番外編 リリアのその後 最終話「脱走」
本日2話更新!
1話目は15時更新!
ヴァルハイムへ来てから、さらに月日が流れた。
リリアの療養生活は、最初から順調だったわけではない。
むしろ。
最初の数週間は、施設の職員たちが何度も頭を抱えるほどだった。
「レオンを返して!」
「奥様、どうか落ち着いてください」
「落ち着いていられるわけないでしょう!」
鉄格子の向こうから、リリアの声が響く。
「私の子なのよ!」
「分かっております」
「なら、どうして会わせないの!」
「今はお身体を休めていただく必要が――」
「そんなの嘘でしょう!」
リリアは鉄格子へ駆け寄った。
髪は乱れている。
頬は痩せ。
目の下には濃い隈ができている。
それなのに。
目だけは異様なほどに大きく見開かれていた。
血走っている。
充血している。
それでも。
ほとんど瞬きをしない。
「あなたたちはレオンを隠している」
「そのようなことは――」
「嘘よ」
「……」
「侯爵家の人間もそうだった」
リリアは鉄格子を握り締めた。
「みんな私に嘘をついたわ」
「誰もお子様を奪おうとはしておりません」
「なら、どうして私だけここにいるの?」
「……」
「どうしてレオンはここにいないの?」
誰も答えられない。
「私は母親なのよ?」
リリアの声が震える。
「私があの子を産んだの」
「はい」
「私があの子を十月十日、お腹の中で育てたの」
「はい」
「なのに、どうして私から引き離すの?」
「奥様ご自身の療養のためです」
「……療養?」
リリアは笑った。
「私が病気だと言いたいの?」
「そういう意味では――」
「じゃあ、何?」
突然、声が低くなる。
「私からレオンを取り上げておいて、私を治療する?」
「……」
「ははっ、何それ、おかしいでしょう?」
リリアは笑った。
「私が何をしたっていうの?」
誰も答えられなかった。
「私はただ、母親として当たり前のことをしているだけよ」
それは。
確かにそうだった。
我が子を心配する。
我が子の安全を願う。
少しでも離れていれば不安になる。
母親なら、決して珍しいことではない。
けれど。
リリアの場合。
その「当たり前」が。
すでに壊れていた。
「レオンは風邪を引いてないかしら」
「……」
「ちゃんと眠っている?」
「……」
「誰が抱いているの?」
「……」
リリアの顔から笑みが消える。
「もしかして……乳母?私は誰も認めてないわ」
「お子様には専門の者がついております」
「……そう」
リリアは静かに頷いた。
「なら、私がいない間にアレクシス様に余計なことを吹き込んでいるかもしれないわ」
「そんなことはありません」
「どうして分かるの?」
「……」
「私が見ていないのに、どうして分かるの?」
職員は言葉を失った。
リリアの中では。
すでに。
誰も信用できなくなっていた。
侯爵家も。
侍女も。
乳母も。
医師も。
そして……。
アレクシスさえも。
「アレクシス様は……」
リリアが呟く。
「私を捨てたのね」
「旦那様は奥様を療養させるために――」
「違うわ」
「……」
「私が邪魔になったのよ。きっと……体裁のために、ここに連れて来られたのよ」
リリアは自分の胸元へ手を当てた。
「レオンがいれば、私は侯爵夫人だった」
「……」
「でも、レオンがいなければ?」
リリアは自分自身に問いかける。
「私は何?」
答えはない。
「何の価値があるの?」
その目から。
涙が一筋落ちた。
「……何もないじゃない」
それでも。
次の瞬間には。
笑っていた。
「だから、取り戻さないと」
職員は。
その言葉の意味を理解できなかった。
「何を、でしょうか?」
「レオンよ」
リリアは当然のように答えた。
「私の全部」
そして。
「レオンを取り戻せば、全部元に戻るわ」
それから。
リリアはさらに壊れていった。
夜になると。
誰もいない部屋で話しかけるようになった。
「今日は寒かったでしょう?」
もちろん。
返事はない。
「ちゃんと暖かくしてる?」
返事はない。
「大丈夫よ」
リリアは笑う。
「もうすぐお母様が行くからね」
時には。
壁へ向かって話していることもあった。
「そんなに泣かないで」
「……」
「怖いの?」
「……」
「大丈夫」
優しく微笑む。
「お母様がいるから」
職員が様子を見に来ると。
「……ど、どなたと話していたのですか?」
と尋ねる。
「レオンよ?」
「……」
「何を言ってるの?」
「……はい」
「そう」
リリアは不思議そうに首を傾げる。
「おかしな人ね」
そして。
また笑う。
「可哀想」
その笑顔が。
職員たちには何より怖かった。
やがて。
リリアは食事を拒むようになった。
「食べていただけませんか?」
「いらない」
「少しだけでも」
「レオンが食べていないのに、私だけ食べられないわ」
「お子様は侯爵家で――」
「その話はしないで!」
突然。
食器が床へ落ちる。
ガシャン、と大きな音が響いた。
「レオンは一人なのよ!」
「……」
「私しかいないのよ!」
リリアの声が震える。
「誰があの子を守るの?」
「侯爵家の方々が――」
「信用できないって言ってるでしょ!」
「……」
「誰も信用できない!」
リリアは胸を押さえる。
「私が行かないと」
「奥様」
「私が行かないと」
「お、落ち着いてください!」
「レオンが泣いてる!」
「……」
「聞こえるでしょ!?……聞こえないの?」
もちろん職員たちには……何も聞こえなかった。
ただ。
静かな部屋に。
リリアの荒い呼吸だけが響いていた。
そして。
ついに。
医師は決断した。
「このままではいけません」
施設の責任者へ告げる。
「隔離室へ移します」
その日の午後。
リリアは。
施設のさらに奥へ移された。
そこには。
鉄格子のついた部屋があった。
窓にも。
扉にも。
簡単には外へ出られないような設備が施されている。
「ここは……?」
「療養のためのお部屋です」
「嘘」
リリアは部屋を見回す。
「牢屋でしょう?」
「違います」
「私を閉じ込めるのね」
「しばらくの間です」
「レオンは?」
「……」
「レオンはどこ?」
「ですから、今は侯爵家に――」
「レオン!」
リリアが叫んだ。
「レオン!」
鉄格子へ駆け寄る。
「お母様はここよ!」
「奥様!」
「レオン!」
何度も。
何度も。
名前を呼ぶ。
「お母様が迎えに行くから!」
扉が閉まり、鍵がかかる。
カチャリ。
小さな音。
その音を聞いた瞬間。
リリアの顔から。
表情が消えた。
「……」
そして。
鉄格子へ額をつけた。
「……レオン」
小さく。
小さく。
「レオン……」
それから。
何度も。
同じ言葉を繰り返した。
「レオン」
「レオン」
「レオン」
「レオン」
「レオン……」
それが。
何日続いたのか。
誰にも分からない。
一週間。
二週間。
さらに。
その先。
だが。
ある日を境に。
リリアは突然。
静かになった。
「おはようございます、リリア様」
「ええ、おはようございます」
職員は。
思わず足を止めた。
「……よく眠れましたか?」
「はい」
「お食事は?」
「いただきます」
「……」
あまりにも普通だった。
リリアは。
穏やかに笑っている。
「今日は良い天気ですね」
「……はい」
「窓から少しだけ見えます」
「そうですね」
「もう、私は……吹っ切れました」
その言葉に。
職員は驚いた。
「本当ですか?」
「ええ」
「レオン様のことは……」
「もちろん心配です」
リリアは微笑む。
「でも、私が今すぐどうこうすることではないでしょう?」
「……」
「私は療養するためにここへ来たんですもの」
それからのリリアは人が変わったように……理性的だった。
落ち着いている。
以前のような妄想もない。
誰かを疑うこともない。
レオンの名前を聞いても。
取り乱さない。
担当医へ報告すると。
「本当に?」
医師は尋ねた。
「はい」
「怒鳴ったりは?」
「ありません」
「幻聴は?」
「ありません」
「睡眠は?」
「十分です」
「食事は?」
「毎食きちんと召し上がっています」
医師は。
しばらく考えた。
「……ようやく落ち着いたのかもしれません」
そして。
隔離を解除することが決まった。
「リリア様」
「はい」
「今日から、通常のお部屋へ移っていただきます」
「あら、ありがとうございます」
リリアは微笑んだ。
「ご迷惑をおかけしました」
医師は。
その笑顔を見て。
ようやく安心した。
「もう大丈夫でしょう」
そう。
本当に思った。
リリアが通常の部屋へ移動した翌日。
隔離室の掃除が始まった。
「……さて、今日も綺麗にしますかね」
掃除係が。
窓を拭く。
床を掃く。
ベッドを整える。
「このベッドも動かした方がいいかしら」
掃除係は。
ベッドの足元へ手をかけた。
その時。
「……ん?」
何かが転がっている。
「ペン?」
一本のペンだった。
拾い上げる。
「あら、綺麗なペンね」
掃除係は。
何となく。
ベッドの下へ目を向けた。
「……?」
床が。
少し黒く見える。
「汚れ……?」
しゃがみ込み手を伸ばす。
しかし。
それは。
汚れではなかった。
「……え?」
掃除係は。
ベッドを少し動かした。
「ひっ……!」
床に。
文字があった。
「レオン」
「レオン」
「レオン」
「レオン」
「レオン」
「レオン」
「レオン」
「レオン」
びっしりと。
床一面。
文字で埋め尽くされていた。
「…………」
掃除係の手から。
雑巾が落ちる。
まるで。
床に少しでも空白があることが許せなかったかのように。
ひたすら。
ひたすら。
「レオン」
その名前だけが。
繰り返されていた。
「……いつから?」
掃除係は。
震えながら呟いた。
そして。
さらに目を凝らす。
単純な名前だけではない。
ところどころ。
文章になっていた。
『レオンを返して』
『レオンを返して』
『レオンを返して』
『お母様が迎えに行く』
『お母様が迎えに行く』
『お母様が迎えに行く』
そして。
最後の方には。
『誰にも渡さない』
『誰にも渡さない』
『誰にも渡さない』
『私の子』
『私の子』
『私の子』
「…………」
掃除係は。
後ずさった。
「先生……」
声が震える。
「先生!」
廊下へ飛び出す。
「先生!」
「どうしました?」
「か、隔離室に……!」
「何が?」
「床が……」
「床?」
「文字で……」
「文字?」
医師の顔が。
強張った。
「床いっぱいに……」
掃除係は。
震える手で。
ペンを差し出した。
「これが……」
医師は。
ペンを見る。
「なんでこんなところに……」
「分からないです!一体いつの間に……」
医師は。
隔離室へ走った。
「…………」
中へ入った
医師は。
息を呑んだ。
「いつ……これを?」
「分かりません」
「毎日の見回りでは?」
「ベッドの下までは……」
「……そうか」
医師は。
床へしゃがみ込み文字を見る。
乱れている。
大きさも。
筆圧も。
方向も。
一定ではない。
まるで。
夜中に。
誰にも見られないように。
何時間も。
何日も。
書き続けていたようだった。
「……」
医師の背中に。
嫌な汗が流れる。
「リリア様は」
医師が立ち上がった。
「今、どこに?」
「通常のお部屋です」
「……すぐに行く」
医師は。
隔離室を出た。
「リリア様!」
新しい部屋の扉を開ける。
「……」
誰もいない。
「リリア様?」
ベッドは。
綺麗に整えられている。
椅子も。
机も。
何も乱れていない。
「……」
窓が……開いていた。
「なんで誰も付いていないんだ!」
「申し訳ありません!新しいタオルを持ってくるように頼まれまして……」
「探せ!探すんだ!」
「確認します!」
職員が走る。
「廊下!」
「いません!」
「食堂!」
「いません!」
「中庭!」
「いません!」
施設中を探す。
だが。
どこにもいない。
「誰か外へ出るところを見ていないか?」
「誰も……」
警備兵も。
門番も。
誰一人。
リリアが施設から出たことに気づいていない。
「……どうやって?」
誰かが呟いた。
医師は。
答えられなかった。
ただ。
机の上に。
一枚の紙が置かれていることに気づいた。
「……?」
手に取る。
そこには。
丁寧な文字で。
一行だけ。
『レオンを迎えに行きます』
「…………」
医師の指が震えた。
その瞬間。
全てが繋がった。
あの床の文字。
あれは。
ただの狂気ではなかった。
リリアは。
隔離されている間。
何もしていなかったわけではない。
叫ばなくなったのではない。
諦めたのでもない。
まして。
治ったのでもない。
ただ。
誰にも見られない場所で。
ひたすら。
ひたすら。
レオンの名前を書いていた。
そして。
待っていた。
自分が自由になる日を。
「……まさか」
医師が呟く。
「隔離解除を……」
自分たちから。
待ち望んでいたのか。
リリアは。
普通に戻ったように見せていた。
医師の質問にも。
全て正しく答えた。
そして。
誰もが。
安心した。
もう大丈夫だと。
そう思った。
「……これは」
医師は。
青ざめた。
「治ったんじゃない」
誰も答えない。
「……隠していたんだ」
その言葉だけが。
静かな廊下に落ちた。
その頃。
施設から少し離れた場所。
一人の女が。
街道を歩いていた。
粗末な外套を羽織っている。
髪も。
以前より乱れている。
けれど。
その顔には。
穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……もうすぐね」
リリアだった。
誰にも見つかっていない。
警備兵にも。
施設の職員にも。
まだ。
彼女が脱走したことすら。
知られていない。
リリアは。
街道の先を見つめる。
「レオン」
小さく呟く。
「待っていてね」
そして。
胸元へ手を当てる。
「お母様が迎えに行くから」
その目は。
血走っていた。
けれど。
ほとんど瞬きをしない。
口元には。
穏やかな笑み。
まるで。
ようやく。
自分の人生を取り戻したかのような。
幸せそうな笑顔だった。
「レオンを取り戻したら」
リリアは。
ゆっくり歩きながら呟く。
「きっと全部、元に戻るわ」
侯爵家へ帰ればいい。
アレクシスの隣へ戻ればいい。
そして。
レオンを抱けばいい。
そうすれば。
また自分は。
侯爵夫人になれる。
誰も。
自分を無視しない。
誰も。
自分を軽く扱わない。
誰も。
自分から何も奪えない。
「大丈夫」
リリアは笑った。
「お母様が全部取り戻すから」
そして。
ヴァルハイムの街道を。
ひとり。
レオンのいる場所へ向かって歩き始めた。
その姿を。
まだ誰も追ってはいなかった。
施設の中では。
今も職員たちが必死に彼女を探している。
警備兵たちは。
まだ門の前に立っている。
誰も。
彼女がすでに施設の外へ出ているとは思っていない。
そして。
リリアは。
誰にも追われていないことを知ると。
もう一度。
小さく笑った。
「レオン」
その声は。
母親が我が子へ呼びかけるような。
とても優しい声だった。
「今、迎えに行くわね」
リリアは微笑んだ。
その表情には。
狂気など微塵も感じられなかった。
ただ。
我が子を迎えに行く母親の顔だった。
感想、レビュー、☆、励みになります(小躍りします)
番外編「リリアのその後」はここで終了です!




