お前は、お兄ちゃん失格だ。
「……何をしている、魔王。時が来るまで、『僕』を守るのがお前の役目だろ」
真っ二つに切り裂いた巨大な繭の中から。
這い出るようにして、静かな、けれど深海のような重圧を伴う声が響いた。
『仕方ないじゃないですか。天敵がこの島に存在していたなんて、流石のボクも計算外ですよ。……でも、そろそろ良い頃合いではないですか? 「魔王様」?』
黒い球体が、恭しく中空に浮かび直す。
繭の隙間から、気だるげに一人の男が立ち上がった。
「魔王様」と呼ばれたその男の顔。佇まい。
そのすべてが、紛れもなく――。
「……『僕』」
「やぁ、僕。この楽園の島での日々を、楽しんでもらえたかな?」
鏡の向こうから語りかけてくるような、あまりにも不気味な既視感。
僕は、胃の底から沸き上がる強烈な嫌悪感を、そのまま彼へとぶちまけた。
「……何が楽園だ、ふざけるな! こんな地獄の殺し合いを、楽園なんて呼ぶ化け物が、僕であるわけがない!」
「――『僕』はね。この島を出た後で、カレンとギンカの二人を失ったんだよ」
「……え?」
男の静かな言葉が。
僕の胸の奥を、痛烈に、ナイフで抉るように突き刺した。
「殺し合いを勝ち抜き、『僕』たち三人は、魔王によって元いた場所に帰された。……だが、そこに待っていたのは、終わりのない追跡と差別の“地獄”だったんだ」
『僕』の瞳が、虚無の彼方を見つめる。
「島での『勇者大量虐殺』の罪。……それはすべて、生き残った『僕』たちに被せられたんだよ」
「…………っ」
「慎ましく、身を隠し、逃げ回りながら……三人で必死に生きていた。だが、ある日、『僕』たちは王の討伐軍に見つかった。必死に抵抗したが、無駄だった」
彼の手が、ギリッと強く握りしめられる。
「カレンの炎も、ギンカの氷も全く効かない、巨大で恐ろしい鋼鉄の機械。……二人はね、『僕』を生かすため、『僕』を逃がすために、『僕』を庇って。……『僕』の目の前で、呆気なく殺されたんだ」
血の気が引く。
そんな未来、想像したくもない。
「……命より大切な妹たちが、繋いでくれた命だ。自ら断つこともできず、残飯を漁りながら泥水をすすり、逃走を続けるだけの惨めな日々。……そんな壊れかけた『僕』の心をギリギリで支えていたのは、かつてカレンとギンカと過ごした、温かい日常の記憶だけだった」
その瞳の奥に、底の知れない暗黒の深淵が揺れる。
「王は勇者を、国を脅かす極めて危険な存在として、“勇者狩り”を行った。勇者の情報に多額の褒賞金を出し、隠れて暮らす勇者を炙り出し、新たに産まれた勇者を次々と処刑していった。……そんな絶望の中、魔王が『僕』の前に現れた。その時の『僕』には救世主に見えたよ」
「……それで。口車に乗せられて、自分から魔王になったとでも言うのか?」
「そうだ。繭に眠る勇者たちの魂を継承し、さらなる絶対の力を得るために、僕は自らこの繭に籠った。そして、殺し合いの時間を無限にループさせた。……それが――それだけが、あの王を滅ぼし、妹たちを救う唯一の方法だからだ」
狂っている。
僕は島での素晴らしい日々を繰り返し、『僕』は復讐の為に力を蓄える。
なるほど。確かに、魔王にとっても、『僕』にとっても、これ以上ないほど都合が良く、理想的な永久機関だ。
『魔王様。折よく目覚めたわけですし……そろそろ始めてもいいんじゃないですか?』
「そうだな。……これだけの力があれば――」
男は気だるげに右手を持ち上げ。
その指先を、隣でへらへらと浮遊する黒いスライムへと向けた。
その、刹那――。
『……おやおや。これはこれは。ボクはもう用済みというわけですか』
漆黒の球体の中心に、巨大な風穴が開いた。
魔王の身体が、自らの穿たれた穴に向かって、ズブズブと、内側から巻き込まれるように飲み込まれていく。
『構いませんがね。ボクの役目は、より強い魔王を生み出すことですから。……とは言え、少し残念です。せっかくですから、あなたの隣で、壊れ行く世界を見たかった』
「断る。お前の下品な笑い声、堪らなく不快だった」
『そうですか。――何を得て、何を失ったのかも分からない愚かな人間が、世界と共に壊れていく様を、一番近くで見たかったですよっ! アッハッハッハ、アッハッハッハッハ――!!』
狂った高笑いの余韻すらも、空間から完全に消滅した。
ただの指先一つ。
それだけで、最強の魔王が、この世界から跡形もなく消え去った。
残されたのは、絶対の力を持つ『僕』の姿だけ。
「さて、行くとするか。……この島も、もう用済みだ」
「……行かせない」
僕は、全身の骨が軋むほどの恐怖を必死に抑え込み、剣を構えてその歩みを遮った。
「どいてくれ、僕。『僕』は妹たちを守る。……その為に『魔王』になったんだ」
「守る? ……守る為に、その力で、世界を全部壊すのか?」
「そうだ。こうしている間にも、王は勇者に代わる兵器の量産を進めている。力とは“可能性”だ。力がなければ、如何なる未来も掴み取ることはできない」
「何が守るだ! 何が可能性だ! ……もっともらしい理屈を並べて煙に巻いて……お前は結局、力を手に入れて気持ちよくなりたいだけだろ!」
「……僕には――」
「ああ、わからないね! わかりたくもない! 力に流されて、片目を前髪で隠してカッコつけてるような、イキり散らかした奴の気持ちなんて、一ミリも知りたくないね!」
「……。その見た目で決めつける悪い癖、カレンが真似をするようになってしまったな」
「そうだな。大きくなったら治ると思ってたら、どんどん酷くなっていった。……だけど、やっぱり人は見た目の通りだって思うよ」
「『僕』が、力に溺れた悪人だと?」
「ああ。そんな悪人を、大切な妹たちに合わせるわけにはいかない」
挑発のような僕の言葉に、『僕』は自嘲気味に呟いた。
「……そうか。僕は、随分と強くなったんだな。何千回ものループの中で、少しずつ、少しずつ。……これも、“継承”の齎す力、か」
胸の奥が微かに震える。
僕から、僕へ。
諦めきれなかったお兄ちゃんとしての執念が、魂の年輪となって、ほんの少しずつ受け継がれてきたのかもしれない。
『僕』は、大切なものをすべて失い、魔王へと堕ちた。
けれど――その無数の屍とループを越えて、僕は、ようやくこの絶対に折れない心の強さにまで辿り着いたのだ。
「だが、『僕』を止めることはできない。無意味なことはやめて、そこをどいてくれ。……どかないのなら、僕ごと消えてもらうしかない」
「消えるのはお前だ! 『魔王』!!」
『僕』が、その右手を、僕へと向けた。
だが、そんなものは関係ない。
僕はただ一直線に、彼の懐へと足を進める。
肉体はとうにボロボロだ。
カレンの炎も、ギンカの氷も、完全に使い果たした。
相手はスライムでもないから、ノーマンさんの特効能力も効かない。
「安心してくれ。……妹たちは、『僕』が必ず守る」
『僕』から、凄まじいプレッシャーが放たれる。
内臓が押し潰されるような激痛。皮膚がビリビリと裂け、全身から血が噴き出す。
だが、それでも。
僕は、一歩を前に踏み出す。
「止めておけ。それ以上は体がもたない。『僕』は、僕に恨みはない。本当に死んでしまうぞ」
バキッ、と。
腕の骨が砕ける音がする。視界が、血の赤に染まる。
だが、それでも。
僕は、前へ歩き続ける。
「……お前は、お兄ちゃん失格だ」
「なに?」
「――妹たちを、あいつらを隣で『笑顔』にしないと、何の意味もないって言ってんだよ、この馬鹿野郎がぁぁぁーーーッッッ!!」
ズプッ、と。
ただの、何の力も宿っていない、鉄の剣。
それが、魔王となった『僕』の胸の中央を――。
深々と、貫いていた。




