナーの暗記を助け、乙花が毎日繰り返し模擬テストを出題して想与香の記憶を定着させていく。
「みんな……ありがとう……!
わたし、絶対に学科も一発で合格して、春には胸を張って仮免と本免を取って、カプちゃんのハンドルを握るからね!!」
仲間たちの温かい愛と絆に支えられ、想与香は昼は教習所とガレージ、夜はシャープペンシルを握り締めて学科問題の山に猛勉強で立ち向かって行ったのだった。
◇
二月下旬。
瑞穂町を包み込む冬の寒波は最高潮に達し、ガレージのコンクリート床は足の裏から骨の芯まで冷やし尽くすような強烈な冷気を放っていた。
だが、『篠塚モータース』のガレージの中は、静まり返った澄んだ緊張感と、底知れぬ熱気に満ちあふれていた。
リフトからゆっくりと降ろされ、しっかりと四輪でコンクリート床に着地した真っ赤なカプちゃん——KP61スターレット。
そのフロントボンネットが高々と開け放たれ、灯油とパーツクリーナーでサビや油汚れを一切合切削ぎ落とし、新車同然に磨き上げられたトヨタ・4K-U型直列4気筒エンジンが、冬のガレージの作業灯の光を浴びて静かに横たわっていた。
去年の六月末。
あの奥多摩のおじいちゃんの納屋から、三十年の時を経て引き出された一台のボロボロの放置車両。
それから半年以上という長い月日の中、少女たちは放課後や週末のすべての時間をこの車に捧げてきたのだった。
真夏の猛暑の中で油まみれになりながら挑んだキャブレターの分解とオーバーホール。
重いトランスミッションを車体から下ろして挑んだクラッチディスクの交換とミッションオイルの刷新。
サビで目詰まりしていた燃料タンクを取り外して薬剤で洗浄し、新しい燃料ラインを引き直した日々。
インテークマニホールドにこびりついていた三十年分の古いガスケットを丁寧に削り落としたこと。
新品の点火プラグと高圧プラグコードへの交換。
そして、勝田電気の娘である陽葵がダッシュボード裏にスライディングで潜り込み、カオス状態だったハーネスと電装系を新品同様に引き直したこと——。
三十年間、暗闇の納屋で冷たく眠り続けていた老兵の臓器たちが、少女たちの情熱と手芸部仕込みの繊細な指先によって、一つひとつ息を吹き返し、再び奇跡の命を宿す準備を完璧に整えていた。
「よし……クーラント全量充填完了! 漏れもエア噛みもなし!」
乙花がウエスで手を拭きながら、ラジエーターキャップをカチリと手応えよく締め込み、晴れやかな笑顔で胸を張った。
「エンジンオイル、オイルフィルターも交換完了です!
レベルゲージの範囲、ピッタリ上限でオイルの透明度も最高です!」
陽葵がレベルゲージの先端をウエスで綺麗に拭き取り、誇らしげに葵へと提示した。
「ディストリビューターの点火時期合わせ、タイミングライトを使った角度調整も完了したわ。
1番シリンダーの圧縮上死点に対して、プラグの火花が飛び火するクランク角は計算通りジャストの数値に設定してある」
莉子が作業服の袖をまくり、正確な数値と図面が記されたノートを葵に見せる。
全員の完璧な作業報告を受け取った葵は、首から下げた汗拭きタオルでフッと熱い息を吐くと、作業ツナギの深い胸ポケットから、一本の小さく重みのある金属の鍵を取り出した。
三十年間、奥多摩のおじいちゃんの納屋の引き出しの奥で、静かにこの日を待ち続けていたKP61スターレットの純正イグニッションキーだった。
葵はその鍵を、想与香の前に歩み寄り、彼女の小さな手のひらの上にそっと静かに握らせた。
「さあ、想与香。準備はすべて整ったよ。
……お前たちの手で、半年以上の時間をかけて蘇らせたカプちゃんに、一番最初の命の火を入れてやりな」
「あ……葵さん……っ!」
想与香は手のひらの中にある、冷たくもどこか温かい金属キーを見つめ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
乙花、莉子、陽葵の三人が、息をのんで想与香の周りを静かに囲む。
作業灯の光の下、ガレージの中にはストーブの上のアルミやかんがシュンシュンと湯気を立てる音だけが響いていた。
想与香は意を決して、作業ツナギの裾で手の汗をギュッと拭うと、カプちゃんの運転席のドアを開け、ゆっくりと乗り込んだ。
想与香と乙花、陽葵の手縫いによって修繕された赤い本革クロスステッチが映えるレトロなバケットシートが、想与香の身体を優しく、けれど頼もしく包み込む。
「ニュートラル確認……サイドブレーキ、ヨシ……!」
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