第3話「婚約者という名の地雷原」
学園生活にも慣れてきたある週末、俺に避けられないイベントが舞い込んできた。
婚約者、ソフィア・フォン・ヴァレンシュタイン公爵令嬢とのお茶会である。
ソフィア。
彼女は原作において、ジークと共謀してヒロイン・リリアをいじめ抜く、正真正銘の『悪役令嬢』だ。
プライドが高く、嫉妬深い。
ジークの破滅に加担し、最終的には彼と共に没落していく運命にある。
彼女こそ、俺にとって最大の地雷原。
ここで下手に原作通りの傲慢な態度を取れば、彼女は喜々として俺の共犯者になるだろう。
かといって、急に態度を変えすぎても不審に思われる。
『目標は、円満な婚約解消だ』
そのためには、彼女に「こんな男と婚約しているなんて最悪」と思わせるのではなく、「彼ほどの素晴らしい人なら、もっとふさわしい相手がいるはず。私では役不足だわ」と思わせるのがベスト。
つまり、徹底的に紳士として振る舞い、人格者であることをアピールし、将来的に彼女の方から「あなたとは友人として……」と言わせる流れに持っていくのだ。
我ながら完璧な作戦だった。
クラインフェルト家の庭園に設けられたテーブルで、俺はソフィアが来るのを待っていた。
やがて、絹ずれの音と共に、美しい少女が姿を現す。
燃えるような真紅の髪に、気の強そうな翠の瞳。
完璧な美貌だが、その瞳の奥には常に他者を見下すような光が宿っている。
それが俺の知るソフィアだった。
「お待たせいたしました、ジーク様」
ソフィアは優雅にカーテシーを決める。
その所作は完璧だが、声にはどこか棘がある。
「待ってはいないさ。僕が早く来すぎただけだ。座ってくれ、ソフィア」
俺は立ち上がり、彼女のために椅子を引いた。
その瞬間、ソフィアの翠の瞳が、わずかに見開かれたのを俺は見逃さなかった。
『……え?』
彼女の心の声が聞こえた気がした。
原作のジークは、彼女が座るのを待たずにドカッと座り、「遅いぞ」と罵るような男だったはずだ。
ソフィアは戸惑いながらも、俺が引いた椅子に静かに腰を下ろした。
お茶が運ばれ、気まずい沈黙が流れる。
何か話さなければ。
そうだ、まずは当たり障りのない話題から。
「学園生活には慣れたかい? 何か困ったことがあれば、いつでも言うといい」
「……ええ、特に問題はございません。ジーク様こそ、いかがお過ごしですか」
「僕も変わりない。ただ、少し騒がしいのが玉に瑕だが」
これは本音だ。
特に、最近やたらと俺の周りをうろちょろする取り巻き令嬢たちはうるさい。
だが、ソフィアはこの言葉を全く違う意味で受け取ったようだった。
彼女の眉がぴくりと動く。
「……騒がしい、と申しますと。もしや、平民上がりの聖女のことでしょうか」
来た。
早速、本題に切り込んできた。
原作なら、ジークはここで「いかにも! あの女がいるだけで空気が汚れる!」と同意し、二人でリリアの悪口大会が始まる流れだ。
だが、俺は穏やかに首を横に振った。
「いや、彼女のことではない。特定の誰か、というわけではないんだ。ただ、僕は静かな方が好ましいというだけだ」
そして、俺は勝負に出た。
手にしていたティーカップを静かにソーサーへと戻す。
ソフィアの翠の瞳を真っ直ぐに見つめ、一切の誤魔化しを含まない真摯な声で告げた。
「ソフィア。僕は、君との婚約を大切に思っている。だからこそ、君に余計な心配や迷惑はかけさせたくないんだ。僕の周囲で何が起ころうと、君は君らしく、誇り高く過ごしてくれればいい」
これは、「俺の問題(破滅フラグ回避)に君を巻き込むつもりはないから、安心してくれ。だから将来、俺が婚約解消を切り出しても恨まないでね」という遠回しなメッセージのつもりだった。
しかし、ソフィアは違った。
彼女は、傲慢で自分勝手だと思っていた婚約者からの、あまりにも理知的で、大人びていて、そして何より――優しい言葉に、大きく目を見開いて硬直していた。
完全に思考が停止してしまったのだ。
『ジーク様が……私に迷惑はかけたくない、と? 君は君らしく、誇り高く……? 今のジーク様は、まるで……』
ソフィアの中で、今まで築き上げてきた『ジーク・フォン・クラインフェルト』の人物像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
目の前にいるのは、幼い頃に知っていたわがままな少年でも、噂に聞く傲慢な貴公子でもない。
全てを見通すような深い紫の瞳を持つ、気高く、そしてどこか孤独な影を背負った、一人の男性だった。
彼女の中で、一つの疑惑が確信に変わっていく。
『そうだったのね……。彼ほどの御方が、平民上がりの聖女ごときに本気で執着なさるはずがない。きっと、何か深いお考えがあって、あえて周囲には冷たく傲慢に振る舞っておられるのだわ。そして、私をその面倒事に巻き込まないように、こうして気遣ってくださっている……!』
なんてお優しい方なのだろう。
なんて気高い方なのだろう。
ソフィアの頬が、ぽっと赤く染まる。
今まで婚約者という立場を鼻にかけていただけだった感情が、本物の恋心へと変わる音がした。
「ジーク様……」
ソフィアはうっとりとした表情で俺を見つめる。
「そのように、私のことまでお気遣いくださるとは……。ソフィア、感激いたしました。私こそ、ジーク様のお力になれるよう、精一杯努めさせていただきますわ!」
『……あれ?』
俺の脳内にクエスチョンマークが乱舞する。
おかしい。
俺の狙いは「俺に関わらないでくれ」だったはずだ。
なのに、どうして「全力でサポートします」みたいな流れになっているんだ?
「いえ、ジーク様は何もおっしゃらないでしょうけれど、私には分かります。あの聖女の存在が、王国のパワーバランスを揺るがしかねないということを、ジーク様は憂慮しておられるのでしょう? ご安心くださいませ。私もヴァレンシュタイン家の娘。陰ながら、ジーク様のお考えの助けとなるよう、動いてみせますわ!」
勝手に目を輝かせ、勝手に俺の「深謀遠慮」を理解し、勝手に協力宣言をするソフィア。
彼女もまた、見事に勘違いの沼に、それも最も深く、抜け出し難い沼にその両足を突っ込んでしまったのだった。
俺はただ、引きつった笑みを浮かべてお茶を飲むことしかできなかった。
地雷原を処理したつもりが、超高性能な味方(ただし目的は違う)を爆誕させてしまったことを、俺はまだ理解していなかった。




