番外編 欲しかったもの
「リリア様……申し訳ございません……」
侍女は怯えたように頭を下げた。
「またですか?」
リリアは苛立ちを隠さず、ティーカップを机へ叩きつける。
「今月だけで何件目ですの!」
「……三件目でございます」
「理由は?」
「使用人が辞めてしまい、新しい方が定着せず……」
「言い訳なんて聞いていません!」
「…………」
甲高い声が応接間へ響く。
しかし、誰も顔を上げようとしない。
侯爵家は変わった。
いや、変わってしまった。
エレノアがいた頃は、使用人たちには笑顔があった。
廊下はいつも磨かれ、庭には季節の花が咲き、食卓には温かな料理が並んでいた。
今は違う。
庭には雑草が伸び、噴水は止まり、屋敷の壁には小さなひびが入り始めている。
「新しい料理長は?」
「昨日、退職しました」
「庭師は?」
「先週……」
「執事は?」
「辞表を提出しておりますので現在処理中です……」
リリアは信じられないという顔で首を振る。
「どうして!?給金ならしっかり支払っているでしょう!」
年配の侍女が、小さく呟いた。
「……皆、お金だけのために働いていたわけではございませんので」
「何ですって?」
「い、以前の奥様は……」
侍女は震えながら続けた。
「私どもの子どもの名前まで覚えてくださっていました」
「夫が病に伏せた時には、お見舞いにも来てくださいました」
「娘の結婚式には、お祝いのお花まで」
「だから皆、恩を返したかったのです」
リリアは唇を噛んだ。
そんなこと、知らない。知る必要もない。
知ろうともしなかった。
「……もういいわ」
侍女は静かに頭を下げ、部屋を出て行った。
その日の夕方。
「リリア」
アレクシスが疲れ切った顔で帰ってきた。
「銀行から最後通告を受けた」
「えぇ!?」
「来月までに返済できなければ、領地を切り売りしていくしかない」
リリアは顔をしかめた。
「そんなの、侯爵であるあなたが何とかしてください」
「何とかできるなら、とっくにしている!」
初めてアレクシスが声を荒らげた。
部屋が静まり返る。
「すまない」
リリアはゆっくり立ち上がる。
「……何ですの、その言い方」
「私だって苦しいんだ!」
アレクシスは机を叩く。
「毎日、毎日、『エレノア様なら』と言われる!」
商会でも。
銀行でも。
領民からも。
使用人からも。
『前の奥様は違いました』
その言葉ばかりだった。
リリアも負けじと言い返す。
「それは私のせいではありません!」
「私は侯爵夫人になっただけ!」
「お前が望んだんだろう!」
「あなたが誘ったんでしょう!」
二人は互いを睨み合う。
かつて愛を囁き合った二人は、もうどこにもいなかった。
残っていたのは、責任を押し付け合う男女だけだった。
その夜。
リリアは一人で鏡の前に座っていた。
引き出しを開ける。
そこには、青いサファイアの首飾りがあった。
アレクシスが初めて贈ってくれた宝石。
あの日は嬉しかった。
これで本当にエレノアから勝ったと思った。
震える手で首飾りを身につける。
鏡を見る。
美しい。
侯爵夫人らしい。
そう思うはずだった。
しかし、鏡に映る自分の姿はどこか空虚だった。
ふと、昔のことを思い出す。
まだ幼かった頃。
初めて熱を出した夜。
エレノアは一晩中、寝ずに看病してくれた。
眠っていると思っていたリリアの額へ手を当て
「早く元気になってね」
そう微笑んでいた。
冬の日には、自分だけ新しいコートを譲ってくれた。
社交界で婚外子と陰口を叩かれた日は
「大丈夫、あなたは私の大切な妹よ」
そう言って、人前で堂々と手を繋いでくれた。
あれは演技ではなかった。
本物だった。
「……お姉様」
小さく呟く。
返事はない。
今さら謝っても遅い。
あの日、庭園で。
「隠し事はない?」
そう聞かれた時。
すべてを話していれば。
泣いて謝っていれば。
許されたかどうかは分からない。
それでも、家族ではいられたかもしれない。
リリアは首飾りを外した。
次の瞬間。
「ガンッッッ!!!」
床へ叩きつける。
乾いた音とともに、サファイアの首飾りが弾けた。
欲しかったものは、侯爵夫人の地位ではなかった。
宝石でもなかった。
エレノアのように誰かから信頼され、心から愛されること。
その一番大切なものを、自分の手で捨ててしまったのだ。
バラバラになった首飾りを拾う者は、もう誰もいなかった。
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次話より番外編「エレノアの恋」スタートです!
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