番外編 リリアのその後 第2話「侯爵夫人の仕事」
茶会から戻ったリリアは、馬車の中でも不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「……本当に、失礼な人たち。今に見てなさい……」
思い出すだけで腹が立つ。
自分は侯爵夫人なのだ。
しかもあの名門、バシード侯爵家である。
それなのに。
まるで自分が悪いことをしたかのような視線を向けられた。
「お姉様がいた頃は、あんなことなかったのに……」
ぽつりと呟いてから。
リリアは、はっとする。
「……違う……違うわ」
すぐに首を振った。
エレノアがいた頃と今では立場が違う。
自分は侯爵夫人。
エレノアはもう、この家の人間ではない。
「私だって、すぐに慣れるわ」
そう言い聞かせる。
侯爵夫人としての生活は、始まったばかりなのだ。
これから社交界でも認められていけばいい。
そうすれば、今日のようなこともなくなる。
リリアはそう信じていた。
屋敷へ戻ると、侍女が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ええ」
「申し訳ございません。旦那様がお戻りになる前に、ご相談したいことがございまして」
「何?」
「領地から急ぎの書類が届いております」
「……書類?」
「はい。こちらです」
差し出された封筒を見て、リリアは眉を寄せた。
「私に?」
「はい」
「どうして?」
侍女が困ったように目を伏せる。
「侯爵夫人でいらっしゃいますので……」
「でも、こういうことはアレクシス様がお決めになるのでしょう?」
「最後は旦那様にご確認いただきますが、その前に夫人のご確認が必要なものもございます」
「……そうなの?」
リリアは仕方なく封筒を受け取った。
中から何枚もの書類が出てくる。
領地の収支。
税の報告。
使用人の雇用に関する書類。
商人との契約。
細かな数字と難しい言葉が並んでいる。
しばらく眺めていたリリアは。
「……これ、何?」
「領地の収支報告書でございます」
「収支……?」
「はい」
「つまり、いくら入って、いくら使ったかということでしょう?」
「左様でございます」
「……そんなことまで私が見なきゃいけないの?」
「以前はエレノア様が――」
侍女が言葉を止めた。
リリアの眉がぴくりと動く。
「……以前は?」
「……エレノア様が、毎月確認されておりました」
「そう」
リリアは書類を机へ置いた。
「じゃあ、同じようにしておいて」
「……はい?」
「お姉様がやっていたのでしょう?」
「はい」
「なら、今まで通りでいいじゃない」
侍女が固まる。
「ですが、奥様……」
「私はこういう細かい数字を見るのは苦手なの」
「しかし、侯爵夫人として――」
「だから!」
リリアは苛立ったように声を上げた。
「こういうことをする人がいるのでしょう?」
「……」
「文官とか、侍従とか。そういう人たちがいるから別に侯爵夫人が全部やらなくてもいいのではないの?」
侍女は何も答えられなかった。
「じゃあその人達にお姉様がしていたようにさせといて。それにしてもこんな細かい数字を毎日見ていたなんて……」
リリアは呆れたように書類を見る。
「お姉様も暇だったのね」
侍女の顔が強張った。
だが。
リリアは気付かなかった。
「これはそのままアレクシス様に渡しておいて」
「……承知いたしました」
侍女が書類を受け取る。
リリアは満足そうに頷いた。
「これでいいでしょう?」
その日の夕方。
アレクシスが帰宅した。
「お帰りなさいませ」
「ああ。ただいま」
リリアは笑顔で迎える。
「今日、領地から書類が届いていました」
「そうか」
「私にはよく分からなかったので、アレクシス様にお渡ししておきますね」
「……分からなかった?」
「はい」
リリアは悪びれもせず答える。
「数字ばかりで、さっぱりですもの」
アレクシスは少しだけ眉を寄せた。
「エレノアは、毎月それを確認していたが」
「……また、お姉様ですか?」
「いや」
「今は私が侯爵夫人です」
「ああ、分かっている」
「なら、比べないでください」
リリアは頬を膨らませる。
「私はお姉様とは違うんです」
「……そうだな」
「それに、こんなことは私がしなくてもいいでしょう?」
「なぜ?」
「だって、文官がいるのでしょう?」
「ああ」
「なら、その人たちに任せればいいじゃないですか」
「それはそうだが……」
「でしょう?」
リリアは得意そうに笑った。
「だったら問題ないじゃないですか」
アレクシスは何か言おうとした。
だが。
やめた。
「……そうだな」
「それより、明日どこかへ連れて行ってくださいませんか?」
「明日?」
「新しいドレスが欲しいのです」
「すまない。仕事があるんだ」
「少しくらい、いいでしょう?」
「……分かった。時間が取れればな」
「本当ですか?」
リリアは嬉しそうに笑った。
「楽しみにしていますねっ!」
翌日。
アレクシスの仕事が終わるのを待つつもりだったリリアだが。
昼前には待ちきれなくなった。
「……そうだわっ!」
リリアは侍女を連れて街へ出た。
エレノアがアレクシスと通っていた店ではない。
あえて、以前自分で見つけた店を選んだ。
侯爵夫人になったのだから。
もう姉の行きつけなど使う必要はない。
私は私だ。
「ここで降ろしてちょうだい」
御者に馬車を停めさせ店の前に降り立つ。
以前、なんとなく一人で街を歩いていた時に見つけた店だった。
店構えも立派だ。
店内には高級な布地や宝石が並んでいる。
扉が開く。
「いらっしゃいませ――」
店主はリリアの姿を見ると、すぐに笑顔を浮かべた。
「まあ!これはこれは、リリア様ではございませんか!」
「……私が気に入りそうなものはあるかしら?」
「もっちろんでございます!」
実のところ。
店主は、よく知っていた。
リリアはこの店を気に入っており、身の丈以上の注文をすることも多かった。
支払いもキチンと侯爵家から来る。
つまり。
店主にとっては、とてもありがたい客だった。
「本日はどのようなお召し物をお探しでしょう?」
「社交界でみんなから注目されるものが欲しいわ」
「それでしたら、お任せくださいませ」
店主は迷いなく商品を並べていく。
「こちらはいかがでしょう?」
「まあ……素敵だわ!」
「今季でも特に人気の高い宝石が散りばめられた生地でございます」
「じゃあ、それにするわ」
「ありがとうございます。でしたら、こちらのレースも合わせますと、より華やかになります」
「そうなの?」
「はい。侯爵夫人として公の場に出られるのでしたら、こちらをお勧めいたします」
「じゃあ、それもつけといて」
「かしこまりました」
店主はさらに別の商品を取り出す。
「そして、こちらの宝石を襟元に添えられますと――」
「素敵!」
「こちらは一点物でございます」
「それもお願い」
侍女が不安そうに顔を曇らせる。
だが。
リリアは気付かない。
「こちらの髪飾りもございます」
「それも」
「この宝石のついた手袋も合わせていただくと――」
「ええ、お願い」
「では、こちらの靴も」
「それも必要ね」
次々と決まっていく。
店主は決して嘘をついていない。
どの商品も確かに上質で、社交の場に相応しい品だった。
ただ。
リリアが望むままに。
より高価なものを勧めているだけだ。
「侯爵夫人であれば、これくらいは当然ですよね?」
「もっちろんでございます!」
店主は微笑んだ。
「リリア様ほどのお方でしたら、これくらい華やかでなければ」
「そうでしょう?」
リリアは嬉しそうに笑った。
「私もそう思っていたの」
「さっすがでございます!」
「ではこれもいただくわ」
その一言で。
また一つ商品が増えた。
「それから、こちらの刺繍を――」
「じゃあお願い」
「では、リリア様の特別仕様にいたしましょう」
「ええ」
しばらくして。
ようやく注文が終わった。
「合計でございますが……」
金額を聞いた瞬間。
リリアの笑顔が一瞬だけ止まる。
「……そんなに?」
「最高級の生地に加え、特別刺繍と宝石を合わせておりますので」
「あ、あの……」
侍女が口を開きかけた。
だが。
リリアは胸を張った。
「……侯爵夫人なのだから、このくらい普通よね」
「もっちろんでございます!」
店主は笑顔で頷く。
「これで社交界の中心はリリア様で間違いございません!」
「まあ!」
リリアの顔がぱっと明るくなる。
「そう思う?」
「はい。きっと皆様の注目の的でございましょう」
「では、全部お願い」
「ありがとうございます!」
「支払いは侯爵家へ請求しておいて」
「かしこまりました!そして以前注文いただいていたドレスも完成致しましたので侯爵家の方に……」
「いいえ、そのまま持って帰るわ。侍女に渡しといて」
「かしこまりましたっ!またのご来店、お待ちしております!」
店主は深々と頭を下げた。
その顔に……
満面の笑みを浮かべながら。
数日後。
侯爵家には、大量の請求書が届いた。
ドレス。
宝石。
靴。
髪飾り。
特別刺繍。
その他、細かな装飾品。
アレクシスは机の上に並べられた請求書を見て絶句した。
「……これは……何なんだ?」
「奥様がお買い求めになったものです」
「……これを全部?」
「はい」
「こんなに……必要なのか?」
「……以前より、かなり増えております」
「以前とはいつのことだ?」
執事は少しだけ考えてから答えた。
「エレノア様は、必要なものには惜しみなくお使いでした」
「……」
「ただ、流行だから、欲しいからという理由だけで買い足されることはありませんでした。必ず『必要なものだけ』購入されておりました」
アレクシスは黙った。
「ドレスも、長く着られるものを選ばれていましたし、装飾品も場に合わせて使い分けておられました」
「……そうだったのか」
「はい」
アレクシスは請求書を見つめる。
エレノアが侯爵夫人だった頃。
自分は、彼女が何をしていたのか。
ほとんど知らなかった。
領地は安定していた。
屋敷も問題なく回っていた。
社交も滞りなく行われていた。
使用人たちも不満を口にしなかった。
だから。
それが当たり前なのだと思っていた。
でも違った。
当たり前だったのではない。
エレノアが、当たり前になるまで支えていたのだ。
「……私は」
アレクシスは請求書を握りしめた。
「本当に、何も見ていなかったんだな」
一方。
自室に戻ったリリアは、以前注文していた新しいドレスを眺めながら満足そうに微笑んでいた。
「うふふ、なんて綺麗なの!これなら皆も私を認めてくれるわ」
今日、冷たい視線を向けられたことなど、もう忘れていた。
もっと綺麗になればいい。
もっと豪華にすればいい。
もっと侯爵夫人らしく振る舞えばいい。
そうすれば。
いつか皆が、自分を認めるはずだ。
「私は、エレノアお姉様とは違う」
鏡の中の自分へ微笑みかける。
「私の方が、ずっと幸せなんだから」
その言葉を繰り返すほど。
なぜか胸の奥に、小さな不安が膨らんでいった。
けれど。
リリアは、その不安の正体を考えようとはしなかった。
考えるよりも。
新しいドレスを眺めている方が、ずっと楽しかった。
そして彼女はまだ知らない。
侯爵夫人という肩書きを手に入れることと。
侯爵夫人として認められることは。
決して同じではないということを。
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