番外編 リリアのその後 第10話「療養」
本日2話更新!
1話目は15時更新!
男児の名前は――『レオンハルト』に決まった。
レオンが生まれてから。
リリアは、変わった。
最初にその変化に気づいたのは、侍女たちだった。
「奥様、そろそろお休みになってはいかがでしょうか」
「大丈夫よ。ちっとも眠くないわ」
「ですが、昨夜もほとんどお休みになっておりません」
「この子がいるのに?」
リリアは笑った。
「母親の私が眠れるわけないでしょう?」
「ですが、お子様は今眠っておられます。私どももおりますし……」
「……」
リリアの目が、ゆっくりと侍女へ向いた。
瞬きがない。
ほとんど。
「……何?」
「い、いえ」
「今、何て言ったの?」
「私どももいる、と……」
「そう」
リリアは腕の中のレオンを見る。
小さな胸が、規則正しく上下している。
「……そうね」
そして。
また笑った。
「確かにいるわね」
その目は。
異様なほどに冴えていた。
寝不足で充血しているはずなのに。
その瞳には濁りがない。
むしろ。
血走った目を見開いたまま。
周囲の何もかもを警戒するように、じっと見つめている。
「奥様……?」
「何?」
「お身体のためにも、少し私どもにお任せになっては?」
「嫌よ」
「ですが――」
「嫌」
即答だった。
「この子は私が見るの」
「奥様のお身体が心配なのです」
「私の身体なんて、どうでもいいわ」
「……」
「この子さえ無事なら、それでいいの」
母親として聞けば。
愛情のこもった言葉だった。
だが。
今のリリアがそれを言うと。
なぜか背筋が寒くなる。
「それに」
リリアはレオンを抱き直した。
「この子を他の人に任せるなんて、怖いでしょう?」
「……怖い?」
「ええ」
リリアは侍女を見る。
「だって、何をされるか分からないもの」
「皆、お子様を大切にしております」
「本当に?」
「はい」
「……そう」
リリアは笑った。
「なら、どうして昨日は泣いている理由に気づかなかったの?」
「それは……」
「私にはレオンの声が聞こえたわ」
リリアは首を横に振った。
「母親だから聞こえたのよ」
そして。
レオンの頭を撫でる。
「この子のことなら、私は何でも分かるの」
「…………はい」
「ほら」
リリアは嬉しそうに笑った。
「やっぱり私が一番分かっているでしょう?」
侍女は答えられなかった。
「だから」
リリアはレオンを抱きしめる。
「この子は私が守るの」
その言葉だけなら。
何もおかしくない。
母親が我が子を守ろうとする。
それは当然のことだ。
けれど。
その日から。
リリアの「守る」という言葉は。
少しずつ意味を変えていった。
三日後。
「奥様、少しお休みくださいませ」
「嫌よ」
「せめて一刻だけでも」
「嫌」
「私どもがおりますから」
「信用できないわ」
「……」
「昨日、この子を抱いたでしょう?」
「はい」
「何分?」
「え?」
「何分抱いたの?」
「……十分ほどかと」
「長すぎるわ」
侍女が目を見開く。
「奥様、それほど長い時間では――」
「そんなに長くこの子を抱かないで!」
「ですが……」
「この子は私の子よ」
リリアの声が低くなった。
「どうしてそんなにこの子を抱きたがるの?」
「それは、お世話をするためでございます」
「本当に?」
「はい」
「……」
リリアは黙った。
そして。
ふっと笑う。
「そうよね」
「はい……」
「ごめんなさい」
「いえ」
「少し神経質になっているみたい」
「奥様……」
「でも」
リリアの目が。
また大きく開いた。
「あなたたちがこの子を欲しがっているように見えるの」
「……」
「私から取り上げようとしているように」
「決してそんなことは――」
「分かってるわ」
笑う。
「分かってる」
なのに。
その笑顔には。
少しも安心した様子がなかった。
さらに数日。
今度は乳母が侍女長のところへやってきた。
「もう……無理でございます」
「まあまあ、少し落ち着きなさい」
「私には……できません……」
「一体何があったのです?」
「奥様が……」
乳母は震えていた。
「監視と疑いの目が……」
「ずっと?」
「私がお子様を抱いている間、瞬きもせずに」
「……」
「私の腕の角度まで見ておられます」
「……」
「少しでも抱き方を変えると、『痛いでしょう?』と」
「痛い?」
「お子様が痛がっていると言うのです」
「……」
「『あなたにはこの子の声が聞こえないの!?』と」
乳母は続ける。
「それでも奥様は、『あなたには分からないのよ』と……」
「……」
「昨日などは」
乳母の声が震えた。
「私がお子様を寝かせようとしただけで――」
「何と?」
「『レオンを攫う気ね!』と叫ばれました」
侍女長が絶句する。
「……何ですって?」
「私が……お子様を寝室へ運ぼうとしただけなのです」
「それで?」
「奥様が飛び起きて」
乳母は両手を握り締める。
「『どこへ連れていくの!』と」
「……」
「『返して! 私の子よ!』と叫ばれて……」
「……」
「私が『お休みになれるように、お子様を寝かせるだけです』と申し上げたら」
乳母は顔を青ざめさせた。
「真っ直ぐ私の目を見て『嘘よ』と」
「……」
「『あなたたちは皆、私からレオンを奪うつもりなんでしょう?』と」
部屋が静まり返った。
「それからずっと……」
乳母は俯いた。
「私が近づくだけで、お子様を抱きしめて離さなくなりました」
「……」
「『触らないで』と」
侍女長は深く息を吐いた。
「分かりました」
「私は、もう……」
「あなたのせいではありません」
「……はい」
「下がって休みなさい」
乳母が部屋を出ていく。
侍女長は。
しばらく一人で立ち尽くしていた。
そして。
すぐにアレクシスへ報告を上げた。
「……レオンを攫う気ね、と?」
執務室。
アレクシスは報告を聞きながら眉間に皺を寄せた。
「はい」
「乳母が?」
「お子様を寝かせようとしただけでございます」
「……」
「奥様は本気で、乳母がお子様を連れ去ろうとしたと思われたようです」
「……医師を呼べ」
「すでに手配しております」
「分かった」
アレクシスは立ち上がった。
「私が話す」
その夜。
リリアの部屋。
「リリア」
「アレクシス様」
リリアは振り返った。
腕の中には。
眠っているレオン。
そして。
やはり。
目が赤い。
血走っている。
それなのに。
瞬きはほとんどない。
「少し話をしたい」
「どうぞ」
「君は最近、ほとんど眠っていないそうだな」
「大丈夫です」
「大丈夫ではない」
「大丈夫です」
「医師に診てもらおう」
「嫌です」
「なぜ?」
「病気ではありませんから」
「……」
「私は母親です」
リリアは微笑んだ。
「母親が子供を心配して、何が悪いのですか?」
「悪いとは言っていない」
「ならいいでしょう?」
「だが、君は疲れ切っている」
「この子がいるから平気です」
「リリア」
「この子がいれば、私は平気」
「……」
「この子がいなくなったら」
リリアの声が。
初めて震えた。
「私は、何になるの?」
「……」
「教えてください」
「君は君だ」
「違う」
即答だった。
「私は侯爵夫人です」
「そうだ」
「じゃあ、侯爵夫人として何があるの?」
「……」
「この子しかないでしょう?」
リリアは笑った。
「私には、この子しかないの」
「そんなことはない」
「あります」
「リリア」
「だって」
リリアの目が。
大きく見開かれる。
「私が侯爵夫人として認められるためには、この子が必要なの」
「……」
「レオンが侯爵家の跡継ぎだから」
「君がレオンの母親だから価値があるということか?」
「そうよ」
迷いなく答えた。
「この子がいれば、皆が私を認めてくれる……」
「……」
「皆が私を侯爵夫人として扱う」
「……」
「この子がいなくなったら?」
リリアは。
アレクシスを見つめる。
「誰が私を見るの?」
「……」
「誰が私を必要とするの?」
アレクシスは言葉を失った。
「だから」
リリアはレオンを抱きしめた。
「この子は渡せない」
「誰も君から――」
「嘘」
「……」
「皆、私から何もかも取り上げるつもりでしょう?」
「そんなことはない」
「乳母も」
「違う」
「侍女も」
「違う」
「アレクシス様も」
「私も違う」
「嘘よ!!!」
突然。
リリアが叫んだ。
レオンが驚いて泣き始める。
「ほら!」
リリアはすぐにレオンを抱き直した。
「怖かったわね」
背中を撫でる。
「大丈夫よ」
「リリア……」
「お母様がいるからね」
レオンが泣く。
リリアは笑った。
「大丈夫」
そして。
アレクシスを睨む。
「この子を連れていこうとしたでしょう?」
「していない」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするの?」
「君を心配している」
「違う」
「リリア」
「皆んなレオンを見ている」
「……」
「この子をどうやって私から離すか、考えているんでしょう?」
「そんなことは考えていない」
「嘘!」
リリアの声が響いた。
「レオンは私の子よ!」
「分かっている」
「私が産んだの!」
「分かっている」
「私が十月十日、お腹の中で育てたの!」
「分かっている」
「だったら!」
リリアの目から。
突然、涙が落ちた。
「だったら、どうして私から全て取り上げようとするの……?」
「取り上げない」
「怖い……」
声が震える。
「怖いの……」
アレクシスが一歩近づく。
「リリア」
「来ないで!」
「……」
「レオンを攫う気でしょう!」
「違う!」
「嫌!」
リリアはレオンを抱きしめる。
「この子だけは渡さない!」
アレクシスは。
それ以上近づけなかった。
母親として。
子供を守ろうとしている。
その姿だけなら。
誰も責められない。
だが。
今のリリアは。
誰からレオンを守ろうとしているのか。
それすら分からなくなっていた。
翌日。
医師の診察が行われた。
「奥様はかなり危険な状態です」
「……」
「睡眠がほとんど取れておりません」
「眠らせることは?」
「自然に眠れる状態ではないでしょう」
「薬は?」
「薬を使ってでも寝ていただく必要があります」
「……分かった」
「そして」
医師は慎重に言った。
「お子様と一度、完全に離していただく必要があります」
「……」
「このままでは奥様自身が倒れます」
「レオンをリリアから離せと言っているのか?」
「はい」
「無理だ」
「旦那様」
「リリアが絶対に許さない」
「だからこそです」
医師は静かに続けた。
「今の奥様に、通常の説得は通じません」
「……」
「お子様を守ることが、すでに強迫的な状態になっています」
「……」
「まず奥様を眠らせ、身体と精神を休ませる必要があります」
「それから?」
「お子様から離れた環境で療養していただくべきです」
「……どこへ?」
「侯爵領からも王都からも離れた場所がいいでしょう」
アレクシスは考えた。
「……国外でも?」
「むしろ、その方がよいかもしれません」
「……」
「侯爵家という環境から完全に離れることができます」
アレクシスは。
長く黙っていた。
「……分かった」
その夜。
リリアはレオンを抱いていた。
いつものように。
眠っている。
それでも。
リリアは眠らない。
レオンの呼吸を確認する。
胸が上下する。
「……ふふ」
リリアは笑った。
「大丈夫」
その時。
扉が開いた。
「リリア」
「……アレクシス様?」
アレクシスの後ろに。
医師がいる。
そして。
数人の兵士もいた。
リリアの目が。
一瞬で見開かれた。
「……何?」
「リリアには少し休んでもらう」
「嫌」
「リリア」
「嫌!」
レオンを抱きしめる。
「帰って!」
「君を傷つけるつもりはない!」
「だったら帰って!!!」
兵士が一歩進む。
「来ないで!」
リリアは叫んだ。
「レオンを攫う気でしょう!」
「違う!」
「嘘!」
リリアは泣きながら叫ぶ。
「この子は私の子よ!」
「分かっている!」
「私から何もかも取らないで!」
「誤解なんだ!」
「だったらどうして兵士を連れてきたの!」
アレクシスは答えられなかった。
医師が。
静かに薬を用意する。
「奥様」
「来ないで!」
「少しばかり眠っていただくだけです」
「嫌!」
「リリア様のお身体のためです」
「嫌よ!」
リリアは必死に逃げようとした。
しかし。
疲れ切った身体では。
兵士数人を振り切ることなどできない。
「離して!」
「奥様!」
「レオン!」
リリアは叫んだ。
「レオンを!」
兵士が身体を押さえる。
「返して!」
それでも。
レオンだけは。
必死に抱きしめて離さない。
「お母様がいるから!」
涙を流しながら。
「大丈夫だから!」
医師が近づく。
「リリア」
アレクシスが呼びかける。
「すまない」
「嫌……」
「君を助けるためだ」
「嫌ぁぁぁ……!!!」
薬が効き始める。
リリアの身体から。
少しずつ力が抜けていく。
「レオン……」
それでも。
腕だけは離さない。
「レオン……」
「リリア」
「この子……」
瞼が重くなる。
「この子だけは……」
「分かっている」
「私から……」
「分かっている」
「取らないで……」
やがて。
リリアの身体から力が抜けた。
「……」
眠った。
兵士たちが慎重に。
その腕からレオンを離す。
その瞬間。
眠っているはずのリリアの手が。
レオンを探すように動いた。
「……レオン」
アレクシスは。
その光景を見つめていた。
そして。 小さなレオンを乳母へ託す。
「……この子はバシード侯爵家が、私が……必ず守る」
そう呟いた。
眠っているリリアには。
届かない。
やがて。
リリアは。
侯爵家から静かに運び出された。
誰にも知られないように。
侯爵夫人としての体面を守るため。
表向きの理由は。
産後の療養。
そして。
行き先は。
王国の外。
ヴァルハイム。
リリアが目を覚ました時。
そこには。
レオンはいない。
侯爵家もない。
アレクシスもいない。
あるのは。
異国の静かな療養施設と。
自分の身体だけ。
それが。
リリアにとって。
どれほど残酷な現実になるのか。
アレクシスには。
まだ分からなかった。
ただ一つ。
確かなことがある。
今のリリアは。
もう。
自分一人では。
レオンを守っているのか。
レオンに縋っているのか。
その違いすら。
分からなくなっていた。
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