最終話 私が守りたかったもの
「エレノア様、お客様がお見えです」
王都の屋敷へ移り住んで二か月。
新しい執事の言葉に、エレノアは本から顔を上げた。
「どなたですか?」
「……アレクシス様です」
部屋の空気が静かに止まる。
少しだけ考えたあと、エレノアは小さく頷いた。
「応接間へ」
やがて現れたアレクシスは、まるで別人だった。
以前は仕立ての良かった上着もくたびれ、頬は痩せ、目の下には深い隈ができている。
「久しぶりだな」
「ええ」
「元気そうで安心した」
「ありがとうございます」
短い沈黙が流れる。
先に口を開いたのはアレクシスだった。
「謝りに来た」
エレノアは何も言わない。
「私は……愚かだった」
その声は震えていた。
「商会も。
使用人も。
社交界も。
誰も、侯爵家を見ていたんじゃなかった」
俯いたまま続ける。
「皆、お前を見ていたんだ」
エレノアは静かに紅茶を口へ運ぶ。
その事実に気付くまで、ずいぶん時間が掛かったのですね。
そう思ったが、口にはしなかった。
「私は侯爵という肩書きがあれば、人はついてくると思っていた。でも違った。皆、お前の誠実さに頭を下げていた」
エレノアは少しだけ微笑む。
「そんなことありません」
アレクシスは首を横に振った。
「違う。商人達だってそうだ。お前は相手の利益まで考えて契約していた。相手の子どもが病気になれば見舞いへ行き、商売が苦しければ支払いを待った。使用人の名前も家族の名前も覚えていた。私は何も知らなかった」
その言葉は、自分自身への懺悔だった。
「……戻ってきてくれないか」
ようやく、本題を口にする。
「もう一度、一緒に侯爵家を立て直してほしい」
エレノアは静かに首を横へ振った。
「お断りします」
即答だった。
アレクシスは目を閉じる。
予想していた。
それでも、期待してしまった。
「あなたは大きな勘違いをしています」
エレノアは穏やかに言う。
「私は侯爵家を支えていたのではありません」
「……?」
「あなたを、支えたかっただけです」
アレクシスが顔を上げる。
「夫婦だから。
家族だから。
一緒に幸せになりたかった」
その願いは、もう届かない。
「でも」
エレノアは続ける。
「あなたは私ではなく、私が築いたものだけを見ていました」
「違う!」
思わず立ち上がる
「い、今は違う!今なら分かる!」
「遅いのです」
静かな一言だった。
怒りはない。
恨みもない。
ただ、終わっている。
「私が欲しかったのは、あなたが困ってからの愛情ではありません。あなたの誠実さでした」
アレクシスは何も言えなかった。
その通りだった。
失ってから、大切さに気付いた。
だが、それでは遅い。
その時、応接間の扉がノックされる。
「入って」
「失礼いたします」
入ってきたのは、ワイン商会の支配人だった。
「エレノア様、本日はお時間をいただきありがとうございます」
続いて羊毛商会の会頭。
港湾商会の代表。
薬草組合の組合長。
次々と応接間へ姿を見せる。
「新しい共同事業の件ですが、契約書をお持ちしました。ぜひ、今回もご一緒させてください」
彼らは侯爵家の肩書きなど見ていない。
エレノアという一人の人間を信じて集まってきたのだ。
アレクシスはその光景を見つめることしかできなかった。
これが。
自分が捨てた人なのか。
エレノアは立ち上がり、商人たちへ微笑む。
「皆様、本日はありがとうございます」
「こちらこそ」
「またご一緒できて嬉しいです」
その笑顔は、侯爵夫人だった頃と何も変わらない。
いや、もっと自然だった。
帰り際。
アレクシスは扉の前で立ち止まる。
「最後に一つだけ」
「はい」
「……今まですまなかった。幸せになってくれ」
エレノアは優しく微笑んだ。
「もう、幸せですよ」
その言葉を聞いた瞬間。
アレクシスはようやく悟る。
自分が失ったのは、侯爵家を支える優秀な妻ではない。
どんな時も自分を信じ、隣で笑ってくれる、たった一人の家族だったのだ。
扉が静かに閉まる。
エレノアは窓の外へ目を向けた。
春風が庭の花々を揺らしている。
父との約束は守れたのか分からない。
それでも、後悔はない。
家族としてできることは、すべてやった。
だからこれからは。
誰かのためではなく、自分のために生きていこう。
窓の外では、小鳥が楽しそうにさえずっていた。
その声は、新しい人生の始まりを祝福しているようだった。
感想、レビュー、☆、励みになります(小躍りします)
いかがだったでしょうか?
エレノアには是非幸せになって欲しいです。
現在番外編も執筆中。
よろしければブックマークお願い致しますm(_ _)m




