番外編 リリアのその後 第11話「空っぽの腕」
本日2話更新!
2話目は19時更新!
重度の睡眠不足もあってか、リリアが目を覚ましたのはヴァルハイムへ入ってからさらに馬車で数日が過ぎた頃だった。
「……ん」
重い瞼を開く。
最初に見えたのは、見慣れない天井だった。
「……?」
リリアはぼんやりと瞬きをした。
白い天井。
知らない部屋。
知らない香り。
窓の外から聞こえる、聞き慣れない鳥の声。
「……ここ、どこ?」
身体を起こそうとする。
だが、全身に力が入らない。
「奥様、お目覚めになりましたか?」
声がした。
「……誰?」
リリアが振り向く。
そこには、見知らぬ女性が立っていた。
年齢は四十代ほど。
落ち着いた服装をしている。
「私は、こちらで奥様のお世話をさせていただく者でございます」
「……こちら?」
「ヴァルハイムの療養施設でございます」
「……」
その言葉を聞いて。
リリアの表情が止まった。
「ヴァル……ハイム?」
「はい」
「……どうして?」
「旦那様のご指示で、こちらへ」
「アレクシス様が?」
「はい」
リリアは周囲を見回した。
知らない部屋。
知らない女。
知らない国。
そして――。
「……レオンは?」
女性が黙った。
「……」
「レオンは?」
「奥様」
「どこ?」
リリアの声が低くなる。
「お子様は――」
「レオンはどこなの!?」
突然、リリアが叫んだ。
女性が一歩後ずさる。
「落ち着いてくださいませ」
「レオンをどこへやったの!?」
「……」
「返して!」
リリアは寝台から飛び降りようとした。
だが。
「……っ」
足に力が入らず、その場に崩れ落ちる。
「奥様!」
女性が慌てて支える。
「離して!触らないで!」
「危険でございます!」
「レオン!ああ、レオン!」
リリアは床を這うようにして扉へ向かった。
「レオンはどこ!?どこなの!?」
「奥様、お子様はこちらには……いらっしゃいません」
「いない?」
リリアが振り返る。
「……今、何て言ったの?」
「お子様はこちらにはいらっしゃいません」
「……」
リリアの顔から。
スッと血の気が引いた。
「……嘘」
「奥様」
「嘘よ」
「……」
「だって、ずっと一緒だったもの」
リリアは呟いた。
「私が抱いていたのよ」
「はい」
「ずっと」
「……」
「ずっと抱いていた」
自分の腕を見る。
何もない。
何も抱いていない。
空っぽだった。
「……レオン?」
震える声で呼ぶ。
「レオン……?」
返事はない。
当然だ。
ここにはいない。
「……」
リリアは。
自分の腕を見つめ続けた。
「……どこ?」
女性は答えなかった。
「どこにいるの?」
「旦那様が――」
「アレクシス様は?」
「……王都に」
「レオンは?」
「……」
「答えて!」
リリアの目が見開かれる。
充血した瞳。
ほとんど瞬きをしない。
「レオンはどこ!?」
「……侯爵家に」
「……」
リリアの顔から。
表情が消えた。
「……侯爵家?」
「はい」
「私の子を?」
「奥様……」
「私から離したの?」
「旦那様は、奥様のご療養のため――」
「療養?」
リリアが笑った。
「……ふふ」
乾いた笑いだった。
「そう」
そして。
もう一度。
「そういうことなのね」
「奥様?」
「私をここへ閉じ込めて」
リリアはゆっくり立ち上がった。
「レオンを取り上げたのね」
「違います」
「違わないわ」
「……」
「最初からそうだったんでしょう?跡継ぎを産んだら私は用無しってわけ?」
リリアの目が。
女性を射抜く。
「乳母も」
「侍女も」
「アレクシス様も」
「皆、私からレオンを取り上げようとしていたわ」
「奥様、それは――」
「だからここへ連れてきたのね」
リリアは笑った。
「私が邪魔だったんでしょう?」
「違います」
「私がレオンを守っていたから」
「……」
「だから」
リリアは胸元を押さえた。
「無理矢理……私だけを捨てた」
「奥様……」
「レオンは侯爵家に残した」
震える声。
「そうでしょう?」
「……私には何も答えれません」
その答えを聞いた瞬間。
リリアは目を見開いた。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「やっぱりそうなのね」
そして。
自分の胸元を掴んだ。
「レオンがいない……」
初めて。
声が震えた。
「レオンがいない……」
女性が近づく。
「奥様」
「来ないで!」
リリアが叫ぶ。
「触らないで!」
「ですが――」
「私をここに閉じ込める気でしょう!?」
「私は――」
「嫌!」
リリアは後ずさる。
「誰も信用しない」
その目から。
涙が落ちた。
「誰も……」
「奥様」
「私は母親なの」
「……」
「私が守らなかったら、誰がこの子を守るの?」
その言葉だけなら。
母親として当然だった。
我が子を心配する。
我が子の身を案じる。
それ自体は。
何もおかしくない。
けれど。
今のリリアは。
もう、その心配を自分自身で止めることができなかった。
「レオンはまだ0歳なのよ……」
「……」
涙を流しながら。
リリアは笑った。
「私がいないと駄目なの」
「お子様には乳母がおります」
「乳母?」
リリアの笑顔が消えた。
「また乳母?」
「……」
「信用できるわけないでしょ!」
「経験豊富な者でございます」
「関係ないわ」
リリアは首を振る。
「私じゃない」
「……」
「私じゃないもの」
そして。
胸元を押さえる。
「私じゃないと、あの子は安心できない」
その確信だけは。
揺らがなかった。
「だから返して」
「奥様……」
「レオンを返して」
「……」
「今すぐ」
女性は答えられなかった。
「アレクシス様に伝えて」
「何と?」
「レオンを返してって」
「……」
「私が悪かったなら謝るわ」
リリアは涙を拭った。
「ちゃんと眠るしちゃんと食べる。医師の言うことも聞く。だから……」
その目が。
異様なほどに見開かれる。
「レオンだけは返して」
「……」
「お願い」
最後の言葉だけは。
あまりにも普通の母親の声だった。
だからこそ。
聞いている側の胸が痛んだ。
だが。
女性は首を横に振るしかなかった。
「……申し訳ございません」
「……」
「今は、お子様をお連れすることはできません」
「……そう」
リリアの表情が消えた。
「分かったわ」
「奥様?」
「分かった」
リリアはベッドへ戻った。
そして。
静かに横になる。
「……今日は休むわ」
「はい」
「明日になったら」
「……」
「レオンを迎えに行くから」
女性は何も言えなかった。
「アレクシス様に伝えて」
リリアは目を閉じた。
「私は侯爵夫人よ」
「……」
「私が侯爵家へ帰るの」
そして。
「レオンのもとに」
その夜。
リリアは眠らなかった。
寝台の上で。
ずっと目を開けていた。
窓から月明かりが差し込む。
その光を。
瞬きもせず見つめている。
「……レオン」
小さく呟く。
「今、泣いてないかしら」
返事はない。
「お腹は空いてない?」
返事はない。
「寒くない?」
返事はない。
「……怖くない?」
静寂だけが返ってくる。
リリアは胸元を抱いた。
何もない。
いつもそこにあった。
小さな温もりがない。
「……」
ゆっくり。
自分の腕を抱きしめる。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「レオンは大丈夫」
何度も。
「大丈夫」
けれど。
その声は。
次第に震えていった。
「……大丈夫」
そして。
突然。
リリアは起き上がった。
「……帰らなきゃ」
扉を見る。
「帰らなきゃ」
ベッドから降りる。
「レオンが待ってる」
裸足のまま。
扉へ向かう。
鍵が掛かっている。
「……開けて」
扉を叩く。
「開けて」
返事はない。
「開けて!」
もう一度叩く。
「レオンが待ってるの!」
それでも。
誰も来ない。
「開けてよ!」
扉を叩き続ける。
「私の子が待ってるの!」
その声を聞いた職員が駆けつける。
「奥様!」
「開けなさい!!!」
「今は夜です」
「関係ないわ!」
「お休みください」
「レオンが待ってる!待ってるのよ!」
「お子様は侯爵家に――」
「だから!」
リリアは叫んだ。
「だから帰るの!」
「奥様……」
「私は侯爵夫人なのよ!」
目が血走っている。
「侯爵夫人が、自分の子供を取り戻しに行って何が悪いの!?」
「……」
「誰にも邪魔させない!」
職員たちは互いに顔を見合わせた。
その夜。
リリアは鎮静のための薬を与えられた。
それでも。
眠りにつく直前まで。
「レオン……」
何度も。
何度も。
その名前を呼び続けた。
「お母様が迎えに行くからね……」
そして。
ようやく眠った。
だが。
翌朝。
目を覚ましたリリアが最初に口にした言葉は。
「……レオンは?」
だった。
そして。
その日から。
リリアの療養生活が始まった。
医師は睡眠を取らせようとした。
食事を取らせようとした。
散歩をさせようとした。
少しずつ現実へ戻そうとした。
けれど。
リリアの頭の中には。
ただ一つのことしかなかった。
レオン。
レオン。
レオン。
朝起きれば。
「レオンは?」
食事をすれば。
「レオンはちゃんと食べている?」
窓の外を見れば。
「王都はどちら?」
眠る前には。
「明日は迎えに行ける?」
そして。
誰かが「お子様は元気に過ごしているでしょう」と口にすれば。
「……しているでしょう?」
リリアは必ず聞き返した。
「実際に見たの?」
「……」
「レオンを見たの?」
「いえ……」
「だったら分からないじゃない」
そんな会話が。
毎日のように繰り返された。
ある日。
担当の女性が何気なく言った。
「レオンハルト様は、きっと侯爵家で大切に育てられていることでしょう」
「……」
リリアが顔を上げた。
「どうして名前を知っているの?」
「え?」
「あなた、レオンを知っているの?」
「いえ、そういう意味では――」
「見たことがあるの?」
「……」
「レオンを見たことがあるの、って聞いてるの」
「私は直接は――」
「じゃあ、どうしてそんなことを言えるの!?」
女性は黙った。
リリアは。
じっと彼女を見つめる。
「……あなた」
「はい」
「侯爵家と繋がっているの?」
「いいえ」
「嘘」
「本当でございます」
「じゃあ、誰から聞いたの?」
「旦那様から届いた書面に――」
そこまで言った瞬間。
リリアの顔が変わった。
「アレクシス様から?」
「はい」
「……そう」
リリアは微笑んだ。
「そうなのね」
「奥様?」
「アレクシス様が、あなたたちに私のことを全部話しているのね」
「療養に必要な情報だけで――」
「私を監視しているのね?」
「違います」
「レオンを返すつもりがないから」
「奥様」
「私がここから出ないように」
「……」
「ずっと監視している」
女性は否定した。
何度も。
けれど。
リリアはもう聞いていなかった。
「……分かった」
そう呟く。
「なら」
リリアは窓の外を見た。
ヴァルハイムの街並み。
遠くに山が見える。
「私が戻ればいいのね」
「奥様?」
「侯爵家へ」
そして。
胸元へ手を当てる。
「レオンのところへ」
その目は。
また。
ほとんど瞬きをしなかった。
「待っていてね」
誰もいない場所へ。
リリアは優しく微笑む。
「お母様が迎えに行くから」
その笑顔は。
母親のものだった。
我が子を愛する。
ただそれだけの。
優しい母親の笑顔。
けれど。
その裏側では。
すでに。
リリアの中で。
一つの考えが。
静かに形を持ち始めていた。
――どうすれば、ここから出られるのか。
――どうすれば、レオンのところへ帰れるのか。
そして。
――どうすれば、二度と誰にもレオンを奪われずに済むのか。
リリアは。
その答えを探し始めていた。
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