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あたしはお兄にしか捕まらないよ。

「カレン! 僕のおやつ、また勝手に食べただろ!」


「…………」


 脳裏をよぎるのは、遠い日の、まだ幼い頃の記憶。


 あの頃の僕は、まだ何も分かっていなかった。

 自分がどれほど恐ろしい怪物を妹に持ってしまったのかを。


「これで何度目だ! 僕はここ一か月くらい、自分の分のおやつをまともに食べてないんだぞ!」


「……おにぃがちゃんと対策しておかないのが悪いんじゃない?」


 カレンは悪びれもせず、ぷいっと不機嫌そうに丸い頬を膨らませた。

 その態度に、幼かった僕はついに頭に血が上ってしまった。


「この、クソガキ!」


 今日こそは兄の威厳というものを、この生意気な妹にしっかりと分からせてやろう。

 僕は大きく右手を振り上げ、カレンの丸い頬を狙って、真っ直ぐに手のひらを振り下ろした。


 ――え?


 一瞬、世界が完全に停止したかのような錯覚。


 振り下ろしたはずの僕の手は、なぜかカレンの顔に触れることなく、虚しく空を泳いでいた。

 カレンの、淀みがなく、まるで吸い付くような滑らかな手の動き。

 それだけで、手に込めた全エネルギーが、完全に外側へと受け流されてしまったのだ。


 ガラ空きになったみぞおち。そこへ――。


「こひゅっ――!?」


 カレンの小さな手刀が、鋭く、正確に突き刺さった。


 スローモーションのように見えた、その一撃。

 だが、僕の胃袋に齎されたのは、まるで巨大な岩がめり込んできたかのような、重く、深い衝撃だった。


 僕は肺の空気をすべて吐き出し、お腹を抱えて膝から崩れ落ちた。

 地面に額を擦り付け、情けなく、ただただ激痛に震える。


「……だって、おにぃが最近、全然あたしのこと構ってくれないんだもん」


 上から降ってくる、どこか寂しそうな妹の声。


「そ、そう……だったのか。ご、ごめん、僕が……構わなかったのが、悪かった……」


「これからはいっぱい、あたしのこと構ってくれる?」


「ああ。約束、する……っ。だから、お、お母さんを……っ」


「うん! たまにしか食べない!」


 よく考えれば、僕は何も悪くない。

 おやつを一方的に奪われた、完全なる被害者だ。

 なのに、なぜかみぞおちを深く刺し穿たれた上に、土下座のような姿勢で涙ながらに謝罪させられている。


 この時、僕は身を以て理解したのだ。

 カレンの小さな肉体に宿る、圧倒的な、天性という言葉すら生ぬるい格闘センス。

 その恐ろしいほどの才能を。



「へばぁッ!? へぶぅ!? こ、この、おのれ、へぼぉぉぉっっ!!」


 グラントの、あの醜悪に肥え太った顔面が、カレンの拳によってみるみるうちに、さらに不細工に形を変えていく。


 速い。そして、鋭い。

 生身の拳だというのに、一発一発が岩すらも容易に打ち砕くような、凄まじい質量を持ってグラントの顔面を陥没させていく。


 緩急を自在に操るカレンの猛撃の嵐。

 そこには反撃の隙はおろか、グラントに呪詛のセリフを吐き出すための隙間さえ、一秒たりとも与えられていなかった。


 グラントが必死に振り回す大槌の軌道が、虚しく空を切り裂くだけ。

 カレンはそのすべての攻撃を、紙一重で踊るように躱し、カウンターの拳を絶え間なく叩き込み続ける。


「あんた、自分より弱い奴としか戦ったことないんでしょ。それも、重力で自由を奪った上でさ」


「そんな、な、なめ、ぶっほぉぉっっ!!」


 肉が潰れる鈍い音。

 カレンのしなやかな身体から放たれた、強烈な回し蹴りが、醜く腫れ上がったグラントの顎を完璧に捉えた。


 汚い血飛沫を撒き散らしながら、百キロを優に超える大男の巨体が、無様にゴロゴロと転がっていく。


「喋るな。臭い」


 カレンは冷たく言い放つ。その瞳は、冷徹そのものだ。


「……おのれ、おのれぇぇぇ小娘風情がぁ! 許さん、絶対に許さんぞい……ッ! 調子に乗りおってからに! なぶり殺しにしてやる、ぐちゃぐちゃにして、肉片も残さず処刑してやるわい! 地に、伏せよォォォッ!!」


 泥まみれになって立ち上がったグラントが、狂ったように大槌を振り回した。


 ゴォゥゥゥゥンッ!と、空間を歪めるような不気味な衝撃波が放たれる。

 僕とギンカを地面に縫い付けた、あの目に見えない重力波の網が、四方八方へと狂乱のままに乱射され始めた。


 周囲の樹木が、重圧に耐えかねてメリメリと音を立てて圧し折れていく。


「まずい、カレン! 捕まったら動きを――!」


 僕の悲鳴のような警告。

 だけど、カレンはフッと不敵に口角を上げただけだった。


「大丈夫。あたしはお兄にしか捕まらないよ」


 ドンッ!と、地を爆ぜるような力強い踏み込み。

 カレンの身体が加速する。


 縦横無尽に放たれる目に見えない重力の網。

 彼女は獣じみた野生の勘だけでその軌道を完全に読み切り、紙一重のステップで、すべての重力波をすり抜けていく。


 迫る重圧の風を感じながら、彼女の黒髪が夜の闇に美しく舞う。


「このっ! ちょこまかと! 地に伏せよ! 伏せよ! 伏せよ!! 伏せよーーッ!!!」


 焦れたグラントが、大槌を大きく振りかぶる。

 その瞬間、カレンはグラントの正面から、天高く向かって力強く跳び上がった。


 遮るもののない、空中。


「ほっほぉ! 馬鹿めが! 自ら退路のない空中へ逃げるとはな! そこではいかに速くとも躱せまい! さぁっ、大人しく地に伏せ――」


 グラントが勝利を確信し、下品な笑顔を浮かべて、大槌の柄尻を地面へと力任せに突き立てた。


 グラントを中心に、最大出力の重力波が上空から落とされる。

 逃げ場のない空中で、その巨大なエネルギーの濁流が、カレンの華奢な身体を完全に捉えた。


「失せろ、四流ジジイ」


 上空から降ってきたのは、カレンの、どこまでも冷徹で見下すような蔑みの声。


 カレンは、その上空からの重力に抗わなかった。

 それどころか。

 自分を地面へと強引に引き摺り下ろそうとする、グラントの放った巨大な重力のエネルギーのすべてを――自らの脚の、その一撃へと上乗せしたのだ。


 墜落ではない。

 これは、重力の加護を極限まで受けた、音速をも超える、破滅の自由落下。


「あ、やばあ――」


 グラントの視界に、強烈な紅い閃光が走る。

 己の放った重力によって、自らに向かって光速で落ちてくる、死神の脚。


 大気を切り裂き、急降下するカレンの跳び蹴りは。

 夜の森を切り裂く、一筋の流れ星そのものだった。

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