番外編 王の決断
アレクシス・バシード侯爵がヴァルハイム王国へ向けて出立した、その翌日。
王城の執務室では、国王が一枚の報告書を眺めていた。
「……またか」
小さく呟く。
机の上に置かれているのは、バシード侯爵領から届いた最新の報告書だった。
領地の収支。
商会との取引状況。
使用人の退職者数。
社交界での評判。
どれも、以前とは少しずつ変わっている。
決定的な破綻ではない。
だが。
確実に悪くなっていた。
「やはり、エレノア嬢が抜けた影響は大きいようですな」
隣に立つ宰相が静かに口を開く。
「……ああ」
国王は報告書から目を離さない。
「侯爵家そのものが傾いたわけではありません。アレクシス侯爵は領主として最低限の仕事はこなしております」
「……しかし、以前ほどではない」
「そういうことです」
宰相が別の書類を差し出す。
「こちらは、エレノア嬢が管理していた頃と現在の比較です」
国王は目を通した。
商人との契約件数。
領内の税収。
支出の削減率。
使用人からの苦情。
どれも、エレノアがいた頃には安定していた数字だ。
彼女が去ってから、少しずつ……いや、大きく数字が崩れている。
「……見事なものだな」
「はい」
「これほどまでに一人の人間があの侯爵家を支えていたとは」
国王は苦笑した。
エレノアが侯爵家を支えていたことは、以前から知っていた。
だが。
失われて初めて、その大きさがはっきりと見えてくる。
「使用人もかなり辞めているな」
「はい。エレノア嬢を慕っていた者が多かったようです」
「当然だろう」
国王は椅子に深く背を預ける。
「自分たちを一人の人間として扱ってくれる主人を、簡単に忘れられる者などそうはいない。彼女は、平民たちを特別扱いしていたわけではないからな。むしろ、逆なのだ」
王は窓の外へ視線を向けた。
「彼女は、彼らを一人の人間として扱っている」
「それが……何か特別なことなのでしょうか」
宰相が首を傾げる。
王は苦笑した。
「お前は根っからの貴族だな」
「はい……?」
「では、少し考えれば分かるはずだ」
王は椅子へ深く身を預ける。
「貴族というものは、平民を『人間』として見るのが難しい生き物なのだ」
「……」
「もちろん、平民を虐げようと思っているわけではない。税を納めてもらう。働いてもらう。領地を守ってもらう。生活を安定させる。……それを『善政』だと思っている貴族も多い」
王はそこで一度言葉を切った。
「だがな、その先にあるものを忘れてしまう。彼らにも、嬉しい日がある。悲しい日がある。腹を立てることもあれば、誰かを心配することもある。家族がいて、夢があって、失いたくないものがある」
王はそこで一拍あける。
「我々貴族と、何も変わらぬのだ」
宰相は黙って聞いている。
「だが、貴族という立場に長くいるほど、それを忘れやすくなる。平民を『領民』と呼び、『労働力』と呼び、『税を納める者』と呼ぶ。そうやって分類してしまえば、相手の顔を見る必要がなくなる」
王の声は穏やかだった。
だが、その言葉には重みがあった。
「だから難しいのだ。……『大切にしろ』と言うだけなら簡単だ。だが、本当に相手を一人の人間として見ることは決して簡単ではない」
王は窓へ視線を戻した。
「エレノア嬢はそれを自然にやっている。身分ではなく、その人自身を見ている。だから、あれほど人が集まるのだろう」
宰相も窓の方へ視線を向ける。
確かに、エレノア嬢の周囲には自然と人が集まっていた。
誰もが彼女へ笑顔を向けていたのを強く覚えている。
「貴族だから慕われているのではない」
王は静かに言った。
「王太子妃になる前から、エレノア嬢は『人』に対して同じだったのだろう。だからこそ、今の地位に就いても変わらない。それが、彼女の強さなのだ」
王は小さく笑った。
「ヴァルハイムの第一王子が惚れるのも、無理はない」
「……ウィリアム王子は、かなり幸運なお方ですね」
「そうだな」
王は即答した。
「だが」
少しだけ目を細める。
「エレノア嬢もまた、幸運だったのだろう。ウィリアム王子は、エレノア嬢を『王太子妃』としてではなく『一人の女性』として見ている。互いに肩書きではなく、人間として向き合っている。だからこそ、あの二人は強い」
王は宰相へ目を向けた。
「……アレクシスには、それができなかったのだろうな」
その言葉だけは、どこか寂しそうだった。
「妻を妻としてではなく、『侯爵家を支える者』として見ていた。そして、エレノア嬢を一人の女性としてちゃんと見ることが出来ていなかった」
王は小さく息を吐く。
「人を失ってから、その価値に気付く者は多い。だが……本当に大切なのは、失う前に気付くことだ」
その言葉に、宰相は何も返せなかった。
国王はそれ以上、その話題について口にしなかった。
「新しい夫人につきましても……」
「……ああ、頭が痛くなるな」
リリア。
エレノアの義妹。
そして、アレクシスが妻を捨ててまで選んだ女性。
王家にも、その話は当然届いている。
侯爵令嬢であったエレノアを離縁し、その義妹を侯爵夫人として迎え入れた。
しかも、そのきっかけとなったのは婚姻関係にある者の裏切りだった。
貴族社会で噂にならないはずがない。
「社交界での評判も芳しくありません」
宰相が続ける。
「婚外子であることそのものを問題視する者もおりますが、それ以上に……」
「姉から夫を奪った、か」
「はい」
国王は目を閉じた。
「本人たちは、そこまで周囲の目を気にしていないようですが」
「そうだろうな」
皮肉な笑みが浮かぶ。
「周囲がどう見ているかまで考えられる者なら、そもそもあのようなことにはなっていない」
しばし、室内に沈黙が落ちた。
国王は窓の外へ視線を向ける。
青空の向こう。
その先には海がある。
さらにその向こうには、ヴァルハイム王国がある。
そこには今。
かつて侯爵家の一員だった女性がいる。
エレノア・アシュフォード。
いや。
今は、エレノア・ヴァルハイム。
王太子妃。
「……人生とは分からぬものだな」
「陛下?」
「いや」
国王は小さく笑った。
「エレノア嬢のことだ」
初めて会った時のことを思い出す。
控えめだが、芯の強い女性だった。
自分の意見を持っている。
それでいて、人の話にも耳を傾ける。
……何より。
自分が利益を得ることよりも、周囲がどうすれば幸せになるかを考える娘だった。
だからこそ。
あの娘が侯爵家を支えていることに、何の不思議もなかった。
「私は、あの娘を高く評価していた」
国王は静かに言った。
「エレノア嬢には何度も王家の仕事を手伝ってもらった。領地間の交易についても、彼女の意見は非常に的確だった」
「存じております」
「だが、あの男はそれを当たり前だと思っていたようだ」
国王の声が少し低くなる。
「妻が家を支えるのは当然。妻が夫を待つのも当然。妻が自分の失敗を支えるのも当然」
「……」
「そして、自分が他の女に心を移しても、最後には妻が戻ってくると思っていた」
宰相は何も言わなかった。
否定する必要がないからだ。
「愚かな男だ」
国王は吐き捨てるように言った。
しかし。
それでもアレクシスを完全に切り捨てることはできなかった。
バシード侯爵家は、王国にとって重要な家門だ。
長い歴史を持ち、広い領地を有し、交易にも深く関わっている。
アレクシス個人に問題があろうとも、侯爵家そのものまで潰すわけにはいかない。
「……だからこそ、視察なのですか?」
宰相が尋ねた。
国王は少しだけ口元を上げる。
「そうだ」
「ヴァルハイム王国との交易視察を、あえて侯爵に?」
「他に適任者がいないわけではない」
「では、なぜ……」
国王は机の上にある報告書を指先で叩いた。
「学ばせるためだ」
「学ばせる?」
「ああ」
国王は立ち上がり、窓辺へ歩いていく。
「ヴァルハイム王国は、ここ数年で急速に発展している。交易制度を改め、港湾設備を整え、商人たちを積極的に受け入れた。その中心にいるのが……」
「ウィリアム第一王子……ですね」
「そうだ。そしてそこにエレノア嬢まで加わった」
国王は海の向こうを見るように目を細めた。
「アレクシスには、それを自分の目で見てもらう」
「……それは、かなり酷な命令では?」
「そうかもしれんな」
国王は否定しなかった。
「だが、あの男には必要だ」
アレクシスは、失ったものの価値をまだちゃんと知らないだろう。
妻がいた頃には、それがどれほど恵まれたことなのか理解しなかった。
エレノアがいなくなって初めて。
家が少しずつ傾き。
人が離れ。
かつて当たり前だったものが、当たり前ではなかったと気付き始めている。
それでも。
まだ足りない。
「侯爵家が傾いた理由を、他人のせいにされては困る」
国王は淡々と言った。
「エレノア嬢が悪かったわけではない」
「もちろんです」
「リリア嬢が悪い、と言うつもりもない」
宰相が少し驚いたように顔を上げる。
「では?」
「原因はアレクシス自身だ」
それだけだった。
「自分で選んだ結果だ」
国王は振り返る。
「だから、自分でその結果を見るべきだ」
宰相はしばらく黙っていた。
「……陛下は、エレノア嬢に戻ってきてほしいとお考えなのですか?」
その問いに。
国王は首を横に振った。
「いや」
迷いのない答えだった。
「エレノア嬢には、もう戻る必要などない」
「……」
「彼女には、今の人生がある」
王太子妃として。
そして、一人の女性として。
ヴァルハイム王国で多くの人々に愛されている。
その事実を、国王は知っている。
「私は、エレノア嬢が笑っているならそれでいいと思っている」
穏やかな声だった。
「侯爵家へ戻せなどとは、決して言わん。もちろん言えんしな」
国王は机の上の報告書へ視線を戻す。
「だが、アレクシスには知ってもらう」
「何を、でしょうか」
「自分が何をしてしまったのかを」
短い沈黙。
そして……国王は小さく笑った。
「もっとも……」
「はい?」
「実際にエレノア嬢を見れば、嫌でも分かるだろう」
王太子妃として堂々と歩く姿。
街の人々と笑い合う姿。
夫であるウィリアム王子と並んで歩く姿。
かつて自分の隣にいた女性が。
自分と別れた後、どれほど幸せになったのか。
それを目の前で見せられる。
「……少々、気の毒ではありますな」
宰相が苦笑する。
「そう思うか?」
「はい」
「私はそうは思わん」
国王は即答した。
「自分で選んだ道だ」
そして。
ほんの少しだけ、意地の悪い笑みを浮かべる。
「それに、視察なのだからな」
「……視察、ですか」
「そうだ」
国王は何食わぬ顔で頷いた。
「ヴァルハイム王国の発展を、その目で確認してくるのだ」
「そして、エレノア嬢の隣に立つウィリアム王子がどれほど優れた男なのかも」
宰相が思わず吹き出した。
「陛下……」
「何だ」
「少々、意地が悪すぎませんか」
「そうか?」
国王は笑った。
「だが、私は何も嘘は言っておらん」
確かに。
命じたのは視察だ。
交易を学び。
港を見て。
ヴァルハイム王国の発展を確認する。
それだけ。
その結果。
何を思うかまでは、王の知ったことではない。
「さて」
国王は椅子へ戻った。
「アレクシスは今頃、ヴァルハイムの港へ着いた頃か」
「おそらく」
「で、あれば……」
国王は窓の外を見た。
「もう、気付いた頃かもしれんな」
かつて自分の隣にいた女性が。
自分の知らない場所で。
自分の知らない幸せを手にしていることに。
そして。
その幸せを、自分自身の手で手放したことに。
国王は静かに目を細めた。
「……愚かな男だ」
誰に聞かせるでもなく。
そう呟いた。
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