番外編 エレノアの恋 第2話「この人は、ただの商人ではない」
翌日。
ヴァーレン商会との正式な商談が始まった。
応接室には積荷の目録や価格表、各商会から提出された契約書が並べられている。
「まずはこちらの香辛料ですが……」
ウィルが資料を広げる。
「今年は北方で冷害があり、収穫量が三割ほど落ちています。そのため価格は昨年より高くなります」
「妥当ですね」
エレノアはすぐに頷いた。
「ですが、この価格では王都の市場には流しにくいでしょう」
「その通りです」
ウィルも頷く。
「ですので、高級料理店への販路を中心に考えています」
「では、こちらの薬草は逆ですね」
エレノアは一枚の資料を指差した。
「今年は豊作です。利益を欲張るより、市場へ多く流した方が結果的に長く売れます」
ウィルは目を丸くした。
(速い)
数字を見るだけで市場の流れを読んでいる。
しかも、自分と同じ結論にたどり着いた。
「お見事です」
「いえ」
エレノアは微笑んだ。
「商売は一人でするものではありませんから」
その一言に、ウィルは思わず顔を上げる。
「利益を独り占めすれば、その場は勝てるかもしれません。でも相手が困れば次はありませんし、長く続く取引の方が私は好きなんです」
父王が言っていた。
『本当に優れた商人は、一度の儲けより十年後の信用を選ぶ』
目の前の女性は、まさにそういう人だった。
昼食は商館の中庭で用意された。
豪華な料理ではない。
焼きたてのパンに野菜のスープ、干し肉と果物。
「申し訳ありません」
エレノアが少し困ったように笑う。
「こちらの準備不足で、簡単なものしかご用意できませんでした」
「いえ、予定よりだいぶ早く来てしまったこちらも申し訳ない」
ウィルはスープを口に運ぶ。
温かい。
どこか懐かしい味がした。
「……美味しい」
思わず本音が漏れる。
「料理長の自慢のスープなんです」
エレノアは嬉しそうだった。
その時だった。
中庭の隅で働いていた若い使用人が、木箱を抱えたまま転んでしまう。
箱の中の瓶が割れ、辺りへ液体が飛び散った。
「も、申し訳ございません!」
青ざめた使用人は必死に頭を下げる。
「ウィル様申し訳ございません!少々失礼します!」
エレノアはすぐに立ち上がった。
怒ることも責めることもなく、使用人の前へしゃがみ込む。
「マーク、怪我は?」
「え……」
「手を見せて」
瓶の破片で指先を切っていた。
エレノアは近くの布で傷口を押さえる。
「急いで消毒を!」
「は、はい!」
周囲の者が慌てて動く。
「エレノア様、申し訳ありません。僕のせいで大事な商品が……」
「大丈夫、これぐらいのロスは想定内よ」
エレノアは優しく笑った。
「でも、あなたの指は替えられないわ」
若い使用人は涙ぐみながら何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……」
その様子を、ウィルは黙って見ていた。
(なるほど)
昨日、船員たちが彼女を見る目が違った理由が分かった。
命令する主人ではない。
守る主人なのだ。
商談を終え、港まで歩く帰り道。
副船長が小声で話しかけてきた。
「……殿下」
ウィルは苦笑する。
「今は担当者、ウィルだ」
「失礼しました」
副船長は笑いながら続けた。
「いかがでしたか?」
「……驚いた」
「はい?」
「これほど信用される理由が、一日で分かった」
「肩書きではありませんね」
「ああ」
ウィルは港の向こうに見える商館を見つめた。
「彼女は人を駒ではなく、ちゃんと人として見ている」
少しだけ間を置いて、小さく笑う。
「だから皆、彼女のために働きたくなるんだろうな」
副船長はニヤリと笑った。
「珍しいですね」
「何がだ?」
「殿下が女性をそこまで褒めるなんて」
ウィルは咳払いをする。
「商人として評価しただけだ」
「そういうことにしておきます」
副船長は肩をすくめた。
その夜。
ウィルは船室で父王宛ての報告書を書いていた。
『エレノア・アシュフォード殿は、極めて優秀な商人です』
そこまで書き、ペンが止まる。
少し考えてから、一行を書き足した。
『そして何より、人に信頼される理由を持つ女性です』
報告書には書かなかった。
今日一日、彼女の笑顔が何度も頭に浮かんだことだけは。
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