番外編 エレノアの恋 第5話「人を見る目」
ヴァーレン商会との契約も、いよいよ最終確認を残すだけとなった。
「では、この内容でよろしいでしょうか」
エレノアが契約書を差し出す。
ウィルは一通り目を通し、小さく笑った。
「……少し、私どもに有利すぎませんか」
「そうでしょうか?」
「輸送中の事故が起きた場合、損失の七割をエレノア商会が負担する内容になっています」
「ええ」
「相場なら五分五分です」
エレノアは首を横に振る。
「海は人の力ではどうにもならないことがあります。それに……船員の皆さんは、命を懸けて荷物を運んでくださっています。その危険まで押し付ける契約は、私は結びたくありません」
ウィルは契約書から顔を上げた。
「……利益は減りますよ」
「その代わり、信用は増えます」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「私は、その方が好きなんです」
その一言に、応接室は静まり返る。
同行していたヴァルハイムの商人たちは顔を見合わせた。
誰もが思っていた。
この条件なら、こちらが得をしすぎる、と。
しかし、エレノアはそれを承知で差し出している。
「エレノア様」
年配の商人が静かに立ち上がった。
「この契約では、我々の良心が痛みます」
「え?」
「人を見る目はあるつもりです。我々は今後もエレノア商会……いえ、エレノア様との取引を続けたいと思っております。今回の商談、事故の責任は双方で負うべきでしょう。ですので、この条項は書き換えてください」
エレノアは少し驚いたあと、ふっと笑った。
「ありがとうございます」
「では、お互い五割ずつで」
「それがよろしいかと」
契約は、その場で書き直された。
部屋の空気は、どこか温かかった。
互いに利益を奪い合うのではなく、譲り合って結ばれた契約だったからだ。
契約を終えた帰り道。
「エレノア様」
ウィルが歩調を合わせる。
「エレノア様、本日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
「どうして、あの条件を?」
エレノアは少しだけ考えてから答えた。
「昔、父に教わったんです」
『契約は、勝ち負けを決める紙ではない。十年後も笑って握手するための約束だ』
「その言葉が、ずっと心に残っているんです」
ウィルは静かに頷く。
「素晴らしいお父上ですね」
「ええ」
エレノアは空を見上げた。
「もう亡くなりましたけれど、感謝はしています。幸か不幸か現在の私がいるのは父のおかげでもあるので」
意味深な言葉を紡ぐその横顔には寂しさがあった。
しかしウィルはあえて何も触れず、慰めの言葉を言わなかった。
代わりに、少しだけ歩幅を緩める。
沈黙が苦しくならないように。
ただ隣を歩く。
その気遣いが、エレノアには心地よかった。
港へ戻る途中、一人の少年が荷車を引いて坂道を上っていた。
しかし荷は重く、車輪が石に引っ掛かって動かない。
「くそっ、もう少し……!」
少年は必死だった。
次の瞬間、ウィルは何も言わず荷車の後ろへ回った。
「せーのっ!」
ぐっと押し上げる。
荷車はゆっくり坂を登り始めた。
「ありがとうございます!」
少年は何度も頭を下げる。
「気を付けてな」
ウィルは笑って手を振るだけだった。
礼も名前も求めない。
エレノアはその姿を見つめていた。
「どうかしましたか?」
「……いえ」
少しだけ笑う。
「あなたは、本当に不思議な方ですね」
「そうですか?」
「困っている方を見ると、考えるより先に身体が動く。商人というより……」
そこまで言って口をつぐむ。
「まるで、国を守る騎士のようです」
ウィルは一瞬だけ目を丸くし、照れたように笑った。
「買いかぶりですよ」
「いいえ」
エレノアはゆっくり首を横に振る。
「私は、人を見る目には少しだけ自信があります」
その言葉に、ウィルの鼓動が一つ高鳴る。
(この人は、本当に見抜いている)
肩書きではない。
生き方を見ている。
だからこそ、誤魔化せない。
出港準備で船内が慌ただしくなる中、ウィルは船室で報告書を開いていた。
『契約は無事締結』
『今後の交易は極めて有望』
そこまでは迷いなく書き進める。
しかし、その先でペンが止まった。
今日一日の出来事を思い返そうとすると、頭に浮かぶのは契約の内容ではない。
契約書を前に穏やかに微笑んだエレノア。
少年へ向けた嬉しそうな笑顔。
そして――
『私は、人を見る目には少しだけ自信があります』
その言葉が、何度も胸の奥で繰り返される。
「……困ったな」
思わず小さく呟いた、その時だった。
扉が四度、軽く叩かれる。
「殿下」
副船長が顔を覗かせる。
「積み込みがまもなく終わります」
「ああ、すぐ行く」
そう答えながらも、ウィルは書きかけの報告書へ視線を落とした。
「……何か、お悩みですか?」
「いや」
短く返す。
副船長は机の上を見て、小さく笑みを浮かべた。
「報告書を書く手が止まるとは、珍しいこともあるものです」
「少し考え事をしていただけだ」
「そういうことに、しておきましょう」
意味ありげな笑みに、ウィルは思わず苦笑する。
「お前には敵わないな」
「長いお付き合いですので」
副船長は一礼して船室を後にした。
一人残されたウィルは、窓の外へ視線を向けた。
岸壁では船員たちが忙しく行き交い、最後の確認作業が進められている。
出港は、もう間もなくだ。
海を越えてきた目的は交易。
そのはずだった。
それなのに胸に残っているのは、利益でも航路でもない。
他国で出会った、たった一人の女性の穏やかな笑顔だった。
ウィルは静かに航海日誌を閉じ、小さく息を吐く。
「……また、会えるだろうか」
誰に聞かせるでもないその呟きは、船窓から吹き込む潮風にさらわれ、静かに港の喧騒へ溶けていった。
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