酷いパワハラを受けておったんじゃ!
「ほっほー! これほどピチピチした若い女子がまだ生き残っておったとは! いやぁ、今日はとことんツいておるわい!」
薄汚れた大鎧の角をがしゃがしゃと揺らしながら。
グラントは、ねっとりとした下卑た視線をカレンとギンカの全身へ舐め回すように向けてくる。
その視線だけでも、胃がひっくり返りそうな嫌悪感が押し寄せてきた。
「お兄、一秒でも早く灰にしたいけど。……一応、いつものお約束だから聞いておくね。どうする?」
カレンが、剣の柄にそっと指をかけながら、低く冷え切った声で僕に尋ねる。
その瞳の奥には、すでに狂気的なまでの破壊の焔がチラついている。
「……流石に、今回は戦おう。あんなの、どう考えても信用できないし、生かしておいたら僕たちの命が危ない」
「ここまでわかりやすいと、むしろありがたいですわね」
カレンがその身体からパチパチと紅蓮の火花を灯し、ギンカが周囲の草木を凍りつかせる絶対零度の冷気を纏う。
しかし、グラントは身の丈ほどもある巨大な槌を無造作に肩へと担ぎ、のんきに首を左右に振ってゲラゲラと笑った。
「なんじゃ、待て待てお主ら! 儂に敵意など、これっぽっちもないぞい! むしろ、儂の広い心でたっぷりと愛でてやると言っておるんじゃ。ほれ、遠慮せずに近う寄れ。可愛い可愛い勇者ちゃんたちよォ!」
「こっちはね、あんたのその臭い口が二度と開かないように消し炭にしたいの」
「口だけではなく、漂ってくる体臭も最低最悪ですわ。……周囲の空気がリアルに腐っていく音が聞こえてきそうですの」
ギンカが、露骨に鼻をひくつかせながら、嫌悪感を剥き出しにして一歩下がった。
実際、尋常ではないのだ。
木陰に隠れていたときは風上だったから気づかなかったけれど、正面に向かい合った瞬間、鼻腔をこれでもかと暴力的に破壊してくる、強烈な悪臭。
それは、あらゆる生ゴミを数ヶ月間煮詰めたかのような、生物として本能的な拒絶反応を呼び起こす激臭だった。
「臭い? そう言えばこの島に来てから、一度も体を洗っとらんわい! そんな面倒なことするわけなかろうが、ほーほっほ!」
大男が傲慢に高笑いをするたび、その口から、さらに鼻を刺すような黄色い悪臭の波がぶわりと漂ってくる。
「何これ……最悪……。生ゴミ以下のゴミクズが、人間の言葉を喋ってる……」
「……あんなのが王様の側近だなんて、にわかに信じがたいですわね……。品性を疑いますわ」
「お主ら、何も分かっとらんのう! 城での暮らしなんてな、窮屈でたまらんかったぞい! 口を開けたら減給だとか、一日に一度は風呂に入らないとクビにするとか王の奴が脅してきおって、儂は長いこと、それはそれは酷いパワハラを受けておったんじゃ!」
「だから、お城にいた時はあんなに無口だったのか……」
「なるほど、王様なりに、必死になって躾けておられましたのね……」
思わぬところで、王宮のトップシークレットを知ってしまった気がする。
あの渋いおじさんの寡黙さは、口を開けば品の無さが露呈してしまうからだったのだ。
「それに比べて、ここは最高の天国だぞい! 口煩い王もいないし、面倒な風呂に入る必要も、身体を洗う必要もない! 己の欲望を何一つ偽る必要のない、こここそが真の自由じゃあああ!」
「やっぱり、ハンマー使いって性欲しか頭にないキモい奴しかいないね」
「カレン! ちょっと待って、主語が大きすぎる! 全国のハンマー使いに謝って!」
必死にツッコミを入れる僕を無視して、グラントの顔から、完全に理性の色が消え失せた。
「本来、世界とはこうあるべきなんじゃ! 力を持つ者が支配し、力を持つ者が絶対! 力とは、“権利”そのものなのだからなァ!」
「だったら――四の五の言わずに、死ね!!」
カレンの怒号が響く。
ドゴォォォォォォォォォンッッッッ!!!
一瞬の慈悲もなく放たれた、カレンの巨大な紅蓮の火球が、グラントの巨躯を正面から完全に呑み込んだ。
凄まじい轟音と、視界を真っ白に染める爆炎。
これで、勝ったか――?
だが。
不気味に晴れ渡っていく硝煙の向こう側で、その大男は、鼻をフンと鳴らして平然と笑っていた。
大鎧の表面が少し煤けただけで、肉体には傷一つ付いていない。
「ほお、びっくりしたぞい。お主、炎使いじゃったか」
「効いてない……!? まさか、デブだから火に強いのか!?」
「お兄、その理屈、あたしちょっとよくわかんない」
混乱する僕を横目に、ギンカが鋭く地を蹴った。
「ふん、これならいかがかしら!」
「なんじゃと!」
続けざまに放たれた、ギンカの白銀の魔力を宿した極大の氷の斬撃。
空間ごと凍てつかせる必殺の冷気の刃。
しかし、それさえも、グラントの鎧に触れた瞬間――まるでただの水蒸気のように、一瞬で霧となって虚しく消散してしまった。
「ほーほっほ、なーんちゃって! 氷もまったく無駄ぞい、無駄無駄ァ!」
「そんなバカな! まさか、デブだから氷に対する耐性まで……!?」
「お兄様、さっきからそのデブ万能説はなんですの!?」
「さて! お喋りは終わりじゃ、たっぷりといたぶって楽しませてもらおうかのう!」
グラントが、愛用の大槌の柄尻を、力任せに地面へと叩きつけた。
「『地に伏せよ!』」
その、瞬間。
「なっ――」
押し潰されるような、凄まじい「重圧」が、僕たちの頭上から一気に襲いかかってきた。
大気が、空間そのものが、何十倍もの質量に変化したかのように重い。
身体が、一ミリも動かない。
重力そのものが、僕たちの肉体を地面へと強引に縛り付ける。
押し潰される直前、僕は反射的に、隣にいたカレンの身体を全力で突き飛ばした。
そして、ギンカは身を挺して僕を庇おうとして――。
――ドシャァァァァァンッッ!!!
「ギ、ギンカ……重い……っ。ダイエット、がんばらないと……っ」
「お、お兄様……っ!こ、これは、断じて、私の、体重ではありませんから……っ! そこだけは死んでも、絶対に誤解しないでくださいまし……っ!!」
地面に叩きつけられ、僕の上にギンカが完全に折り重なるような体勢で、僕たちは地に伏せさせられてしまった。
重力のせいで、指一本動かすのすら困難だ。
「お兄! ……と、デブ犬!」
「おいおい、小娘、戦いの最中によそ見しとる場合か?」
グラントの巨躯が、カレンの目の前へと肉薄した。
振り下ろされる、凶悪な大槌の一撃。
カレンは、重圧に耐えながらも反射的に剣を間に合わせ、真っ向からそれを受け止めた。
――だが。
ギィィィィィィィンッ! という激しい金属音と共に、大槌の圧倒的な重量に負け、カレンの剣は遥か遠くの草むらへと弾き飛ばされてしまった。
「どうじゃあ! これが最新鋭の装備の力じゃ!この隕石で作られた大槌はな、重力を自在に操るのだわい!」
「じゃあ……炎と氷が全く効かないのは、やっぱりどうしようもないクソデブだから……?」
「ほーほっほ! 儂の真の能力はな、『勇者の力の完全無効化』じゃ! 勇者から生じるあらゆる力、事象は、この儂には一切通用せん! これぞ、道を外れた勇者を裁く、執行たる由縁よ! ……あと、デブだって普通に火は熱いし、氷は冷たいわい!」
グラントは大槌を再び肩に担ぎ、勝ち誇ったように、鼻の穴を膨らませて叫ぶ。
能力の、完全無効化。
そして、相手の身動きを封じる、重力の操作。
相手を重力で完全に地に縛り付け、自慢の異能をすべて無効化し、丸腰になったところを、いたぶるように、娯楽として処刑する。
それが、この男の戦い方。
「……相手をそんな汚い方法で縛り付けて、いたぶるように殺す。それが、王様の側近で、国を守る高潔な『勇者』のやることかよ!?」
「いかにもっ!」
「性欲しか頭にない、キモクソデブスジジイ!!」
「いかにもっ!!」
「生ゴミ以下の、激臭馬鹿豚!!」
「いかにもっ!!! それこそが儂、【王の槌】“執行ノ勇者”グラント様だぞい! ほーーーっほっほっほ!!」
……状況は、最悪だった。
僕とギンカは、地面に重力で縛り付けられて身動きが取れない。
頼みの綱であるカレンは、大切な剣を弾き飛ばされ、おまけに僕たちの勇者の力は、あの男には通用しない。
万事休す。
脳裏に、「全滅」の二文字がよぎる。
――だが。
「……ふん。勇者の力が効かない、ね」
大槌を前にして、カレンが、ぽつりと冷たい声を漏らした。
その瞳から、絶望の色は、一ミリも感じられない。
「……上等じゃない」
カレンはおもむろに自らの上着を脱ぎ捨て、地面へと放り投げた。
続いて、両足に装備していた足甲を、順番にカチャカチャと外していく。
そして、最後の武器であり、彼女のアイデンティティでもあったはずの、『竜の爪』をも、その細い指先で無造作に外した。
――ガッッッッシャァァァァァンッッッッ!!!!!
彼女の手から離れた手甲が、地面に落ちた瞬間。
まるで、巨大な鉄塊でも落としたかのような、凄まじい音が響き渡り、地面にバリバリとひびが割れた。
風圧だけで、周囲の木の葉が舞い散る。
「ほーっほっほっほっほ! 殊勝じゃのう、小娘! 儂の圧倒的な力を前に、観念したか! よかろう、望み通り、その身体をたっぷりと可愛がってェッ! ――……ほえ?」
グラントが、下品に顔を歪めて醜悪な言葉を紡いだ、まさに、その刹那だった。
瞬きをする間すらなかった。
ドンッッ!! と、大気が爆ぜるような強烈な足音が響いた。
次の瞬間には、カレンの姿が僕たちの視界から完全に消失していた。
重力による拘束?
勇者の力の無効化?
そんなものが、まるで最初から存在していなかったかのように。
一瞬にしてグラントの眼前、懐へと潜り込んだカレンの生身の拳がグラントの顔面へと、恐ろしいスピードで突き刺さった。
「あぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶっっ!?!?!?」
凄まじい、人間の肉体同士が衝突しているとは思えないほどの、連続した打撃音が轟く。
左右の拳から放たれる、容赦のない、文字通りの音速の乱打。
あまりの速さに、僕の目では、彼女が一体一秒間に何発のパンチをあのじじいの顔面に叩き込んでいるのか、数えることすら不可能だった。
グラントの顔面がぐにゃぐにゃと変形していく。
「ちょ、待、おま、ぶっへぇっっ!?」
あまりの暴力の嵐に、グラントが完全に怯み、その巨体がわずかにのけ反った、その一瞬の隙。
カレンは地面を強く蹴り上げると、その顔面を目がけて、しなやかな、それでいて大岩をも一撃で粉砕するような、強烈極まりない跳び蹴りをクリーンヒットさせた。
――ドォォォォォォォォォンッッッッ!!!!!
人間一人で、百キロを優に超えるであろうグラントの巨体が。
まるで、風に吹かれた木の葉のように派手に宙を舞った。
ドシャァン!と、地に転がる音が響き渡る。
「……お、お兄様。これ、一体どういうことですの……?」
僕の上で、ギンカが呆然とした表情のまま、目の前の光景が信じられないと言わんばかりに呟いた。
「……そうか。忘れてたよ。あの手甲と足甲、実はとんでもなく重い。それがカレンの“本来の力”を殺してたんだ」
「本来の、力……?」
「そう。カレンは、勇者の力どうこう以前に――」
カレンは、激しい運動で乱れた、その長く麗しい黒髪を、後ろ手で無造作に一つへと結び直した。
その瞳には、焔など宿っていない。
ただ、純粋な、野生の獣のような圧倒的な戦闘の技術がギラギラと輝いていた。
「――『喧嘩』が、滅茶苦茶強い!」
カレンは拳をパキパキと鳴らしながら、フラフラと立ち上がってきたグラントを、冷たく見下ろした。
「さあ、かかってきなさいよ。四流以下のキモカスじじい!」




