番外編 リリアのその後 第9話「跡継ぎ」
本日2話更新!
2話目は19時更新!
それから、月日が流れた。
リリアのお腹は、日に日に大きくなっていった。
最初は、少し膨らんだ程度だった。
それがいつしか、誰が見ても妊娠していると分かるほどになり。
さらに月日が過ぎる頃には、歩くことさえ以前より遅くなっていた。
「……よいしょ」
リリアはソファから立ち上がる。
侍女がすぐに手を差し出した。
「奥様、お気をつけくださいませ」
「分かっているわ」
リリアは侍女の手を借りながら立ち上がった。
そして。
大きく膨らんだお腹へ手を添える。
「この子、今日も元気みたい」
「はい」
「さっきも動いたのよ」
嬉しそうに笑う。
リリアは、この子が生まれればすべてが変わると信じていた。
アレクシスも。
使用人たちも。
社交界の夫人たちも。
皆、自分を見るようになる。
そして。
誰もが自分を「侯爵夫人」として認めるようになる。
そう思っていた。
だが。
妊娠期間が長くなるにつれ、リリアの考えは少しずつ変わっていった。
「ねえ」
「はい」
「この子が生まれたら、すぐに皆を呼ぶのよね?」
「……お披露目のことでございますか?」
「ええ」
リリアは当然のように頷く。
「侯爵家の跡継ぎが生まれるんですもの。盛大にお祝いするでしょう?」
「その件につきましては、旦那様が――」
「分かっているわ」
リリアは少し不機嫌そうに口を尖らせた。
「まだ何も決めていないのでしょう?」
「はい」
「でも、きっとするわ」
「……」
「だって、この子は侯爵家の跡継ぎなんですもの」
侍女は何も答えなかった。
その言葉を聞くたびに。
胸の奥に、小さな違和感が生まれるようになっていた。
侯爵家の跡継ぎ。
確かに。
そうなれば、どれほど素晴らしいことだろう。
だが。
まだ生まれてもいない子供を。
どうしてリリアはそこまで確信しているのか。
「……奥様」
「何?」
「お子様が生まれるのは、もう間もなくでございますね」
「ええ」
リリアは笑った。
「楽しみだわ」
「男の子だとよろしいですね」
何気なく侍女が言った。
その瞬間。
リリアの笑顔が消えた。
「……何を言っているの?」
「え?」
「男の子に決まっているでしょう?」
「……」
侍女が固まる。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「い、いえ……」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
「だって、この子は跡継ぎになるんですもの」
「ですが……」
「何?」
「性別については、まだ……」
「だから?」
「……」
「ふふっ、可笑しなことを言うのね」
リリアは笑った。
それは。
いつもの笑顔だった。
けれど。
どこか。
ぞっとするほど自然だった。
「私が跡継ぎと言ったのよ?」
「……はい」
「だったら、男の子に決まっているじゃない」
「……」
侍女は返す言葉を失った。
リリアは、それが何かおかしいことなのか分からないようだった。
「アレクシス様にも言ったわ」
「何と……?」
「この子は跡継ぎになるって」
嬉しそうにお腹を撫でる。
「だから男の子よ」
まるで。
それが当然のことであるかのように。
「私が母親なんだもの」
侍女は、それ以上何も言えなかった。
その日の夕方。
アレクシスが帰宅すると。
執務室へ入る前に、侍女から呼び止められた。
「旦那様」
「どうした?」
「……少し、お話が」
侍女の表情が硬い。
「リリアに何かあったのか?」
「いえ……お身体に問題があるわけではございません」
「なら何だ?」
「お子様の性別についてなのですが……」
「性別?」
「奥様は、男児が生まれると確信されておりまして」
「……」
アレクシスは眉を寄せた。
「確信?」
「はい」
「医師から何か聞いたのか?」
「いいえ」
「では、なぜ?」
「それが……」
侍女は言葉を選んだ。
「『私が跡継ぎと言ったのだから、男の子に決まっている』と」
「……」
アレクシスは黙った。
「本人は冗談を言っている様子ではありませんでした」
「そうか」
「私も……少し気になりまして」
「分かった」
アレクシスは短く答えた。
「私から話す」
「ありがとうございます」
侍女が頭を下げる。
アレクシスは、そのままリリアの部屋へ向かった。
「アレクシス様!」
扉を開けると。
リリアが笑顔で振り返った。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
「今日は早かったんですね」
「少し話がある」
「はい」
リリアはソファへ座る。
アレクシスも向かいに座った。
「リリア」
「何ですか?」
「子供のことだ」
「……?」
「君は、男児が生まれると思っているそうだな」
「ええ、それが何か?」
即答だった。
「どうしてだ?」
「どうしてって……」
リリアは不思議そうな顔をした。
「跡継ぎだからです」
「……」
「私がそう言ったでしょう?」
「それだけか?」
「それだけ?」
リリアは目を瞬かせた。
「それで十分でしょう?」
「リリア」
アレクシスは慎重に言葉を選ぶ。
「子供の性別は、君が決めるものではない」
「……」
「男児が生まれることもあれば、女児が生まれることもある」
「でも……」
リリアが遮った。
「この子は男の子ですわ」
「なぜ?」
「だから」
リリアは笑った。
「私が跡継ぎと言ったのですもの」
「……」
「アレクシス様は何をそんなに難しく考えているんですか?」
アレクシスは絶句した。
「もし女の子だったらどうする?」
「女の子?」
「そうだ」
「……」
リリアはしばらく黙っていた。
そして。
「そんなこと、あり得ません」
「……なぜ?」
「だって」
リリアは当然のように言った。
「私が跡継ぎと言ったのだから」
「……」
「男の子が生まれるに決まっているじゃないですか」
アレクシスは。
思わずリリアの顔を見つめた。
「……リリア」
「はい?」
「君は、本気で言っているのか?」
「もちろんです」
迷いは一切ない。
「だって、この子は私の子ですよ?」
その言葉を聞いて。
アレクシスは背筋に冷たいものを感じた。
「……そうか」
それ以上、何も言えなかった。
リリアは不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いや」
アレクシスは立ち上がった。
「……身体を大切にしてくれ」
「はい」
「無理はするな」
「分かっています」
扉へ向かう。
「アレクシス様」
「何だ?」
「この子が生まれたら」
リリアが嬉しそうに笑う。
「きっと、アレクシス様も私のことをもっと大切にしてくれますよね?」
「……」
「だって」
お腹を撫でる。
「この子は、私たちの跡継ぎなんですもの」
アレクシスは答えなかった。
そして。
出産の日は。
突然訪れた。
「奥様!」
夜明け前。
屋敷中に侍女の声が響いた。
「どうされました!?」
「……痛い」
リリアは寝台の上で、顔を歪めていた。
「お腹が……」
「まさか……」
「痛い……!」
侍女が慌てて人を呼ぶ。
すぐに医師が呼ばれ。
助産師も駆けつける。
屋敷中が騒がしくなった。
「旦那様へ知らせて!」
「はい!」
使用人が走っていく。
しばらくして。
寝室へアレクシスが駆け込んできた。
「リリア!」
「アレクシス……様……」
リリアは苦しそうに息をする。
「大丈夫か?」
「大丈夫……です」
そう言いながら。
次の瞬間。
「……っ!」
激しい痛みに顔を歪める。
「医師!」
「こちらにおります!」
「妻は?」
「今のところ問題ございません。ただ、もうしばらく時間がかかるかと」
「分かった」
アレクシスはリリアの手を握った。
「頑張れ」
「……はい」
「大丈夫だ」
「アレクシス様……」
「何だ?」
「この子……」
「うん」
「男の子ですよ、ね……?」
アレクシスは一瞬、言葉を失った。
「……まだ分からない」
「男の子です」
リリアは苦しそうに、それでも笑った。
「絶対に……」
「……」
「私が……そう言ったんですから……」
アレクシスは何も言えなかった。
「頑張れ」
ただ。
それだけを繰り返した。
長い時間が過ぎた。
夜が明け。
朝になり。
さらに時間が過ぎて。
そして。
「奥様!」
助産師の声が響いた。
「もう少しです!」
「……っ!」
リリアは必死に息をする。
「嫌……!」
「大丈夫でございます!」
「痛い……!」
「もう少し!」
アレクシスは部屋の外で待っていた。
扉の向こうから。
リリアの声が聞こえる。
苦しそうな声。
泣き声。
そして。
「頑張れ……」
アレクシスは拳を握った。
やがて。
小さな声が響いた。
「……!」
一瞬。
すべての音が止まったように感じた。
そして。
「お生まれになりました!」
助産師の声。
「元気な男のお子様でございます!」
アレクシスは。
目を見開いた。
「……男児?」
「はい!」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に。
何とも言えない感情が込み上げた。
自分の子。
男の子。
侯爵家の跡継ぎ。
そう思った。
だが。
同時に。
別のことも考えていた。
リリアが。
これを知ったら。
どうなるのだろう、と。
「……男の子」
寝台の上。
疲れ切ったリリアの腕に。
小さな赤ん坊が抱かれた。
「元気な男の子ですよ」
助産師が告げる。
リリアは。
赤ん坊を見つめた。
「……」
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
「……ふふ」
小さく笑った。
「ほら」
赤ん坊の頬へ指を触れる。
「やっぱり男の子だった」
「……」
アレクシスは黙っていた。
「私の言った通りでしょう?」
リリアは笑う。
「私が跡継ぎと言ったから」
「……リリア」
「だから男の子になったのよ」
その言葉に。
部屋にいた者たちは誰も答えなかった。
リリアだけが。
幸せそうに笑っていた。
「可愛い……」
赤ん坊を抱きしめる。
「私の子」
そして。
小さな額へ口づける。
「侯爵家の跡継ぎ」
アレクシスが近づく。
「リリア」
「何ですか?」
「少し抱かせてくれ」
「……」
リリアの腕が。
赤ん坊を強く抱きしめた。
「嫌です」
「……リリア」
「この子は私が産んだんです」
「分かっている」
「なら、私が抱いていていいでしょう?」
「もちろんだ」
「だったら、どうして?」
「私も父親だからだ」
「……」
リリアはアレクシスを見る。
その目に。
ほんの一瞬。
警戒するような色が浮かんだ。
「……お父様なのよね」
「そうだ」
「この子の」
「ああ」
「……」
リリアはしばらく黙った。
そして。
赤ん坊へ目を戻した。
「なら……」
ゆっくり。
アレクシスへ赤ん坊を差し出す。
アレクシスが腕を伸ばした。
小さな身体を受け取る。
「……」
軽い。
あまりにも小さい。
けれど。
確かに。
自分の腕の中にいる。
「……男の子か」
アレクシスは小さく呟いた。
胸の奥が熱くなる。
「名前は?」
リリアが聞く。
「まだ決めていない」
「私が決めてもいい?」
「もちろん相談しよう」
「じゃあ……」
リリアは嬉しそうに笑った。
「この子に相応しい名前を考えましょう」
「ああ」
その時だった。
赤ん坊が小さく泣いた。
「ふぇ……」
「……!」
リリアの顔が変わった。
「……返してください」
「リリア?」
「その子を返して!」
アレクシスが驚いて赤ん坊を見る。
「泣いている」
「だから!」
リリアは手を伸ばす。
「私が抱くの!」
「分かった」
アレクシスは赤ん坊を渡した。
リリアはすぐに抱きしめる。
「大丈夫よ」
何度も。
何度も。
「大丈夫」
赤ん坊の泣き声が少しずつ弱くなる。
「ほら」
リリアは笑った。
「私が抱けば泣かないでしょう?」
「……そうだな」
アレクシスは頷いた。
だが。
その日から。
少しずつ。
何かが変わり始めた。
数日後。
「旦那様」
侍女が執務室へ入ってきた。
「何だ?」
「奥様ですが……」
「どうした?」
「ほとんど眠っておられません」
「……」
「お子様が少しでも泣くと、すぐに起きられて」
「それは母親なら――」
「それだけではございません」
侍女は言葉を濁した。
「お子様を抱こうとされると、どなたでも嫌がられるのです」
「……」
「乳母にも、あまり触れさせようとなさらなくて」
「……そうか」
「医師には?」
「相談しております」
アレクシスは眉を寄せた。
「ただ、出産直後ですから、精神的に不安定になることもあると」
「……」
「しばらく様子を見るようにと」
「分かった」
アレクシスは立ち上がった。
その日の夜。
リリアの部屋へ入ると。
「アレクシス様」
リリアが笑った。
腕の中には
眠っている赤ん坊。
「眠っているのか?」
「ええ」
「少し休んだらどうだ?」
「私は大丈夫です」
「でも――」
「大丈夫」
リリアは微笑む。
「この子は私が守るから」
「……」
「誰にも渡さない」
「リリア」
「絶対に」
アレクシスは黙った。
「この子は私の希望なんです」
「……」
「この子がいれば、私は大丈夫」
その言葉の意味を。
アレクシスは。
まだ理解していなかった。
ただ。
その夜。
リリアは一度も赤ん坊から離れなかった。
眠ることもなく。
ずっと。
ずっと。
その小さな身体を抱きしめ続けていた。
「大丈夫よ」
何度も。
「お母様がいるから」
「誰にも渡さないから」
「ずっと一緒よ」
そして。
赤ん坊が眠っていることを確認すると。
リリアは小さく笑った。
「だって」
鏡に映る自分を見る。
「あなたがいれば、私は侯爵夫人なんだもの」
その笑顔は。
母親の幸福に満ちていた。
けれど。
同時に。
どこか。
危うかった。
そして。
アレクシスはまだ知らなかった。
男児の誕生によって。
リリアの中にあった歪みが。
これまでとは比べものにならないほど、大きくなっていくことを。
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