第2話「教科書とすり替わった善意」
学園生活が始まって一週間。
俺は依然として「壁の染み」作戦を継続していた。
授業は真面目に受け、誰とも群れず、放課後は真っ直ぐに寮へ帰る。
完璧なまでのボッチムーブだ。
この調子なら、卒業まで平穏無事に過ごせるかもしれない。
そんな淡い期待を抱き始めた頃、俺は新たな破滅フラグの到来を思い出した。
――『リリアの教科書隠しイベント』。
原作では、ジークが取り巻きの令嬢たちに命じて、リリアの大切な魔法薬学の教科書を盗ませるという陰湿なイベントだ。
平民で教科書を買い直す余裕のないリリアは、授業についていけなくなり、途方に暮れる。
そこを攻略対象の一人に助けられ、好感度を上げるという、ヒロインお助けイベントの典型だった。
もちろん、俺がそんなことをするはずもない。
だが、問題は取り巻きの令嬢たちだ。
俺が何もしなくても、彼女たちが勝手にリリアへの嫌がらせとして、同じことを仕出かす可能性が高い。
そうなれば、実行犯ではなくても、監督不行き届きだの、俺が裏で糸を引いているだのと疑われ、結局は俺の責任にされかねない。
『阻止しなければ……!』
俺はゲームの記憶を頼りに、イベントが発生するであろう魔法薬学の授業前、リリアが席を立つタイミングを見計らって行動を開始した。
彼女が友人と話すために少し席を離れた、まさにその瞬間。
案の定、先日リリアを囲んでいた金髪縦ロールの令嬢とその仲間が、こそこそとリリアの席に近づいていくのが見えた。
『ビンゴ!』
俺はすっと立ち上がり、何気ないふりをしながら彼女たちの進路に回り込んだ。
「――そこで何をしている」
再びの、地を這うような低い声。
デジャヴだった。
令嬢たちは「ヒッ」と短い悲鳴をあげ、びくりと体を震わせる。
「ジ、ジーク様……! いえ、わ、私たちは何も……」
しどろもどろになる彼女たちを、俺は冷たい紫の瞳で見下ろした。
内心は『頼むから大人しく引き下がってくれ!』と必死に念じている。
「くだらない真似はよせ。時間の無駄だ」
俺が言ったのは、純粋な本心だった。
こんな嫌がらせに時間を使うくらいなら、一つでも多く魔法の呪文を覚えた方が有意義だ。
全くもって時間の無駄だ。
だが、この一言が、二つの巨大な勘違いを生むことになる。
まず、取り巻きの令嬢たち。
彼女たちは、俺の言葉をこう解釈した。
『くだらない真似……? まさか、ジーク様ご自身が、何か聖女を懲らしめるための壮大な計画を企てていらっしゃる……?』
『そうよ、きっとそうに違いないわ! 私たちのような小物のやることは、ジーク様の計画の邪魔になるということね!』
『「時間の無駄だ」……! なんてこと! 私たちはジーク様のお時間を無駄にするところだったんだわ!』
彼女たちは顔を見合わせ、深く頷くと、俺に対してうやうやしく頭を下げた。
「も、申し訳ございません! 私たちの浅慮でした! ジーク様のお考えを邪魔するつもりは毛頭ございません!」
そう言って、彼女たちはそそくさと自分たちの席に戻っていった。
『……? まあ、引いてくれたならそれでいいか』
俺は内心首を傾げながらも、第一目標は達成できたことに安堵した。
そして、そのやり取りの一部始終を、席に戻りながら見ていた人物がいた。
ヒロインのリリアだ。
ちょうど俺の背中越しに、令嬢たちが自分の机から離れていくのが見えた。
そして、俺が発した「くだらない真似はよせ」という言葉が、彼女の耳にも届いていた。
彼女は、俺が何をしていたのかを瞬時に理解した。
『あの人たち、また私に何か嫌がらせをしようとしていたんだ……。それを、ジーク様が……また、助けてくれた……?』
先日の入学式の出来事が、彼女の脳裏に蘇る。
冷たい態度で、でも確かに助けてくれた銀髪の公爵令息。
今日もそうだ。
彼は誰にも気づかれないように、まるでそれが当たり前であるかのように、私の知らないところで私を守ってくれている。
「くだらない真似はよせ。時間の無駄だ」
その言葉は、リリアにはこう聞こえた。
『彼女に対して、そんなくだらないことをするのはやめろ。そんなことに君たちの時間を使うのは無駄だ、と……そう言って、私を庇ってくれたんだ……!』
リリアの胸に、温かい何かがじんわりと広がっていく。
ジークに対する警戒心や恐怖は、この一週間でほとんど消え失せていた。
そして今、それは確かな『興味』と、ほんの少しの『好意』へと形を変えようとしていた。
俺はと言えば、二つのフラグを同時に回避したと信じ込み、満足げに自分の席に戻った。
まさか、俺の知らないところで、取り巻きが「ジーク様の深遠なる計画」を妄想して勝手に俺の信者予備軍と化し、ヒロインが「陰ながら支えてくれる騎士様」という少女漫画的フィルターを通して俺をみ始めているとは、夢にも思わずに。
俺の平穏への道は、また一歩、意図しない方向へと踏み外したのだった。




